燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









熱さを、痛みを、苦しみを
その身と心で知ればこそ
食い散らされる贄のため
まやかしで退路を奪うのに



Night.94 壊せぬ木枠の外側に









もしもバクが自分一人で支部へ戻っていたなら、戻り次第とって返し、中央庁へ殴り込みに行った。
それをしないのは、偏にを伴っているからにすぎない。

「……すまない」
「どうしたの、いきなり」
「いや。……呆れただろう?」

あの時。
司令室に入ってきた彼が、ただ無言で微笑んだ、あの時。
バクは、コムイは、世界は――確かに一度、神から見限られた。

「キミ達エクソシストが命懸けで戦っているときに、我々は過ちを繰り返すだけだ、なんて」

呆れて当然さ、バクは呟いた。
彼が目を伏せてくれたのは。
バクとコムイを、彼の支配する空気から逃がしてくれたのは。
いつものような微笑みを向けてくれたのは、きっと気紛れな、神の慈悲なのだ。

「呆れたりはしないよ。……儘ならないと、思っただけ」

ゆったりと返す声。
バクは僅かに後ろを歩くを見上げる。

「まだ、俺達は道半ばなんだ。世界の側に、進歩する余裕がない。だから、」

がふ、と息をついた。

「どんなに酷いことも、惨いことも、愚かに見えることも、繰り返さないと望みも生まれないんだろ」

の前では、全ての機密が意味をなさない。
罪の意識があれば尚更のこと、彼の齎す赦しを得たいと叫ぶ心を止められやしない。
そうして懺悔を聞き重ねた彼には、「黒の教団」がどのような姿に見えているのだろう。
「教団の神様」には、この世界がどのように見えているのだろう。

「百年足掻いて藻掻いて戦って、それでも他の道を探せないなら……何も知らない俺は、何も言えない」
「その末に、人の道を外れたとしても?」
「赦して欲しいの?」
「――っ、」

直球の言葉が胸を抉る。
言葉と裏腹な人間の気持ちを、知り尽くした音色で。
彼には何だって見透かされてしまう。
が表情を和らげた。

「バクもコムイも、ズゥ爺さんも、みんな赦されたくないんだろ。一瞬でも歩みを止めないために」

喪ったもののために。
奪われた者達のために。

「でも、その思いを世界が踏みにじる。だから、……儘ならないと思っただけ」

『第二エクソシスト』、『第三エクソシスト』、『咎落ち』。
エクソシストの縁者への人体実験も、ルベリエ家の記録だって。
見も知らぬ負の歴史を、搾り出される懺悔を、ひとつ残らず受け止めた彼のその目に、世界は。

「願って為した人なんて、いないのにね」

一時の救いになれるなら。
そう言って人の心に染み入り赦しを与えてくれるが、此方の意を汲み赦さずにいること。
それこそ彼自身の思いが絡み合ったが故なのだろうと、バクは推察してしまう。
しかし、それでいてやはり、彼は微笑むのだ。
赦せと願うなら今すぐにでも赦す、と。
慈しむような微笑みで、包み込んでくれるのだ。
――願って為したのならば、キミはどう思う。
否、聞くことすら愚かだろう。
優しい笑顔を残してアジアへ降り立った彼の背を追い、バクは奥歯を噛み締めた。









「くぅぉらあああ! 馬鹿バクううううう!」
「んなっ!?」
「確保ぉっ!」

に続いて重い足取りでアジア支部へ帰還したバクを出迎えたのは涙声、ではなく、怒声。
間違いない、フォーだ。
方舟へと身を翻す前に捕獲され、タラップから引きずり下ろされた。

「誰だ、オレ様を手荒く扱っているのは!」

憤然と振り仰げば、ウォンと李桂ががっちり体にしがみついていた。

「貴様らあああっ! 離せぇっ!」
「バク、信用がないんだって? 確かに、方舟手に入れてから本部に遊びに来てばっかりだもんな」

笑うの横で、シィフが肩を竦めている。
ウォンが耳元で叫んだ。

「バクさまぁぁ! 心配していたのですよ! 突然姿を消してしまわれるから……ウォンは、ウォンは!」
「分かった! 分かったから泣くな! 何も言わずに行ったのはボクも悪いと思っている!」
「言伝があっても悪いものは悪いけどな? トップがこうも頻繁に抜け出して、どーすんだっての」

二人をけしかけた張本人であるフォーが、腕組みをして顔を背けた。
背けた先のに、今度は首を傾げている。

「で、お前は? 任務?」
「いや、バクに誘われて。三人が見習いを卒業してから会ってなかったし……今更だけど、おめでとう」

微笑みの直撃を受けたシィフが、珍しく顔をほころばせた。

「改めて言われると、照れるなぁ……ありがとう、わざわざ」
「これであたしたちも、本部勤務に向けて一歩前進なのですよー!」

蝋花が拳を突き上げる。
がうん、と頷いた。

「李桂もリナリーへの道が一歩前進したわけだ」
「なぁっ!? なんでそういう話に持ってっちゃうかなぁお前はっ!」

見習い、ではなく、ルーキー達とが楽しげに笑い合う。
連れてきてよかった、そう思った時だ。

――敵襲!!
――敵襲!!

警報が鳴り響き、一瞬静まり返った支部員達が口々に不安を上らせる。
フォーが身構えた。

「いや、結界は破られてない……!?」
「モニターを! 外の様子を映せ!」

バクは混乱を切り裂くように指示した。
アジア支部は、稀にアクマに襲われる。
アクマ掃討のため、エクソシストの派遣を要求することも多い。
まさにその繋がりで親しくしているのが、他でもないなのだ。
ある程度慣れているとはいえ、モニターにはレベル3のアクマの姿が複数。
レベル2と思しきアクマも、その数、五十は下らない。
アレンのイノセンスを復活させた、あの日の襲撃もまだ記憶に新しい。
となれば、この喧騒を咎めることはあまりに酷だろう。
駆け出そうとするフォーの肩を押さえ、が福音を抜く。

「俺が行くよ」

その言葉に、フォーが何かを返す前に。
バクが無線を渡そうと手を伸ばす前に。
が振り返って皆に微笑む前に。
誰かが、何気なく言った。

「よかった、たまたま神様がいてくれて……」

が、踏み出した足を、止める。
どこでもない場所を見つめ、彼は短く息を吐いた。

「(?)」

空気が停滞する。
否、――透き通る。
精神の集中が空気を渡り、不純物を砕いて、やがて、心は剥き出しにされた。

行かないのか?
――早く、一瞬でも早く行ってくれ

膨れ上がる願いを。

躊躇っているのか?
――躊躇う理由がどこにある

広がりかけた疑念を。

万全ではないのか?
――構うものか、我々ではない

暴かれた本音を。

見放したのか?
――いやだ、お願い、神様――ッッ

すべてを、拭い去ったのは彼の呼吸。
鋭く息を吸う音に、意識が一点へと縛りつけられる。
ひりつくほどに乾ききった粘膜の味。
空気に撫で上げられ、粟立つ肌。
鼻腔に、シャンプーの香りと、混じり合う僅かな薬品の香り。
けぶる黄金色に視界が灼かれる。
耳に届くのは、痺れた脳を侵すのは、唇を開いてすらいない、彼の声。









――赦すよ
――まもるよ
――大丈夫
――まもるよ
――生きていて
――まもるよ
――死なないで
――まもるよ
――赦すよ



――みつけた









銃声は、聞こえなかった。
濃密で、甘美で、抗いがたい神の支配。
抗う気力など、持てるはずがない。
気付けば彼は既に心のうちに染み込んでいる。
蕩けるような優しさに蝕まれてしまう。
それがとてつもない暴力であることなど。
途方もない圧力であることなど、認識さえ出来ないままで。
そしてその支配は、唐突に解かれた。
嗚呼、名残惜しい――
恐怖は遅れてやってくる。
がいつの間にか腕を伸ばし、蝋花の方を向いている。
彼女の奥にいた科学班の研究員が一人、氷漬けになって砕けた。

「――え、あ、」

蝋花がぱくぱくと口を開ける。
悲鳴が、喉の奥で蟠る。
恐怖は遅れてやってくる。
呼吸が蘇り、ひぃ、と空気が音を立てた。
彼が振り返る。
何かを言おうと唇を開いて、やがて諦めたようにそれを閉じた。
微笑みだけを残して、は風のように駆けていく。
蝋花が身を震わせて膝から崩れた。
呪縛から解かれたシィフと李桂が、足を縺れさせて彼女に駆け寄る。
周囲の班員がようやく息をして、ざわめいた。
恐怖は遅れてやってくる。
バクも察した。
アクマが、紛れ込んでいたのだ。
この中に。違和感なく。
研究員になりすまして。

「……なぁ、バク」

フォーが身を寄せ、袖をきゅ、と握る。

「あたしとあいつは、違うよ」

声を震わせて、彼女は呟いた。

「……あたしたちは、違ってた」

恐怖は遅れてやってくる。
それは恐怖ではなく、畏怖と呼ばれる類いのものだと、バクは、言葉にすることができなかった。
だって。

「(誓ったのだ)」

自分だけは、決して。
二度と、彼を「神」にしないのだと。

「バ、バクさま!」

ウォンの声に思考を切り捨て、まずは空調を回すよう指示する。
モニターを見上げると、金色の彼がちょうど表に降り立ったところだった。
どこかの窓から飛び降りたのだろう。
がカーディガンの袖を捲った。
彼は団服も纏っておらず、思えば無線すら渡せていない。
バクは今更、歯軋りをする。
モニターが伝える僅かな音声では、アクマ達の声や爆撃の音を拾うのがやっとだ。
が、片手を軽く掲げた。
一瞬で支部の外壁を覆う半透明の漆黒。
思わずあ、と声をあげる。

「(何故だ、)」

きみはどうして、そうも躊躇いなく。
アクマに対峙しながら、彼はしばらく動きもしなかった。
気が逸る。
此方から監視ゴーレムで声を届けることはできるが、集中を妨げる訳にもいかない。
しかしそもそもあれは、集中しているのだろうか。
弾丸の只中、ぼんやりと敵を見上げてが佇む。
まるきり無抵抗のままその身を嬲られそうになる。
部屋の中では悲鳴が上がりかけ、その時ようやく帳を踏み台に彼は宙を駆け上がった。

「……、」

李桂の呟く小さな声が聞こえたわけでもないだろうに、がちらとゴーレムに視線を送る。
微笑。
唇が動くのが見える。
だいじょうぶ。
その仕草は、部屋に集う研究員達をまやかしで絡め取った。
「教団の神」がいるのだ、必ず助かる、と。
バクは奥歯を噛み締める。
その言葉を生んでしまったのは、バクの不用意な発言だった。
どのような反響を呼ぶか想像すらしなかった、バクの失態だ。
けれどどうしても、自分の愚かさを棚に上げてしまう。

「(何故だ、)」

何故、そうも躊躇いなく敵の前に姿を曝してしまうのだ。
どんな優秀なエクソシストであっても、自分を盾に人を守ろうとする者はない。
仮に避けられない状況に置かれたなら、一瞬の躊躇があってしかるべきだ。
人間として、本能が命を守るための、一瞬が。
彼には、無いのだ。

――それはあの時からずっと、変わらない。









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