燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









調和を乱すのは、誰
澱みを生んだのは、誰
歪な星を毟り取ったのは、誰?
いいえ、
誰もがきっと、気付いていた



Night.97 山頂にて誓う者









「いったい、何を考えておいでですか」

自分でも、随分冷たい声を発したと思う。
目の前には、項垂れるアジア支部長バク・チャン。
電話の向こうには、小さな声で応える本部室長コムイ・リー。
指揮官達を前に、本部医療班所属の医師ヒリス・クラーセンは憤りを隠さなかった。

「あなた方はご存知のはずです。彼が、自分のことを一欠片も慮れない質なのだと」

――後悔している。
私は生命を前にして、その揺らぐはずもない究極の優先順位を、違えたのだから。









将来に疑いなど抱かなかった。
周囲の友人も、誰もが同じだ。
自分は親の仕事を継ぐのだと、当然のように医者を目指した。
父は祖父から医術を学び、町の修道院を学び舎とした。
だから自分も、同じ道を辿っただけだ。
人々が健やかに過ごせることに手を貸したいなどという思いは、その途中で芽生えたもの。
現在の医学に限界があることを知ったのも。
ならばせめて心穏やかに、心だけでも健やかに旅立たせてやりたいと思ったのも、その頃だ。

「私も、先輩のような腕の立つ医者になりたいです」

自分を慕ってくれる後輩と旅行をした先で、目の前にいた人が謎の浮遊物体に撃たれた。
ついた膝が血の海に触れる前に、被害者は体中にペンタクルを浮かべ、砂となって消えた。
その無情な光景をきっかけに知った「黒の教団」の一員となり、数年。

「……ごめ、な、さい……ごめん、なさい……」

処置室に急患として運び込まれた少年を最初に受け入れ、処置した。
それがヒリスと、担当患者になるとの最初の出会いだ。
尤も、意識のなかった彼は、そんなことを知りはしないだろうが。
前代未聞、個人で二つのイノセンスと適合したエクソシスト。
教団の、中央庁の期待は大きかった。
ちょうど室長が代わり、人体実験に手を出せなくなった時期だったことも影響したのだろう。
戦力は限りなく少ない。
持てるものを最大限に使おうというのだ。
けれど。

「どんな、大怪我を負っても? どんなに重い病気にかかったとしても、ですか?」
「そうだ。身体の動きを拘束するような処置は禁ずる。いつ何時でも、任務可能な状態に整えるよう」
「(何を、言っているんだ?)」

年端もいかない少年に。
イノセンスなどという異物を身に宿した、たった十年と少ししか生きていないこどもに。
否、「人間」に対して、中央庁からの「お達し」はあまりにも惨かった。

「……そうして、貴重な適合者を使い潰すのですね」

婦長をはじめとしたナース達の怒号を背中に聞きながら、ヒリスは皮肉で伝令役の役人を刺す。
しかし返された眼差しはそれより遥かに冷たく、手術刀のように鋭い。

「そうならないように彼を管理するのが、あなた方の仕事だろう」

無茶苦茶だ。
滅茶苦茶だ。
仮に彼らのように、適合者を兵器として扱うのだとしても。
考えてもみろ、適切な治療をしないことに得などない。
マイナスの状態で送り出すのではすぐに壊れてしまう。
どれほど愚かで、それこそ無駄なことを言っているのか、彼らにはその自覚がまるでない。
話の通じない輩め。
当然、そう思った。
けれど同時に、ヒリスは秤にかけてしまったのだ。
入団半年で「教団の神様」の異名をとる少年の価値と、彼個人の「人としての権利」を。

「(我々が守らなければ)」

こうしている間にも、世界中へ派遣された探索部隊の大半が命を散らしているのだ。

「(同じ年代の子供よりも小柄なくらいの、この華奢な肉体を)」

こうしている間にも、名も知らぬ旅先のあの人のように、ペンタクルに侵される人がいるのだ。

「(私が、この子の主治医なのだから)」

こうしている間にも、千年伯爵は世界を破壊せんと動いているのに。

「(……どうして、世界を守る刃を鞘に納めて飾っておける?)」

どうして、蔵の奥深く、鍵をかけて兵器を仕舞っておくことができようか。
天秤は、ガタン、と音を立てて傾いた。
――その瞬間、医師としてのヒリス・クラーセンは死んだのだと、思っている。









「おかえり、。さあ傷をみせてごらん」
「ただいま。掠り傷だよ、これくらい大丈夫」
「ふうん……、さあ、みせてごらん」
「えー、嘘じゃないってば。それより、空調入れてないの? 寒いね」
「寒い?」
「……ううん、寒くない寒くない。俺、科学班行ってくる」
「こら、待ちなさいっ」
「はーなーしーてー!」

自称「健康優良児」のは体の使い方が上手いようで、病気や不用意な怪我が少ない。
だからこそ「聖典」の大きすぎる負荷に耐えて生きていられるのだろう、との推測は済んでいる。
その一方で、他人を庇って深手を負ってくることがたいそう多かった。
それはそれは多かった。
寧ろ、怪我の大半は、それなのだ。

「どうして腕が折れたまま船を漕いだりしたの! よりにもよって、あなたが!」

腫れあがった腕。
上がり始めた熱に反して青ざめた顔色のまま、婦長の怒声に彼は答える。

「……だって、俺の怪我は大したことないから」

胸をアクマに切り裂かれ、血塗れでベッドに横たわり、彼は幸せそうに瞳を蕩けさせて笑う。

「よかった……皆は、無事でしょ……?」

寄生型イノセンス「聖典」の齎す痛みに、熱に、歯を食いしばって耐えた朝も。

「おはよ、ドクター。ねぇ、俺、身長伸びたよね?」

彼は一睡もしていないだろうに、ヒリスが顔を向ければ、頬を緩めるのだ。

「身長、測っていい? 多分もう、ユウを抜いたんじゃないかと、思うんだけど」

そうして話を逸らしに逸らし、その末に病室を抜け出すのは毎度のこと。
彼が自らの身を案じる言葉を、医療班のスタッフは聞いたことがない。
恐らく、戦地で行動を共にする探索部隊員も、彼が兄のように慕う科学班員も。
同じ立場のエクソシスト達も、同じなのだろう。
明るく爽やかな声色は、人を安らぎに導く微笑みは、自分の不調を誤魔化すため。
人の心を鷲掴みにする空気は、自分の不具合を包み隠すため。
人の目だけではない、時には計器さえも全て狂わせて。
そうしては、いつだって真実をまやかしの向こうへ追い遣ってしまう。
初めからそうだった。

「俺は、大丈夫だから」

心配を掛けないように、迷惑を掛けないように、自分に関することで人を不安にしないように。
そうなることを恐れているかのように、彼は細やかに気を回す。
とはいえ医療班からすれば、それは必ずしも此方の負担の軽減には繋がらない。
ナース達は日々、溜め息と共に呟きあっている。

「もうっ、また探索部隊に言われちゃった」
「私も私も。神様と関わり合えるなんて羨ましい、って」
「『世界一の大嘘つき』さんと渡り合う気があるなら、ぜひ来てもらいたいところだよね」
「そういえばさっきも婦長が探しに出てたよ……」

ヒリスは、こうも思うのだ。
もしやは、自分が他人から慮られる存在であることを認識出来ないのではないか、と。
人々の期待には敏いくせに、向けられる愛がまるで見えていないのではないか、と。
――そんな彼を、そうと分かっていながら見捨てた自分に、もはや出来ることなど。
自分の中の蟠りが吹き飛んだのは、教団がノアとレベル4の襲撃を受けたあの時だった。
取り返しのつかない事態に陥って、ようやく目が覚めた。

「ここで伯爵に遅れをとるわけにはいかない。何としても彼を蘇生させなさい、ドクター」

の居場所を教えてくれたのは、ヒリスを探していたルベリエだ。

「『聖典』なら、意識さえ戻れば戦場に復帰させることも可能でしょう。どんな手を使っても……」

考えるより先に口が動いた。
腹の中で煮えたぎる自分への、ヒリス・クラーセンへの怒りが、先走る。

「……あなた方の指図は、もう受けません」

言われなくても、手を尽くすに決まっている。
けれどそれは、戦力を維持するためではなく、神を喪わないためでもない。
を、救うためだ。
戦場に出ないヒリスには「教団の神様」なんてものは見えない。
世界を救うエクソシストなんて、知らない。
目の前に在るのは、他人にしか愛を配れない、壊れた不器用な青年だけだ。

「彼の主治医は私だ、口を挟むな!!」









「……ドクター……?」
「やあ、おはよう」

アジア支部の病室。
支部長補佐のウォンによれば、先日世話になったのはこの部屋だそうだ。
彼は信用と信頼のおける相手である、ヒリス自身より、ずっと。
ヒリスが笑顔を向けると、浅い呼吸のまま、は部屋を見回した。
さむい……、吐息が零す。

「ここ、……本部……?」
「いいや、まだアジア支部だよ。私が出張してきたんだ」

困惑を湛えた漆黒。
ヒリスはそっとの手首に触れた。
平熱がとにかく低い彼の手首が、たいそう熱い。
この様子だと、あと二度は上がるだろう。

「私は怒っているんだよ、

今、彼の体調は、短時間で大きく揺れ動く。
一昨日の昼も、隠れて食事を吐き戻していたことをヒリスは知っている。
昨日の夜は久方ぶりに小康状態。
今朝は「いつも通り」だった。
常人なら止まない痛みに身を竦ませ、倦怠感と酸欠で起き上がれないだろう。
けれど彼は「慣れたから平気」と微笑みながら、言われるまま任務にさえ行ってしまう。
今日は神田の機転に救われたかたちで、気晴らしをさせるために修練場へ送り出した。
病室と建物を同じくする、いつでも駆け付けられる場所だったからだ。
それに思い至ってか、が顔を曇らせる。

「……戦闘は、仕方ないでしょ」
「きみが戦うことに、私が一度でも反対したことがあったかい?」
「……ない……」

これまでのヒリス・クラーセンは、中央庁の決定に従順な「良いドクター」であった。
だからこそこれまでの「ドクター」は、を心配しない「気楽な相手」であったろう。
その「ドクター」の仮面を、ヒリスは被り続けることにした。

「でも、じゃあ、どうして……」
「私はきみの主治医だ。きみの状態を把握する義務がある」

医師を続ける資格は、とうに無い。
そんなこと、自分が一番分かっている。
けれど、の主治医だけは、投げ出してはいけない。

「どうして私に何も言わず、外出してしまったんだい?」
「コムイには、言ったよ」
「私は聞いていないよ」

が僅かに顔を背け、目を逸らした。

「きみが今日、どんな調子だったのか。知っているのはコムイ室長じゃない、私だ」

うんざりしたような表情、けれどちらりと此方を窺う瞳。
今この場で、ヒリスが雷にでも打たれて死ぬのではないか、なんて。
きっと彼は、本気で、心の底から案じているのだ。

「(死んでしまうのは、きみだよ)」

こんな戦い方を続けていたら、すぐに壊れてしまうよ。

「(きみは、神様なんかじゃないんだ)」

きみはいずれ死ぬ。
ただ他人より少し丈夫なだけの、人間の肉体しか持っていないのだから。
そうして案じる言葉を、気持ちを、彼はどうしても片っ端から拒絶してしまう。
そういう質なのだ、そういう風にしか、生きられない。

「きみのやりたいことを、止めはしないさ。今までもそうだったろう」

そんなきみを見捨てた私は、だからこそ最後まできみの邪魔をしよう。
己に罰を与えるかの如く自分を切り刻むきみの最期が、せめて、ほんの僅かでも安らかであるように。
全力できみの目論見を妨げると、決めたのだ。

「一言、行き先くらいは言い置いて欲しかったな」
「……それで、何か、変わる? ただ、居場所が分かるだけだろ……」
「そうだよ。それでも、きみが本部にいるかいないかで私の心持ちは違う。知らなかったろう?」

漆黒が、ヒリスの鳶色を見上げる。
ようやく此方を見てくれた。

「駆け付けられる距離なのか、いつでも帰ってこられるよう待つべきなのか。安心させて欲しいんだ」
「……今は、心配、してたの……?」

手首の筋に緊張が走る。
脈が途端に、輪をかけて速くなる。
ヒリスはそっと首を振る。

「気にかけていたんだ」

寒い、寒い。
常にそう訴える冷たい手を、温かな自分の手で握った。
手首には新しい包帯、この丁寧さはウォンの仕事だ。

「それが私の仕事だし、私はきみを気にかけることが嫌いじゃないからね」

漆黒から、す、と光が消える。
焦点が合わなくなる。
自分の話が、彼の心を素通りしたことがはっきりと分かった。
その言葉は俺には相応しくない――といったところか。
ヒリスは息をついて苦笑する。
今日は、比較的よく話を聞いてくれた方だった。
鏡に映るくすんだ金髪とはとても同じ色では表現できない彼の黄金色を、擽るように撫でる。
が逃れるように、或いは首元まで毛布に埋もれるように身動ぎ、瞼を下ろした。

「寒いかい」

返される首肯。
浅く、速い呼吸。
ヒリスは手を離す。
年若い三人組に用意しておいてもらった羽毛布団を、体の上に重ねる。
ヒリスが到着するまで、の傍らについていてくれた三人組だ。
彼らは、友達だと名乗った。
友達、――よい言葉だ。
ただでさえ、エクソシスト以上の信仰に磨り減っていくばかりの彼に。
心を踏み砕かれ吹き消されて、もはや砂のような粒子が僅かに残るだけの、彼にとって。

「次からは、必ず行き先を教えて」
「……うん」



きみの最期が、私の最後だ。
何も出来なかったのではない、私は何もしなかった。
けれどきみの苦しみを一番近くで見てきたのは私だ。
見ていただけだったのが、私だ。
だから私は、最後まで、きみと。









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