燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









流す涙はあなたのためよ、と
無害な獣の仮面を被り
手にした刃を泡に変え
偽りの己に満たされながら
雫ひとつで、自分の心を慰める



Night.98 骨まで啜れ









ノックに応えたのは壮年の男の声で、彼ではなかった。
ズゥは先日と同じように、カートを扉の外に置いたまま、戸を開く。
部屋の中は程よく暖かい。
ズゥにとっては心地よい温度だが、若者には少々暑いのではとさえ思った。
ドクターが会釈を寄越したので、手を振って返礼に代える。
言葉も交わさぬ僅かなやり取り。
起こした半身を大きな枕に預けていた部屋の主は、そこでようやく伏せていた瞼を上げた。
――空気が震える、その目覚めに歓喜するように。
ドクターの仕草を受けて、彼の漆黒が、ズゥを捕らえた。

「……じいさん」
「起こしたか、
「寝ては、いないよ……」

ぼんやりとした声。
ズゥは自分に確認するため一つ頷き、カートの上からトレイを持ち上げた。
起きているなら、持って入ろうと決めていたのだ。
ドクターは、止める間もなく隣室へ退いてしまった。
がそれを目で追っている。

「追い出してしまったようで、悪いな」

交戦後に倒れたを看病するため、あのドクターは本部からわざわざ出張してきた。
昨日まで散々高熱に魘されていた本人は、きょとんと首を傾げている。
視線には未だ力がない。
ズゥはトレイをサイドテーブルに置いた。

「粥を持ってきたんだ」

がやんわり微笑む。

「ありがとう。後で食べる」
「いいや、今食べておきなさい。いつ任務が入るか、分からんのだろう?」

強い声で押し切ると、む、と顔を顰めが身動いだ。
シィフから聞いた通り、任務を盾にすると話をしやすい。
あの三人組は、フォーやバク、他の支部員達とも異なる関わり方をしているようだ。
残しても構わないから、と続ければ彼は渋々体勢を整える。
埋もれるように被っていた上掛けをずらした。

「それ、取って」

指された上着を、上下する肩に掛けてやる。
ズゥは鍋の蓋を開け、小さな器に数匙分だけ取り分けて、に手渡した。

「そういえば……」

枕に背を預けて匙を器に差し込んだまま、彼はそれを持ち上げようとはしない。

「爺さんに、言いたいことと、聞きたいことがあって」

さて、何だろう。
先を促すと、が肩を竦める。

「この間、俺、貴方の声を、無視したから。聞こえていたのに、……聞いていたのに」

療養に来ていた先日のことを言っているのだと、言われずとも分かった。
食の進まない彼に、茶碗蒸しを差し入れた夜のこと。
あの日のズゥの目的は、神田ユウの近況を知ることで。
彼のことが気掛かりで、ただそれだけのために、夜食などと理由をつけてに会いに来た。
なのに。

「いや、気にするな。あれは……」

教団の神様の赦しを、求めて来たわけではないのに。
そうでなくとも、本部では得られない休息を得るためにやって来たに、言うべきではなかった。
いくら、無意識に言葉が口をついたのだとしても。
そう思ったからこそ、あの時ズゥは自分で口を噤んだのだ。

「……そう、あれは、わたしの方がどうかしていたんだ。すまなかったな」
「違う、聞こえてて無視した俺が、よくなかった。……でもね、あれから、思ったんだけど」

が笑う。

「どうして、『赦して』なんて言おうとしたの?」

――それは、どこまでも無邪気な微笑みだった。
そこに、裏などないのだ。
彼はいつだって裏表なく、ありのまま思いをぶつけてくれる。
空気は、今も間違いなくただ純粋な疑問を孕んでいるだけなのだ。
けれど。
ズゥの背筋はぞくりと震えた。
神の無垢な思いに応えられるのは、同じく無垢な存在だけ。
後ろめたく、疚しく、愚かしい我々が。
真っ向から御姿を拝することなど、出来はしない。

「だって爺さんは、『赦されたくない』だろ? ……ふふ……ちぐはぐだね」

微笑みながら、おかしそうに笑いながら、彼はようやく匙を動かした。
ズゥはその匙の行く先だけに注意を向ける。
唇が控えめに開かれて、ふう、と息を吹きながら粥を冷ます仕草を。
啓示を齎すその唇に慎重に匙を入れ、そっと傾ける様だけを、注視する。
そうしていないと、今にも椅子から滑り落ちてしまいそうで。
床に這いつくばって項垂れてしまいそうで。
表皮をべろりと剥いで、自分という中身をぶちまけてしまいそうだったから。

「(今更、綺麗なもののフリをする必要など、ないけれど)」

は一口をゆっくり、大儀そうに咀嚼する。
ズゥは、狭い狭い息を吸った。

「そう、だな。わたしは……」

彼の漆黒がズゥを射抜く。
否、心の中心から彼の存在が根を生やし、広げ、現れる。

「赦してもらおうなんて……思っては、いないんだよ」
「うん」

許されぬ過ちも、この世には恐らく、あるのだ。
赦されてはならぬ、赦されようなどと思うことすら許されぬ過ちも、あるのだ。
在ってよいのだ。

「亜(アジア)第六支部のことは、わたしが抱えていくべきものだ。我々の、過ちとして」

彼が優しく目を細めた。
人造使徒、第二エクソシスト計画を、他ならぬズゥが忘れる筈もない。
だが目的そのものは、間違っていなかったと思っている。
今でも。
あの日喪った者達の姿を鮮明に思い浮かべてなお、その思いは変わりはしない。

「(そうでもしなければ、勝ち目などないと思った。思っている)」

ズゥが生んだあの計画は、自らの澱みで育んだ杭に貫かれ、血溜まりに沈んだのだ。
どうしても、千年伯爵に勝ちたい。
勝たなければならない。
けれどこの負け戦の中で、助けになるはずだった人造使徒計画すら頓挫した中で。
勝つために戦っているのは、誰だ。
ズゥは思い返す。
何故あの日、「教団の神様」を前にして、無意識に赦しを請うたのか。

「それでも、その皺寄せがいくのはエクソシストだろう」

すまない。

「結局は、お前達ばかりに、犠牲を強いているだろう……」

その言葉は、適合者ではない者が持つ共通の妬みと嫉みと、懺悔だった。
しかしきっと、適合者からすれば他愛もない、世間話のようなものだった。
瞳を瞬かせたが、呟く。

「それは、貴方が悪いのかな」

肩でゆっくり息をして、彼は腕を下ろした。
匙を差したままの器を両手で包み込んで、気の抜けた笑みを此方に向ける。

「それは、貴方に責任があるのかな」
「責任の話を、しているんではないんだよ。ただ、」
「ただ?」
「……『誰が』ではない。けれど『我々』ではあるのだろう、と……」

ただ、イノセンスに適合したからというそれだけの理由で、彼らはすべてをその手から奪われる。
望まぬギフトのために、彼らは我々からもすべてを奪われる。
それが、どうにも、心の片隅で蟠っている。

「(……わたしも、随分と変わったものだなぁ)」

こんな自分をマルコムが見たならば、鼻で笑われることだろう。
どの口がそれを言うのか、と。
今の自分を、ズゥの代わりに贄となったトゥイ達が見たら何と言うだろう。
それでも。
――この世界で、生身の剣として生きる彼らが、ヒトであるという事実。
見たくなかった。
目を背けていた。
それでも、過ちを犯し多くを失いすぎてようやく、見てしまったのだから。

「苦しい思いをしていない人なんか、いないんじゃない。少なくとも、この、教団には」

吐息が、語る。

「その思いを、較べることなんか、出来ない」
「ああ、……そうだな」

ズゥはゆっくり頷いた。
吐息は、語る。

「それに、……エクソシストは、そういう『モノ』だよ」

ズゥは頷きかけて、顔を上げた。

「お前達は、――」
「――『兵器』だよ。俺達エクソシストは、神様がこの世に齎した兵器だ」

確たる芯を持って紡がれた言葉に、固く強く目を瞑る。
それが。
嗚呼、それこそが。

「(お前達にそう思わせたのは、紛れもなく『我々』なのだ)」

空気が、宥めるように優しく頬を撫でた。

「アジア支部は、面白い……此処にいると、誰でも『人』になれるみたいで」
「……バクに言ってやれ。きっと、喜ぶ」

そう感じてくれるのだとしたら、バクが、この場所を変えたのだ。
我らの過ちを乗り越え、踏み越え、歯を食い縛りながら。

「うん……きっと、そうだね……」

器がカチャ、と音を立てる。
が二口目をゆっくり、ゆっくり噛み締めている。
その喉の動きに、目が、縫い止められる。
彼は、ズゥの視線などものともせずに粥を飲み込み、溜め息のような吐息を零した。
下ろした器を、す、と差し出す。

「ごちそうさま。美味しかった」

後でまた食べたいな、なんて。
常の自分ならその食の細さに眉を顰めたのだろう。

「爺さん、」

凛と行き渡る声に、それは阻まれる。

「――赦すよ」

器を受け取ったままの体勢で、ズゥは、頭を垂れる以外のことを何一つ出来なかった。
空気が微笑む。
彼の微笑みを、心が直に感じる。

「赦すよ。……気に病まなくて、いいんだよ」

神の御言葉に、内臓が、震える。
皮膚の内側がじわりと温められる。
鳩尾の奥の奥に、光を灯される。
後悔が、身を焼いた。

「(すまない、)」

今、たった今だ。
聞こえたのに、聞いていたのに。
彼の声を、無かったことにしてしまった。
熱くなる目頭。
器を持つズゥの手を、のひやりとした手が握る。
人の愚かささえ、全て甘やかに包み込んで。









――赦すよ、ミザン――
――もう、苦しまなくていいんだよ――

「(うそつき)」

こんなに、苦しいではないか。
この世は、こんなにも、苦しいではないか。

「ぐ、ぎぃッ、あああっ」

――ただ、俺は人間が好きなんだ――
――だから、助けたい、って思う――

なら、助けてくれ。
やれるものなら。
やれるものなら、助けてくれよ。

「ヒッ、ィああアあアアア」

――俺に救える命なんて、世界から見たらちっぽけなものかもしれないけど――

いいんだ。
ちっぽけであろうと、確かに在るんだ。
此処にいるんだ。
叫んでいるんだ。
だから。

「(たすけて)」

――それでも、守りたいんだ――

「ガ、ァアアアッ! アアあアァァアアア、ィ、シテ……」

――赦すよ――

「(ゆるして)」

愛してくれるのだと。
これで、家族になれるのだと。
家族の、無条件な、永遠の、愛を。
愛して、くれるのだと。
これで、愛されるのだと。
――点滅する世界の中に、混じり合う金色と黄金色。
手を伸ばした先で、それは凍りつき、砕けた。









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