燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









夜闇の覆いに縫い留められたのは
あまさず全てが一等星で
綺麗だね、と見上げたきらめきは
あまさず全てが紛い物



Night.96 瞳の中の世界は美しい









「――っ、は……」

誰からともなく、息をつく。
耳に支部員達の声が届き始めて、バクはようやく無線のスイッチを入れた。

「助かった、。此方に戻ってくれ」

ゴーレムを見上げた瞬間の彼に、やはり表情は欠落していて。
けれどすぐに、――うん、とにっこり返すから。
バクの他に気付いたのは、隣で体を硬直させたフォーだけのようだった。
興奮した室内では、誰もが口々に神の御姿を語り合う。
異常なざわめきは、彼が部屋の入り口に現れたときに鎮まった。
が微笑む。
伏し目で。
その笑みに、頬を紅潮させる者も、涙ぐむ者も、呼びかける者もいた。
の視線はそれらを一通り撫でて、バクの背後、方舟に向けられる。
身を引いたルーキー達には目もくれず通りすぎ、フォーが思わず伸ばした手もするりと躱して。
「用は済んだから、俺、戻るね」
微笑みを湛えたままのが、バクの横をすり抜けた。
ひやり、空気の薄刃に背筋が凍る。
逃してはならない。
バクは何とか口を開く。

っ……」
「こんっのやろ、!」

その時、李桂の声が空気を突き抜けた。
突然の大声に金色がびくりと固まり、後ろを振り返る。
バクも、フォーもウォンも、興奮一色だった団員たちも、皆が三人組に目を向けた。
李桂が鼻息も荒く怒鳴った。

「あっぶないだろ! あんな前触れもなしに!」
「そうですよぅ! あたし、もうっ、ビックリしたんですからぁっ!」

顔のそばを通りすぎたイノセンスの銃弾を思い出したのか、蝋花が半泣きで叫ぶ。
シィフはまったく、と溜め息をついて、腰に手を当てている。

「あれは戦闘行為なんだ、っていうのは分かるよ? でもキミは言葉が少なすぎる」

三人が喧しくわあわあと捲し立てるその様子に、支部員達が僅かに眉を顰めた。
けれど、三人は気にしない。
気にする必要もない。
だって彼らは、ただ友人に文句を言っているだけなのだから。

「――っ、ふ、」

あははははっ
唐突な笑い声が、「友人達」への視線を散らす。

「あははははははっ」

振り返ると、が腹を抱えて体を震わせながら笑っていた。
バクはぽかんと口を開けて彼を見つめた。

「ど、どうした?」

何がおかしいのか、見たこともないほど楽しそうに、否、愉快そうに。
バクの問いかけに、肩を喘がせながらが顔を上げた。
目尻には涙まで滲んでいる。
それを指先で払って、彼はようやく、いつも通りに笑った。
空気が緩み、宥めるような温かさで部屋を満たす。
彼の瞳はバクには向けられず、ルーキー達を真っ直ぐに包み込んだ。

「なるべく気を付けるよ」
「なるべく……ってお前、それ絶対気を付けるつもりないだろ!」
「あるある」
「言葉を繰り返すとき、人は大抵まともに聞いてないんだよね」
「なんだよ、ちゃんと聞いてるって……」

李桂にもシィフにも、彼らから掛けられた言葉と等しく軽やかに声を返す。
蝋花には、眉を下げた笑顔を向けた。

「驚かせてごめん、蝋花」
「うううっ、なるべく気を付けてくださいねっ」
「うん、なるべく」

バクはほっと肩の力を抜く。

「また来いよ」

三人に便乗し、フォーが前のめりで発した言葉に、今度は柔らかな視線が向けられた。
零れる吐息、揺れる瞳、彼が頬を緩ませる。
微笑むだけだ、出来ない可能性のある約束を、彼は決してしないから。

「(ん……?)」

いつもならその応えを笑顔で見送ってやれるのに。
違和感がある。
その原因に行き着くより、ずっと早く。
が方舟に向き直ろうとして――ぐらりとバクの方に倒れ込んだ。

「お、おいっ!?」

バクは慌てて腹に力を込め、手を伸ばす。
なんとか受け止めたはいいが支えるまでは至れず、あえなく潰れた。
フォーがタラップを駆け上がる音。
ウォンが持っていたバインダーを落とす音。

「バクさま!」
「たたた助けてくれぇ、ウォン……!」

受け止めた体にはまるで力が入っていない。
意識がないのか。
支部員達が悲鳴を上げている。
パニックになる前に、場を鎮めなければ。
そして自分もなんとか立ち上がらなければ。
ウォンがを抱き起こした。
声をかけながら彼の手首に触れている。
バクは段差に打ち付けた尻を擦り何とか立ち上がった。

「痛たた……じゃないっ、おい、!」

慌てて目を向ける。
ウォンに肩を抱かれたが小さく笑った。

「……殿、」
「あ、はは……へいき……ただの、立ちくらみ……」

掠れた声。
彼は一度喉を上下させ、支部員達へ顔を向ける。

「皆も、ごめん。心配しないで」

その声は、普段と全く変わりがなかった。
微笑みに、言葉に、場を渡り満たしゆく空気に、バクはぞくりと震える。

「(何故だ)」

思わず支部員達をまじまじと見回した。
だって、悲鳴はもう聞こえない。

「(『ああ、よかった』……?)」

何故、この真っ青な笑顔を見て安堵の表情を浮かべられるのだ。
何故、ほっと胸を撫で下ろすことが出来るのだ。

「(何故、そうさせてしまえるんだ)」

フォーが膝をついて、彼の肩に触れた。

「なあ、任務ないんだろ? ちょっと休んでいけよ」
「いいって……」

笑いながらフォーの手を振り払おうとしたが、ウォンを見上げる。
彼の手首を、ウォンが握っているのだ。
ずっと。
逃がさぬように。

「ウォン、離して」
「いいえ、殿」

返されたのは、珍しいまでに固く厳しい声だった。
バクは彼のこんな声に、つい背筋を伸ばしてしまう。
驚きからか、がぱちりと目を瞬かせた。

「……なに……?」

無防備な声に、ウォンが優しい微笑みを返す。
彼はそっとの手を握り直し、もう片方の手で肩を撫で下ろした。

「ゆっくりしていかれませ。まだいらしたばかりではないですか」

李桂が呼ばれ、駆けてくる。

「彼を休める場所へ。……落ち着かれた頃に、とびきりのお茶をお持ちしますよ」

どこまでも優しさで編まれた微笑み。
その隣で李桂が腕捲りをしている。
李桂の持っていた荷物は、いつの間にかシィフが預かっていた。

「心得ましたぁ! ほら行くぞ、!」
「ちょっと、李桂、……うわ、」

身を屈めた李桂が、素早くそして強引にを背負って立ち上がる。

「暴れるなよ、落とすからなー」
「は……? いや、下ろせって」
「だいじょうぶ! 李桂を信用してください!」
「足取りは丁寧にね」

言い合いながら、彼らは颯爽と、あっという間に部屋を出ていってしまった。
取り残された科学班員達は、呆気に取られた表情で、しかし徐々に仕事に戻っていく。
様は相変わらずすごい。
今回も救われた。
やはり特別な存在、御心のなんと広く深いことか。
そう、彼らの不安は、とうに本人の力で払拭されてしまっているのだ。
本人の力、神様の空気に惑わされて。
顔に影が射す。
皆を眺める穏やかな笑顔のまま、ウォンが耳打ちをした。

「バクさま、本部の医療班に連絡を取りましょう」

思わず見上げる。

「今は、安静にして頂くべきです」

会話を盗み聞きしていたフォーは、聞くなり若者達のあとを追って駆け出した。
バクは唇を噛み締めて、眉間に手を当てる。

「(病室を確保、コムイに連絡、謝罪、それと主治医の派遣を要請……)」

此処では内密な話は出来ない。
バクとウォンは、喧騒に紛れてそっと部屋を出た。









ミザン・デスベッドは、大変困っていた。

「ちょっと、なに、ティッキー。あ、もしかして妬いてる?」
「それだけは絶対ねぇよ」

自分を挟んで、大の大人が二人、揉めている。
14番目のノアと先代のノア達が死闘を演じたのは三十五年も前のこと。
第1使徒『千年伯爵』、第9使徒『夢(ロード)』。
二人を遺して死んだノア達は、世界のあちらこちらで転生した。
残りのメモリーも間もなく覚醒し、全員が揃うだろう。
そんな話をミザンが聞いたのはつい先日だった。

「ミザンは何も覚えちゃいないんだ、って」
「何も、ってどれくらい? 本当に一欠片も? だって、生活に必要な知識は覚えてるんだよね?」

ああ、それは記憶の種類が違うのですよ。
そう口を挟んだところで、果たして聞き入れてもらえるかどうか。
見ずとも分かるこの豪邸の家主、シェリル・キャメロット。
第4使徒『欲(デザイアス)』は、人間としてはロードの養父である。
けれど、この喧騒を鼻歌混じりに眺めるロードと比べると、違和感が大きい。
ロードは、未発達な少女の体躯ではあるものの、例の「三十五年前」に生き残った側だという。
声の幼さに反して、随分と艶めいた笑い方をするのはそういう理由なのだ、と。
聞いたときには驚いたものだ。
ノアの一族。
この世には、医学では説明のつかないことがたくさんあるのだ。

「それで? ミザン。ううん、僕の可愛いロードに倣うなら、ミザニー?」

やだぁ、真似しないでお父様ぁ。
んんんっ、ごめんね我が愛しの娘よ!
そんなやり取りを挟み、シェリルがミザンに詰め寄る。

「勿体ぶらないで僕にも教えてよ、カミサマのこと」
「……はい?」
「だぁから、無茶言うなっての、シェリル」

ミザンの傍らで溜め息をついたのは第3使徒『快楽(ジョイド)』である。
彼は、ロードと共によくミザンの面倒を見てくれる。
記憶を失って道端に倒れていた自分を、彼らと千年伯爵が拾ってくれた。
目に酷い怪我を負っているのだと、千年伯爵はミザンに告げた。
恐らくもう物は見えぬだろうと。
痛々しい傷を隠すために与えられた「紫色」のスカーフでミザンは目を覆っている。
なぜ「紫色」と分かるのかといえば、答えはただ一つ、「見える」からだ。
薄っすら開けた目は、光を感じることができる。
色も認識できる。
まるきり見えなくなってしまったわけではない。
不自由はある。
けれど、自分を拾ってくれた人々が、愛しげに自分を呼ぶので。
もうしばらく、せめて記憶の一欠片でも戻るまでは、このままでいてもよいと思ったのだ。

「(愛とは、得難いものだ)」

愛されることは、当たり前の幸せではないのだ。
愛してくれる人は、それだけで尊いものなのだ。

「(身内ですら愛さない『俺』を、愛してくれた人は、……)」

すべてを失った身だ。
否、そうでなく、何か、かけがえのないものを、失ったような。

「(……この想いは、どこから)」

ミザンは軽く首を振り、シェリルへの返答に替える。
以前のミザンについて聞かれても困る。
ミザン・デスベッド。
記憶を失い、視界を失い、千年伯爵に拾われたミザンは、それがすべてだ。
――今のミザンには、それがすべてだ。

「なんだぁ、面白くないな。目の覚めるような金色……僕も見てみたいのにぃ」

――金色
――金色
――きんいろ、

「ね、ね、ミザニー」

後ろから首に抱きついたのはロードだ。
彼女はそのまま、ミザンの長い髪をグシャグシャに握る。

「あっ、こら、ロード! 離れなさい!」

シェリルの悲鳴は、ロードの耳には届いていないらしい。

「聞いたぁ? 千年公が、今度ミザニーにプレゼントくれるんだってぇ」
「おや……ありがたいことですが、私はもう十分頂いていますからねぇ。貴女にお譲りしますよ」
「あはっ、ボクが貰ったって、使う機会がないもん。ありがたついでに貰っときなよぉ」

貰うべきものだよぉ。
んふふ、と零れる声。

「ミザニーには、千年公も期待をしてるんだぁ」

――期待。
ミザンは紫色の中でふるりと瞼を震わせた。

「期待、ですか」
「そう、期待」
「こんな私でお役にたてるでしょうか……ロードも、私になにかを期待しているのですか?」
「ボク? ボクはねぇ、んーとねぇ、……ボクはミザニーのこと、大好きって思ってるよぉ」
「それはそれは、光栄です」
「当たり前でしょっ、僕の娘に手を出したらただじゃおかないからね」
「お前はロードの何なんだよ……」
「『お父様』だよ! もっちろん僕はティッキーのことも愛しているよ、安心して」

うなじを、温かな鼻が掠める。
首筋に、丸く小さな頭が擦り付けられる。
髪が頬を擽る。
そうして、耳朶に触れた柔らかいものは、そのまま耳元に吐息を零した。

「本当だよ、ミザニー。……大好きなのは、本当」

ミザンはそっと囁く。

「……私はノアの一族ではありませんよ、ロード」

一拍置いて、耳朶をガチリと噛まれた。
慌てて耳に手を遣れば、遠ざかる温もりと笑い声。
きっと血が垂れているのだ、ティキがうわ、と声を漏らす。
ざまあみろと鼻で笑うシェリル。
ミザンは仄かに頬を緩ませた。
得難いものだ。
この生温い湯のような、愛の泉は。
だから、これを手離さずに済むというのなら。
見離されずに済むというのならいっそ。

――思い出せぬ過去など、そのまま捨て置いてしまおうか









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