燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









永久に失いたくないのなら
確かめなければ
いつまでも其処に在れ、と
何度でも手で触れて
やがて形を無くすまで



Night.92 かたどられたもの









イノセンス以外でアクマを破壊した場合、その魂に救いは訪れるのだろうか。
謎の緋装束に関してそんな思いを巡らせたアレンは、マリに窘められた。
自分を案じてくれた彼の言うことは、分かる。
大半がアクマを憎んでいるこの教団の中で、アレンの考え方は異端だ。
けれど、アレンにも譲れないものがある。
この考えを変えるということは、マナを忘れるということ。
それだけは、できない。

「(……そういえば)」

アレンはふと首を傾げる。
離れた場所で神田とブックマンの戦いを観戦しているを見遣った。
アクマのこと、イノセンスのこと。
その知識や意識、志には修行時代に学び培ったものが大きく影響している。
歩み出した一年、ずっと傍にいてくれた兄弟子は、アレンの考えを一切否定しなかった。
否、それどころか。

――主よ、彼らに赦しを――

死者を送る、死者に贈るあの言葉。
アレンは金色の彼から、アクマへの憎しみを感じたことがないのだ。
これまで、ただの一度も。
一度だって。

「(そもそも、兄さんが誰かを憎む言葉を聞いたことって、ないな……)」

マリが深く溜め息をついた。

「お前と神田が衝突する理由がわかった……似た者同士だからだ」
「んなっ!?」

アレンは思考を引き戻され、思わず目を剥く。
それは同意しかねる、絶対に!

「冗談でしょ! あんなバカまっしぐらと一緒にしないでくださいよっ」
「いや、お前もバカまっしぐらだ。
……そのくせ捕らわれてる闇が深すぎて、どうやって救い出してやればいいのかわからん」

ふ、と彼が零した言葉は、誰に宛てたものでもない。

「もどかしいよ。あいつは私を救ってくれたのにな」

でも、だからこそその悔いるような声が気になって、アレンは呆けたままマリを見上げた。
マリが悪戯っぽく笑う。

「スキありっ」
「げっ、いだっ!」

完全に不意打ちで渾身の当て身をくらった。
防げずに宙へ吹き飛ばされたアレンは、片腕を振り上げて抗議する。

「きっ、汚いですよ、マリ!!」

とはいえ、思ったほどの痛みはない。
衝突した先が、やたらと柔らかかったからだ。
離れた場所でティムキャンピーを頭に乗せ監視にあたっていたリンクが、目を瞠った。

「ウォーカー、」
「ん?」

アレンは振り返って、ようやく理由を悟る。
人にぶつかったのだ。

「わっ、すみません」

これはまずいと慌てたその瞬間、左腕が弾かれ、体が浮いた。
風を切る音、ほぼ同時に衝撃。
先程とは比べ物にならない体と頭の痛み。
視界に映るのは、大柄で特徴的な髪型をした、緋色の装束の男。
ぶつかった相手に振り払われたのだと察する。

「な……、なんだよ……っ、突然……」

いくらなんでも理不尽だと食いかかってはみるが、体はずるずると壁を滑り落ちた。
頭が痛い。
気付かぬうちに、神ノ道化を発動している。
マリが体を支えてくれた。

「頭を打ったのか? じっとしてろ」

額に血が垂れてくるのが分かる。
修練場全体のざわめきが聞こえる。

「何してる、ゴウシ」
「ち……、副作用だ。イノセンスに反応して発動した」
「(誰、だ?)」

この服装はもしや、ハースト孤児院で見た緋装束の仲間なのだろうか。
では、何故いきなり攻撃されたのだろう。
味方か、或いは敵なのか。

「俺の弟に、」

痛みの中でアレンを冷静にさせたのは、軽い足音と銃の安全装置が外される音。

「――何してる」

そして体を芯まで冷やすような、敵意に満ちた空気だった。









修練場中の音が全て、止まった。
顔を上げて彼を確認することすら恐ろしい。
けれど、確認しないわけにもいかない。
彼の空気が、視線さえ縫い留めているからだ。
アレンを庇い、緋装束の男に銃を突き付けて立つその背中。
顔なんて見なくとも、分かる。

「(兄さん、笑ってない)」

兄弟子に恐怖を感じたことなど、これまでで一度しかない。
あの雨の夜、雷の音と血の臭いに彩られた部屋の中でしか。
けれど不思議なことに、この恐怖が、今は鳥肌が立つほど嬉しい。
苛烈な空気に一石を投じたのは、リンクの声だった。

「銃を、収めてください」

は動かない。

「……、銃を」
「なぜ」

感情の欠片もない声が答える。

「監査官である私が、対象に気を配るべきでした。どうか、」

リンクが動く。
今日もきっちり制服を着込んだ監査官は、しかしの正面には回らなかった。
横に立ち、手本のような気を付けをしている。

「どうかこの場を私に預けて頂きたい」

がおもむろに顔を向けた。
横顔から窺えた漆黒に温もりなどはひとつもない。
さながら研いだ黒曜石のように、目に映したハワード・リンクをすっぱり切り裂くように。
天の御座から従わぬ人間たちを見下ろす神のように。
緊張は、一瞬。
が銃を下ろした。
空気を縛り付ける敵意は変わらぬまま、けれど呼吸を赦される。
ようやく人々が、ざわめくことを許される。
リンクが彼に深く一礼し、緋装束の集団へ向かい合った。

「なんのマネだ、ゴウシ。アレン・ウォーカーは今、私の任務対象だぞ」

突然アレンを攻撃した大柄な男の名前を、彼は知っているらしい。

「なんの理由があって、「鴉」のお前たちが彼に手を出す!?」
「(『鴉』!?)」

が銃のグリップをぐっと握り込む。
よく見ればその銃は福音ではなく、どこにでもある護身用の拳銃だった。
アレンの修行中、が腰に二丁の銃を提げていたのを覚えている。
あの、片方だ。
思えば教団に来てからは、福音でない方はとんと見かけなかった。

「『ハワード・リンク監査官』か」

ゴウシと呼ばれた男の手は、孤児院に来た緋装束と同じ異形だった。
掌には穴が、前腕にも空洞が見られる。
そう、あの腕がアクマを吸い込んだのだ。

「発動を解け、ゴウシ」

緋色を纏った少年がゴウシを、諌める。

「着任早々マダラオの説教くう気か」
「なんの騒ぎであるか?」
「ありゃ」
「血出てんぞ」

その頃になってようやく、アレンの周りに人が集まり始めた。
来んの遅っ、思わず口を突いたが、それも仕方ないかもしれない。
先程までは恐らく、誰も動けやしなかった。
神田がアレンには目もくれず、溜め息まじりにの肩を掴む。
はその手に気付いてすらいないようで、何も返さない。
ラビが二人を見遣り、緋装束の三人組に怪訝な目を向けた。

「なんさ、こいつら?」
「失礼しました、アレン・ウォーカー」

細い目の男が歩み出る。
口角を持ち上げただけで決して笑ってはいない。

「我らは人体生成により半アクマ化した者ゆえ、イノセンスを受け付けぬのです。何卒ご容赦を」

私はトクサ、こちらがキレドリで、向こうがゴウシ。
他にマダラオとテワクがおります。
我らも任務に同行することがあると思いますが、どうぞよしなに。
トクサが饒舌に喋るのを聞きながら、アレンは垂れてきた血を拭う。
そんな、穏やかに話すような内容だったか。
頭の痛みはどこかへ吹き飛んでしまった。
リンクが肩を揺らして呟く。

「半、アクマ化だと……」
「あなた方教団が奪取したアクマの卵を使ってね」

アクマの卵。
方舟と共にアレンたちがノアから奪い取り、そして本部襲撃を受ける羽目になった元凶のことか。

「いったい、何の話ですか……まさかあなたたちが、アクマになった、みたいな……」

アレンは問い詰めながらふと真顔になった。
言ってみて、その言葉の重さに気付く。
まさか。
ざあっと身体中の血が下がるような、感覚。
マリが固い声で、アレンの疑問を引き継いだ。

「まさか……アクマの能力を、人工的に取り込んだというのか」

神田がちっ、と舌打ちを溢した。

「それで、アクマを吸収したあの力、ってワケだ」
「ええ。なんでも江戸地区で起きていたアクマの共喰いから着想を得たとか」

事も無げにトクサは答える。
キレドリが、幼い見かけに反して随分と冷えた目でアレンを見下ろした。

「我ら第三(サード)エクソシストは新たな種だ。戦力不足の現状を打破するために望まれた」
「その計画に、鴉が……?」

この場を預かると言ったリンクだが、様子がおかしい。
いつも迷いなくアレンに話しかける彼の語尾が掠れている。
ゴウシが腕の調子を確かめながら答えた。

「人選は、妥当だと思うがな」

トクサが微笑む。

「画期的でしょう? これなら、イノセンスに適合せずともアクマを破壊できるのですから」

誇らしげな、歌うようなその調子に、近くにいる探索部隊たちがどよめいた。
次第に大きくなるのは、確かにそうだ、と頷く声。
けれどそれは、金色が頭を振ったことでかき消えた。

「なんてことを……っ、それで人体に害が出ない訳がないだろう」

アレンはハッとする。
アクマというのは、基本的に人間の体には毒なのだ。
破壊されたアクマが出す死臭(ガス)でさえ、致命的な影響を及ぼすほどに。
それを、人体に取り入れたとなれば、兄弟子の言葉は尤もだった。

「あなたが『教団の神』……で、間違いないようですね。御目にかかれて光栄です」

トクサが大仰に一礼して、薄い笑みを浮かべる。

「しかし、……ふふ、おかしなことをおっしゃる。世界と命を秤に掛けるなど」

行くぞ、トクサ。
声をかけたキレドリの方へ足を向けながら、トクサが軽やかに言った。

「神のお役に立てるなら、果てることは本望でしょう? 既に亡き者たちや、――ご自身のように」

探索部隊たちが息を飲む。
第三エクソシストたちが歩き去った修練場には、奇妙な静けさが残された。
誰もが身動ぎを憚り、目を見交わすことさえしない。
出来ない。
兄弟子がリナリーに「内緒」にしていたこと。
それは探索部隊にも曖昧にされていたことだったと、知ったのは旧本部襲撃の後だった。
あの日、吹き抜けを見下ろした者は、現実のの姿を目の当たりにした。
微笑みを手放し、望まれる仮面も割れ、神の結晶に侵される一人のエクソシストを。
アレンも意識が朦朧としてリンクに背負われていたけれど、あの恐慌はいまだ耳に残っている。

「(みんな、怖いんだ)」

驚くほど力強い肯定で罪を帳消しにして。
後悔さえ温もりで優しく撫でるように。
存在することを無条件で赦してくれる、神様。
教団の神様。
彼が「いなくなる」なんてこと、誰も考えたくなかったに違いない。

――彼が人間だなんて、きっと皆、忘れていた。









立ち尽くすの背が、数回、大きく動く。

「ユウ、ありがとう」

声ひとつで、室内の空気は解けた。
が振り返る。
神田が手を離して舌打ちを溢した。

「ごめん」

小さな声の謝罪に、神田はただ首肯だけを返し、ラビの首根を掴んで引き摺った。
なになになに!? というラビの悲鳴が響き渡る。
がアレンを見下ろして、苦笑いを浮かべた。

「……医務室、行った方がよさそうだな」

ようやく、探索部隊たちがざわめきだす。

――結局のところ、今の奴らは何だったんだ?――
――半アクマ化って?――
――まあいい、取り敢えず鍛錬を続けよう……――

「大丈夫であるか、アレン」

使うといい、とクロウリーはタオルを貸してくれた。
ありがたく傷口に押し当てる。

「マリ、迷惑かけた。アレンは俺が連れていくよ」
「元はといえば私がふざけたのも良くなかったんだ。すまなかった、アレン」

兄弟子と話していたマリが頭を下げるので、アレンは恐縮して手を振った。

「いえ、そんな……」

マリは微笑んで、またに向き直る。
二人の声は小さく、座り込んでいるアレンにはよく聞こえない。
だからアレンも囁いた。

「ねえ、クロウリー」

応えるように、クロウリーは膝をついて耳を寄せてくれた。
不意に心を揺らがせた疑問は、とても下らないことなのだけれど。
それでも、彼ならきっと真剣に聞いてくれる。

「……兄さんは、『人間』ですよね」

一度目を丸くしたクロウリーが、にっこり笑って頷いた。

「ああ。勿論である」









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171014