燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









ただいつものように
息を吸って吐いただけ
素直な気持ちを頬に乗せ
そっと笑みを浮かべただけ
ねえ、あなたはどうして
震えているの



Night.93 明日の約束はできない









に真正面からこうもまじまじと見つめられるのは、修行以来のことだ。
アレンは屈んで傷を検める黄金色を間近に見ながら視線を惑わせる。
至近距離で接するなんて畏れ多い。
そこまで考えて、アレンは愕然とした。
違う、祀り上げるつもりなんて、なかったのに。

「血が止まらないだけかな……立てそうか? アレン」
「あ、はい。……うわっ」

バランスを崩すと、が流れるような動作で支えてくれた。

「ゆっくり行こう、肩貸すから」
「すみません」

おい、彼が声を放つ。

「『仕事』はいいのか、ハワード」

呆然としていたリンクがびくりと肩を跳ね上げた。

「……代わります」
「いい。アレンの荷物持ってきてくれ」

どこか冷たい声音にアレンは身を竦めたけれど、リンクは素直に頷いてその言葉に従った。
アレンのタオルを拾ってきた監査官を伴い、修練場を出る。

「さっきの、第三エクソシストだっけ? パリで会ったんだってな。ユウから聞いたよ」
「はい、……さっきの三人ではなかったですけど」
「じゃあ、マダラオとテワクの方か。お前は、それが誰なのか知ってるんだろ?」

彼は振り返らないままリンクに問いかける。
あくまで問いかけの形だが、答えを強制する圧迫感があった。

「……マダラオですね」
「知り合いなんだな、彼らと」

呟くような声が、リンクの答えに重ねられる。
リンクもただ静かに、ええ、とだけ返した。
は診察室とは逆の方向へ歩を進めていく。
あれ、と顔を見れば、彼は眉を下げて笑った。

「こっちの方が、時間もかからないだろうから……階段行けるなら、だけど」

頷き、階段を上って辿り着いたのは、が使っている病室である。
アレンも何度か見舞いに訪れたことのある部屋だ。
いつも彼自身が寝かされているベッドへ腰掛けるように言って、は奥へ行ってしまった。

「ドクター。ドクター、いる?」

自分達は不思議な兄弟弟子だ。
片や、組織の神と崇められる存在で、片や、敵の宿主として憎しみの眼差しを向けられる存在。
アレンにとって、は常に「兄さん」であった。
けれど最近はその認識が揺らぎかけている。
アレンへの評判も、彼への信仰の前には妨げにすらならない。
そんな、遠い存在になってしまったような。
否、遠い存在なのだと、ようやく気付いてしまったような。
これまではその尊さを知らなかった、それだけだったのかもしれない。
兄弟子の背を見つめていたら、無意識に傷口からタオルを離しかけていた。
横から手が伸びてきて、圧迫される。
顔を上げると、リンクが僅かにばつの悪そうな表情をしていた。

「そのままにしておいた方が良いですよ」
「うん……ありがとう、リンク」

いえ、と言い澱む姿も珍しい。
奥からが戻ってくる。
その後ろを着いてきたの主治医が微笑んだ。

「やあ、アレン。頭を打ったって? 見せてごらん……」

目に光を当てられて、頷いたドクターが傷口のタオルを外す。

「ぶつけたときに切ったんだね。でも、こういうときはまず医者を呼びなさい」

片手で必要な物を揃えながら、ドクターはアレンから目を離さず、兄弟子を叱った。

「素人の勝手な判断で患者を動かさないように」
「ん、ごめんなさい」
「あの僕、大丈夫ですから……」

だから怒らないでと言いかけて、アレンは言葉を失う。
ドクターが一瞬表情を翳らせ、そして苦笑いを浮かべたからだ。

「此処は戦場じゃないんだ。セオリーに則った行動をしても、いいんだよ」

それじゃあ消毒しようかな。
優しい声でそう続けて、ドクターが消毒液の準備を始める。
アレンは体から力を抜いた。
そうだ、此処は戦場じゃない。
ホームだ。
にこやかに出迎えてくれる科学班も、小遣い稼ぎをさせてくれる厨房の面々も。
任務で負った傷を、患者以上に慮ってくれる医療班のスタッフも。
大切な人々の集まるホーム。
エクソシストと探索部隊の安らぎと休息の地。

「あだっ、いだだだだっ」

ドクターの手つきは丁寧だが、消毒液は傷口に暴力を振るう。
染みるっ! と叫ぶと、ドクターと兄弟子の笑い声が聞こえた。

「元気がよくて、何より」
「元気というか何というか! 痛いっ、ドクター、痛いですっ」

アレンは抗議の声をあげる。
しかし、当然のように聞き入れてはもらえない。
がアレンの肩をぽんと叩いた。

「ドクター、アレンのこと任せていい?」
「うん? 構わないけど……」

ドクターの不思議そうな視線、アレンの縋る目、リンクの怪訝な顔。
三人の眼差しに、が肩を竦めて笑った。

「ちょっと、コムイに会ってみる」

そうして部屋を出ていったの背を見送り、ドクターがガーゼを手に取る。

「……は、よっぽど君が可愛いんだなぁ」

目を向けると、彼は堪えきれないといった様子で肩を震わせた。

「そうだろう? これが神田やラビだったら、わざわざ此処まで連れてきたりはしないよ」
「そう、かな……」
「ああ。特に、この部屋には。自分が頻繁に出入りしていたら不安を呼ぶ、ってね」

確かに、が病室に出入りする様子は心乱されるのかもしれない。
彼を神と崇めるならば。
縋る対象とするのなら、彼という存在が露にならない方が丁度よいのだろう。
そんな、兄弟子の背中はただただ遠すぎて。
アレンはぐ、と拳を握る。

「……どうして、兄さんは、」
「それを聞くかい?」

穏やかな笑顔に、口を噤んだ。
ガーゼを貼り終えて、ドクターが傍の椅子を引き寄せる。

「弟弟子の君なら、きっと分かるだろう」

言葉に、微笑みに、アレンの視界はじわりと熱を帯びた。
分かる。
分かるに決まっている。
良くも悪くも本心で動くことしか知らないような、兄弟子のことくらい。
打算なんてない。
不利益だって、きっと度外視して。
ただ、弟だからという理由で、彼は、アレンを信じてくれる。

「(だからこそ、)」

兄の手放しの信頼に応えられる自分なのか。
自分に自信を持てないことが、堪らなく申し訳ないのだ。









コムイのもとへ行ったところで、何かが変わるわけはない。
ただ少し情報を引き出せるかもしれないというくらいで。
けれどの日常では、その情報こそが大きな位置を占めるから。
少しでも何かを知ることができるならと、足が速まる。
ブリジットが来てから、コムイの居場所は僅かだが特定しやすくなった。
きっと今頃は司令室で睨まれながら逃げ出す機会を窺っていることだろう。
建物の入り口で敬礼をする警備班員。
微笑みを返して通り過ぎる。
廊下の向こうに人影が見えて、は思わず足を止めた。
本部では滅多に見かけない人だ。
彼女はを見て顔を綻ばせる。

「あら」
「お久し振りです、レニー支部長」
「久し振り。元気そうね、安心した。うちの支部も、あの時はあなたの噂がやまなかったのよ」

長身で短髪の似合う凛々しい女性、北米支部長レニー・エプスタイン。
レベル4騒動の直前、諮問会議で姿を見かけたように思う。
あの時は殆ど息が出来ていなくて、周囲に気を配る余裕はあまりなかったけれど。
レニーは緋色の装束を纏った二人組を伴っていた。
精悍な顔つきのがっしりした青年、眩く輝く金髪の小柄な少女。
の視線に、レニーが二人を指し示す。

「人とアクマの融合体、第三エクソシストよ。これから説明があると思うけど」
「……さっき、トクサ達に会いました」
「そう、なら話は早いわね。彼らはマダラオとテワク。あなた達、彼が『教団の神様』よ」

言いながら嬉しそうに目を細めた彼女は、の肩に軽く触れた。

「やっと、……やっとだわ。この技術が確立すれば、戦術の幅が広がる」

マダラオの感情の窺えない瞳が、を見つめている。
テワクのぱちりと大きな瞳が、を見つめている。

「あなた達エクソシストだけに頼らずともいい。これなら、誰にだってアクマを破壊できるんだから」

マダラオとテワクは、ただじっとを見つめている。
ただじっと、「教団の神」を。

「きっと、私達が勝てる筈よ」

しっかりと芯のある声で、それでも、不確定な言葉を選んでしまった彼女に。
何も言えぬまま、この場限りの希望を与えるためだけに微笑んだを。
第三エクソシスト達は、ただじっと見ていた。
――これは、逃げ、だろうか。
最近の自分は、臆病だと思う。
そんな自由が許される身の上ではないのに。
どうしていつも、立ち竦んでから悔いるのか。
出口へ向かうレニー達と、奥の司令室を目指す、互いの足音は次第に遠ざかる。
とはいえ、あちらの足音はレニーの分しか聞こえないのが、流石というべきか。
中央庁の特殊戦闘部隊「鴉」。
教団の暗部に関わる彼らの噂を初めに聞いたのはどこだっただろう。
以前、中央庁を訪れた時だったかもしれないし、アジア支部だったかもしれない。
もうすっかり忘れてしまった。
仄明かりの廊下が、感覚を研ぎ澄ませる。
フードを手離すことが怖かった、あの頃より――強く、――ずっと鋭く。
司令室の前に立ち息を整えると、周囲一帯の空気が震え、――応えた。

「……あれ?」

バク。
部屋の中に、バク・チャンの気配がある。
また方舟で此方に遊びに来たのだろうか。
或いは。
ノックをして、扉を開ける。
正面の大きな机、コムイが腰を浮かせ凍り付いた表情でを見ていた。

……」

脇に立つバクは、完全に固まって目だけを此方に向けている。
は、扉から手を離し、中に入った。
先の任務中、アレン達は誰からの説明もなくマダラオに出会った。
それも仕方のないことだ。
なにせコムイが、たった今衝撃を受けたという顔をしている。
新たな「人造使徒計画」。
つまり「第三エクソシスト計画」は、中央庁と北米支部が内密に行ったことなのだろう。
かつての「第二エクソシスト計画」本拠地であったアジア支部に相談もなく。
イノセンス研究の功労者たる本部室長に断りもなく。
当時の生き残りであるレニー・エプスタインを説き伏せて。
何らかの形で「第二エクソシスト計画」の技術を応用したのだ。
イノセンスではなく、今度は、ダークマターを用いて。



――そんなの、



思わず、は微笑んでしまった。
コムイがさっと顔色を変える。

「っ、、」

その脅えたような声に、目を伏せた。
掴んだままで支配し続けていた空気を、手放す。
今の感情で二人の心を染めてはいけない。
でも、――そんなの、笑ってしまうじゃないか。
コムイ・リーに伝えられないようなものが、人道に適うものである筈がない。
潰えた過去の夢に縋り、搾り滓になるまで踏ん張りきった組織が。
そこまでして尚、勝利に確信を持てぬというのなら。

「(この世界は、命を懸けるに値する?)」

――当然だ

けれど。

「(この世界は、皆が命を懸けるに値する?)」

――その答えだって、決まっているのだ

は、求められる通りに神様の顔をして再び微笑んだ。
仮初めの希望を振りかざして、皆を死へ歩ませる、死神として。

「さっき、第三エクソシストに会ったよ。エクソシストの男連中は、みんな」
「……え、……あ……神田くん、も?」
「うん。激昂したりはしてないけど、まあ、そういう奴でもないから」

そもそも神田は、よりよほど黒の教団の裏側を知り尽くしている。
今更驚きはしないのだろうし、期待もしていないのだろう。
先程も、を押さえておくだけの冷静さがあった。
コムイとバクが、の考えを知ってか知らずか、体の力を緩める。

「パリの任務の時、ユウ達はもうマダラオに会ってたらしいしね」
「……そう、か……それで、は、その……」

コムイが言い澱んだその先の言葉は、想像に難くない。
ぼくらを糾弾しに来たのか。
そんな、まさか。
――これだから人間は、神なんかよりよほど信じられる。
は、出来うる限り優しく微笑んだ。

「俺は、ここなら詳しいことが分かるかもって、野次馬に来ただけなんだ」

ひらりと手を振って踵を返す。

「知りたいことはもう分かったから、戻るよ。邪魔してごめん」

一拍遅れて、後ろからバクに呼び止められた。
彼は帽子を直して此方へやって来る。

「僕も一度戻る、何も言わずに飛び出してきたからな……それにしても、ルベリエめ……!」
「気持ちは分かるけど、まずはボクが長官を問いつめるから……バクちゃんは待ってて」
「しかし、コムイ!」
「情報が行き違いになってもよくない。待ってて。何か分かったら、必ず連絡する」

コムイが頭を抱えて呻いた。
荒い鼻息で怒りを鎮めようとしているのだろうバクは、バクちゃんと呼ばれたことにも反応しない。
喉の奥から擂り潰したような声で渋々、分かったと呟き、彼はまた大きく息をついた。

「いいか、必ずだぞ。あー、……、」

きっと自らの気を逸らすための「何か」を、一瞬の沈黙で必死に探したのだ。
バクが思い出したように、に向き直る。

「一緒に支部に来ないか? 少し前に、あの見習い三人組が昇格したんだが」

エクソシストが室長の許可なしに本部を離れるわけにもいかない。
ちらと窺えば、コムイが片手でオーケーのサインをしていた。
じゃあ、行こうかな。
はバクに頷いてみせた。









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