燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
すべてを創り給うた貴方は
すべてを壊してしまえるでしょう
掌の上の小さな箱庭
其処で何が起きようと
其処に何が在ろうとも
ねえ、貴方に怖いものなど
きっとひとつも無いのでしょう
Night.95 きみを神と呼んだのは
室長が代わって半年ほど経った頃、バクは本部での会議へ出席することになった。
大量のアクマに狙われたアジア支部から支部長を本部へ送り届ける。
それだけのためにエクソシストが四人も集められたというのは大変珍しいことで。
逆なら分かる。
例えば負傷したエクソシスト一人を本部へ移送するため、探索部隊が盾となることを求められたのなら。
けれど、そうでないのは前代未聞だ。
「(それほどに、今、支部の周りは酷い状況ということだ)」
連日連夜のアクマの襲撃。
守り神たるフォーの力に疑いはないが、建物自体は過剰な攻撃に耐えられるものではない。
標的の建物から白服と共にエクソシストが四人も出てきたら、アクマはきっと食いつくだろう。
これは支部長一人を囮にして、支部一つを守り抜こうという異例の作戦なのだ。
「(人柱となることに、異存はない、が)」
自分が死ねば、この支部の守りも機能しなくなる。
チャン家直系の血が絶えてしまえば、フォーを「使う」ことは出来ない。
「(なるべくなら、生きて帰りたいところだ)」
――そんな見通しは、甘かったのだ。
勤続二十年、歴戦を潜り抜けたベテランエクソシスト、ピエール・アガニ。
ティエドールの一番弟子、ノイズ・マリ。
半年前に入団したマリアンの秘蔵っ子、・。
これが二度目の任務だという新人の寄生型エクソシスト、スーマン・ダーク。
通常の任務ならば勿体無い豪華な布陣だ。
けれど出立から数十海里、逃げ場のない洋上の船。
無事に両足で立っている者は、片手で数えるほどだった。
「、下がれっ!」
小柄な自分よりもさらに小さな、未成熟の身体。
バクは細い腕を捕らえ、彼を、力尽くで物陰に引き込んだ。
「離してっ! 俺が一番、怪我もしてない! まだいける!」
「ああそうだ、キミが一番傷が浅いっ、――だからだ!」
この場で最年少の金色が、バクを振り仰いで愕然と漆黒を見開いた。
バクは、の両肩を正面から掴み、目線を合わせる。
ピエールの対アクマ武器である大槍は、柄が真二つに折れ、使い手はアクマと組み合って脚を折った。
甲板に崩折れた彼を守る弾みに、三人の探索部隊が砂と消えた。
スーマンにアクマの弾丸は効かないが、多量の出血は余人と同じ危険を齎す。
事実、スーマンは先程から意識がない。
彼の傷を押さえていた探索部隊の一人は、流れ弾に当たって死んだ。
飛び交う弾丸に、マリは咄嗟に顔を背けた。
それが功を奏したが、彼のヘッドホンは彼ごと吹き飛ばされた弾みで壊れてしまった。
それでも彼は身を低く伏せながら、険しい顔でイノセンスたる弦を操っている。
マリが把握できない場所で、数人が撃たれ、数人が海へ落ちた。
「ボクたちはもう、進めないだろう。けれど、キミだけなら小舟で逃げ切れるかもしれない」
いやだ、いやだ、とが首を振る。
彼は縦横無尽にアクマの大群を踏み分けては撃ち壊し、飛び越えては漆黒の牢獄で消し去った。
余裕さえあれば、軽快で鮮やかでそれでいて苛烈なその動きにバクは見惚れていただろう。
誰よりもアクマに接近し、誰よりも敵を屠ってなお、この子は多少の切り傷程度で済んでいる。
だからこそ。バクは、額から垂れる血を手の甲で拭った。
「逃がしてみせる。ボクたちが囮になろう。キミが未来で救う世界を、ボクらも救うべきなんだ」
なぁ、だから、お願いだから聞いてくれ、聞き入れてくれ。
絶望に染まる漆黒。
穢れを知らない無垢な瞳が映すには、自分達はあまりに浅ましく、愚かで、脆弱だった。
「弱くてすまない。足を引っ張って、悪かった。キミが気に病む必要はない。だから、」
「おんヤァ? キミィ……」
上空から、奇妙な男の声が割り込んだ。
――上空から、だと?
ざらついた冷たい舌で背を舐められたように怖気立つ。
震えながらバクは顔を上げ、そのまま息を止めてしまった。
「(アクマ……では、ない)」
シルクハット。
長い耳。
風船のような体。
大きな歯。
手に持った傘で正面の空に浮かぶ、その男は。
本能が察した――殺される。
手に力など入らない。
腰が抜ける。
体が芯から震える。
逃げたいのに、一歩も動けない。
殺される。
殺される。
殺される。
「(死ぬ)」
その時、険しい顔をしたが背後の男を振り仰ぎ、自然な仕草でバクを隠した。
――大丈夫――
躊躇いなど、微塵も無い。
怯えなど、怖れなど、彼の背には書かれていない。
その事実だけで、戦慄く心臓が温もりに包まれる。
――大丈夫――
けぶる黄金色。
世界の軸であるかのような、確かな黒。
小さな背中を見上げる、ただ、それだけで。
「(……っ)」
ただそれだけのことで、呼吸が蘇る。
ひぃ、はぁ、と息を切らして、バクはの背を見上げた。
得体の知れない存在にたった一人で対峙する彼の姿は、ぶれない。
「…………」
自然と、その名が口を衝いた。
奇妙な男がにたりと目を笑みの形に歪ませる。
「やぁーっぱリ! クロスの大事な、だいーじなお弟子サンじゃないですカ!」
浮かれた声で、はしゃいだように男は笑った。
「最近はどうも黒服を着ていると思ったら、遂に入団しちゃったんですネェ。残念残念」
アクマの攻撃は、止んでいる。
否、臨戦態勢でアクマ達は静止している。
船上は恐怖で完全に凍り付いていた。
まともに息が出来ているのは、直に金色に庇われたバクくらいだ。
が僅かに首を傾げた。
「誰だよ、お前」
「おやおヤ? お師匠サマから教わっていませんでしたっケ?」
「忘れちゃった。そんな、『パンッパンなデブ』のことなんか」
昨日今日の付き合いではあるが、この少年の言葉遣いはとしては違和感がある。
相手は、傷付きますネェなどと呟いているが実際に気にする様子は全くない。
「しっかり覚えているじゃないですカ。お上品な顔して、そんな言葉遣いはメッでス。メッ」
「黙れ、――千年伯爵……っ」
掠れた声が地面を擦る。
――ゆるさない
――ゆるされてはいけない
――ゆるさない
――ゆるされてはいけない
空気が握り潰される。
――ゆるさない
「(ゆるさない)」
心はぐらぐらと煮え立つよう。
――ゆるされてはいけない
「(ゆるされてはいけない)」
その度に氷を差し込まれるように、「自分」を苛む。
何をゆるさないのか、誰がゆるされてはいけないのか。
バクにも、上空の男にも、甲板の誰にも分からない。
激情が奔流となり心に思考に雪崩れ込む。
それでいて細い糸で曲芸を強いられるような、緊張。
それを齎したのが目の前の黄金色だと。
誰もが、察した。
「……千年、伯爵……」
今更になって、バクはが紡いだ単語を繰り返す。
千年伯爵――これが? この男が?
この男のために我々は。
此処にこの男がいるならば、我々は――。
「んもうっ、どうして知らないフリするんですカ。我輩、今ちょっぴり寂しかったデスヨ?」
千年伯爵が、傘を持たない方の手を掲げた。
「さテ。クロス抜きでキミとお話しできたのは嬉しいのですガ、生憎今日はキミに用はありませン」
アクマ達は、主人に従順である。
その意思疎通はどこまでも静かで、果てしなく暴力的だ。
「アージア支部なんてねぇー、さくーっと滅んでもらえたら楽だったんですけド」
歌うように体を揺らしながら、千年伯爵がぼやいた。
「しかし、こーんなにエクソシストが集まってくれるなんテ! 我輩は果報者でス」
にまりと、にたりと笑う様子は確かに恐ろしいが、最初ほどの衝撃はない。
それより、目の前の金色が。
心臓ごと揺さぶるようなあの空気の方が、よほど恐ろしい。
ただしそれと本能が鳴らす警報はまた別だ。
千年伯爵の背後にはアクマが集結している。
「(……何も、)」
バクは、甲板にいる人間は、皆、呼吸を止めた。
「(何にもできなかった)」
千年伯爵が手を振り下ろす動作は一瞬なのに、バクの思考は停止している。
母へ、父へ、罪を抱えて裁かれた者達への誓いも果たせぬまま。
何を為すことも成すことも出来ぬまま。
死ぬのだ。
せめて、フォーに謝りたかった。
置き去りにしてすまない、と。
「(嗚呼、)」
伯爵の合図を受けて、アクマ達の砲口に光が集まる。
目を閉じた。
「(――かみさま)」
災厄は放たれた。
瞼越しに、眩むほどの光が見える。
激しい衝撃音で、鼓膜が破れそうになる。
けれど体への衝撃は、ない。
死はこんなにも穏やかなのか?
否、まさか。
「ねぇ、支部長……ううん、バク」
柔らかな声が、世界を包み込む。
「俺は嫌だよ。逃げたりしない。貴方達を置いてなんか、決して」
蕩けるように柔らかで、穏やかで、それでいて芯の通った、凛とした響きを。
バクは目を開ける。
目を上げる。
甲板の上は、奇妙な一体感に包まれた。
分かるのだ。
誰も彼もが、今、彼だけを見ている。
「生きて、皆。俺の世界で、ずっと生きていて」
眼前に聳えるは、漆黒の壁。
砲口を向けたままのアクマの姿が、向こうに透けている。
アクマ達の攻撃は、全てこの壁に、盾に、阻まれた。
千年伯爵の浮かれた笑い声は、背景でしかなかった。
「謝らないでよ、守るから。……望んでいいよ、叶えるから」
彼の声が耳を侵す。
あれだけの音の後で、聴覚が正常に働く筈などないのに。
「生きていて」
それでも彼の声は、世界を割り裂いて心を絡め取り、染み渡る。
「大丈夫。――僕が、赦すから」
盾は瞬く間に粒へ、釘へと姿を変えた。
流れるような鮮やかさで全てのアクマを串刺しにする。
立て続けの爆発。
静まり返った世界に、千年伯爵の姿はない。
肩を一度上下させ息をついたが、そっと囁いた。
「……主よ、彼らに赦しを」
――あの時からずっと、変わらない。
彼は躊躇など、身を守る意思など微塵も見せない。
が、アクマの視線を引き付けるように開けた場所へ出る。
彼はふ、と周囲に目を向けた。
刹那、操られた漆黒の釘が、取り囲むアクマを串刺しにする。
血の盾、岩肌、アクマの背。
軽業師のようにくるりと舞い上がり、空中で無造作に構えをとる。
歯車の照準器が捕らえた世界には、弾幕。
アクマは塵と化し、が軽い足音で着地した。
振り返りざま歯車に捕らわれたレベル3は、碌な攻撃も出来ぬまま撃ち抜かれる。
浮かび上がる魂の姿はこんな戦場の中でも幻想的だ。
愛と絆が再び育まれ消え逝く様子を、彼は優しい眼差しで見守っている。
背後から叩き付けられるアクマの尾は、の背丈より遥かに長く、胴より明らかに太い。
視線も向けずそれを帳で防ぎ、彼は悠長にも見える動作で腕を持ち上げ引鉄を引いた。
放たれた一撃が、アクマの魂を優しく根こそぎ引き摺り出す。
スピーカーに、アクマの奇声が割って入った。
残る一体が放つ攻撃のようで、モニター前のバク達は眩暈さえ覚え思わず耳を押さえる。
「神様……っ」
誰かが、否、誰もが呻いた。
モニターの中で、が僅かに顔を顰める。
けれど動きは止めない。
アクマが伸ばした腕を掻い潜って懐に飛び込むと、至近距離から装甲の隙間に銃を差し入れた。
奇声は爆音に変わる。
そして。
モニターの此方側まで飲み込んだ、恐ろしいほどの静寂。
耳が馬鹿になっているせいとはとても言い切れない。
画面の中、浮かんでいた漆黒の血は緋色に戻り、その場で地面に弾けた。
彼が目を伏せ、囁く。
「主よ、彼らに赦しを」
直に意識へ染み入ったその言葉は、まさしく弔いであった。
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