燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









包み隠されたすべてを紐解くことが
幸いを運ぶとは限らない
人に与えられた選択の権利は
果たして
御霊にも在るのだろうか



Night.91 背中からは覗けない









「オイ」

シャツの前を開いたままの体勢で、は口をぽかんと開け、医務室の闖入者を見上げた。

「ツラ貸せ」

向かい合っていたドクターも同じ表情をしている。
ノックもなしにいきなりこれか。
呆然と呟いた。

「……先に言うこととやることがあるだろ、ユウ……」

闖入者、神田が軽く首を傾げる。
少し考えて、やがて納得した顔で彼が出した結論は、こうだ。

「修練場行くぞ」
「そうじゃねぇよ」

呆れもピークを越えて、やっとボタンを留める。

「少し違うなぁ、神田……」

ドクターが苦笑いしながら聴診器を仕舞った。
不満げな顔で神田が舌打ちをする。
いや、彼は大抵誤解されるような表情をしているのだ。
つくづく不器用な奴だと独りごち、はネクタイを締め直した。

「で、何? 鍛練?」
「ああ。いまいち素振りがしっくり来ない。……見させるくらいなら、いいだろ」

最後の言葉は、あからさまにドクターに振っている。
は眉を顰めて神田を睨め付けた。
そんな脅しで前言を撤回してくれるようなら、それはアート・オブ・神田に違いない。
神田は当然のようにを無視し、ドクターは宙を見て考える素振りをする。

「ふむ……、君はどうしたい?」

選択権を与えられるなど考えてもみなかった。
はごくりと唾を飲む。
冷静に自分の調子を判断するなら、動けないほどではないのだ。
止まない心臓の痛みにも、掠れる呼吸にも、もう随分と慣れてきた。
けれどティモシーやチャオジーをあしらうのと、神田の相手をするのとでは訳が違う。
例えば、神田の相手をした直後に教団が襲撃されたら対応できるか。
それは限りなく困難なことのように思えた。
そんなことを言ったら、もう何もできないんじゃないか。
極めて困難であろうが、自分は全て擲って家族を守ると決めただろう。
甘ったれるな。

「(でも、一瞬の遅れで誰かを失ったら)」

それは、嫌だなぁ。
絶え間ない自問自答を、神田の舌打ちが遮った。
ハッとする。
答えを返さなければ。
でも、どうしたら心配をかけずに済むのか、これっぽっちも分からない。
ドクターが微笑んだ。

「神田の提案は悪くないと思うよ」

はぱちりと目を瞬かせて、ドクターを見た。
彼は頬を掻きながらひらりと手を振る。

「いや、私だったら今日は休みを挟みたくなるだろうけど」

照れたような言葉の後でを見つめる瞳は、いつものように優しい。

「君なら、それくらいは大丈夫かい?
「……うん」

自分でも驚くほど素直に、頷けた。
君が良いなら行っておいで。
にこやかに送り出され、自覚もないまま神田の隣を歩いている。
ぼう、としていたら六幻の柄で叩かれた。

「前見て歩け」
「痛ぇな、もう……、ん?」

頭を擦りながら隣を見上げて、はふと気付いた。

「(あれっ!?)」
「何だよ」

神田の目線が心なしか、随分高いような気がする。
前から背丈は神田の方が高かったが、それは僅かに、微かに、一見分からないくらいほんの少しの差だった筈だ。
否、きっと気のせいだ。
は首を振った。
口にしたら本当のことになりそうで怖い。
大丈夫だ、同い年なのだから多分自分も遠からず伸びる、恐らく。

「な、何でもない。あー、えっと、そう、そうだよ。パリはどうだった?」
「どうもこうもねぇよ」
「いやいや、ティモシー見付けてきたり、レベル4と戦ったりさ……あったんだろ、色々」
「ああ、まあ……」

珍しく、彼が言葉を濁す。
はちらと横を見た。
神田は此方に目を遣らず、かといってどこを見据えるでもなく視線を惑わせている。
マリのことが気に掛かっているのだろうか。
神田にとって彼はティエドールよりも深く長い付き合いの兄弟子だ。
そんなマリは、パリの任務で指を失ったと聞いた。
気にしていない筈はない。

「口にしたくないなら、無理には聞かないけど」

言葉に表さなかった部分を見透かしたのか、神田が首を振った。

「……お前の方は、どうだった」
「俺の方? ん、ああ、チャオジーな。筋はいいぜ、体力もやる気もあるし」

神田が気に掛けるようなことは他に思い当たらない。
先の任務に関しては、後悔を拭えない。
エーヴァを生きて連れてこられたら良かった。
けれど、それを選ばなかったのはだ。
はからりと笑いかけた。

「お前らは、チャオジーと一緒の方が良かったかもな。弟弟子にあたるわけだし」
「俺は指導なんかしないぜ」
「マリがいるだろ、マリが」

神田がふんと鼻を鳴らす。

「そっちには、緋装束は来なかったんだな」
「何それ」

チッと舌打ちを一つ、神田が腕を組む。

「リーバーに着いて来た奴が、レベル3を倒したんだよ」
「新しいエクソシスト、ってことか?」
「『中央庁からの護衛』らしい。けど、ただの護衛がアクマを吸収するはずねぇだろ」
「吸収って……いやいや、全然飲み込めないんだけど……なんだその武器」
「武器じゃねぇ。……チッ、俺だって分かんねぇから聞いてんだよ」

もどかしそうに神田が顔を顰めた。

「謎の緋装束はいるし、モヤシの左目は利かねぇし」

思いがけない話に、慌てて彼の服を引く。

「ほんとか、それ。今も?」
「任務中の話だ。虫が結界を張ってたってことらしいが」
「虫ぃ? 全体的に謎だらけだな……ったく、何が『どうもこうも』だよ、ユウ」

ばつが悪い表情で、神田がそっぽを向いた。
は溜め息を落として、思考を回転させる。
修行時代を含めても、弟弟子の左目がアクマに反応しないことは一度もなかった。
時には厄介なこともあろうが、良くも悪くもアレンは左目に頼りきっている。
養父マナとの絆の証しでもある、呪いの左目に。
は、出がけに羽織らされたカーディガンの裾を握った。

「(伯爵側の策略であれば、まだいいけど)」

アレンは、一から十まで「マナ」なのだ。
自分が、妹に拘るのと同じように。
それはきっと、「14番目」が、ネアがマナに対して抱いただろう兄弟の情とはまた違う。
「アレン・ウォーカー」だけの、マナとの繋がり。

「科学班は、何か知ってるかな」
「……聞くならジジに聞けよ。確かサンプルを持ち帰ってた」
「おう」

修練場からは賑やかな声が聞こえる。
どうやら今日は、結構な人数が集っているらしい。
向こうから手を振ってやってくるラビを見つけて、は呟くように言った。

「緋装束のことだけど。中央庁絡みなら、まだコムイもよく知らないのかもしれないな」

コムイからの説明がない以上、多くの人に聞かせていい話ではない可能性もある。
話を切り上げようという合図はどうやら伝わったようだ。
神田が釈然としない様子で頷いた。









「おおーい! ! ユウー!」
「ファーストネームで呼ぶな、刻むぞ」
「いや、お前それ木刀だから。無理だから」

突っ込みを入れて、ラビと、遠巻きに此方を見る探索部隊達に笑顔を向けた。
汗を拭きながら微笑んだのはクロウリー。
思えば、彼は少しも肌を見せない印象がある。
今着ているのは団服のインナーだろうか。
マント型の団服を着ていないだけで、余計にひょろりと細長く見える。

「よ、クロウリー。もう随分慣れたみたいだな」
「はは、皆が親切なのだ。まだまだ助けられてばかりである」

肩を竦めたクロウリーの背後から、チャオジーが不安げに顔を覗かせた。

さん、その、……具合は……?」

彼の前で失態を演じた覚えはない、とは笑顔のままで自分の行いを振り返ってみた。
ハンガリーでも、きちんと最初から最後まで戦えたはずだ。

「平気平気。大丈夫じゃなかったらあの部屋は出してもらえないんだから」
「ほーら言ったろー? 大したことないってさ」

ラビが取り成すようにチャオジーの肩を叩く。
は今になってようやく、ラビの背が随分伸びていたことに気付いた。
つい先日、任務を共にしていたというのに。
癪だ、同い年なのに二人ばかり狡い。

「オレら組み手してたんだけど、二人も一緒にどうさ?」

憧れるのも諦めるほど背の高いクロウリーが微笑み、彼らの使っていた辺りを指差す。

「探索部隊の方々も付き合ってくれているである」

誘いを受けて、は神田を見上げた。
素振りをしたいと言っていた割には、満更でもなさそうに探索部隊達を見遣っている。

「行ってくれば?」
「ああ。おい、勝負だ馬鹿ウサギ。全員のしてやる」
「はぁっ? なんっでそう、すぐ不穏な感じになるんさユウちゃんは!」

会話が聞こえたらしい探索部隊達が、青ざめて此方を見た。
彼らはこれから、恐らく神田の気晴らしの餌食になるのだ。
はなんだか面白くなってきて、笑顔で宣言した。

「じゃあ、俺はユウを応援するよ。連れ出してもらった恩もあることだし」
「ま、ままま待つである、それでは勝負が勝負にならないような……!?」
「ハッ。お前ら、勝負になると思ってんのかよ」
「ク、クロウリーさん、こういうのは気合いが大事ッスよ、オレは神田先輩から一本とって見せるッス!」









高らかにチャオジーが宣言してから、どれほど経ったのだろう。
途中、賑やかさがあまりに心地好く、微睡んでしまった。
見渡せば修練場は死屍累々といった有り様だ。
チャオジーもクロウリーもラビも、探索部隊達もあちこちにへばり込んでいる。
立っているのは柱の向こうで独自に組み手をしているアレンとマリ。
そして少し離れて監視しているリンク。
それと、の目の前に二人。

「もう一本だ、じーさん」
「来るがいい神田。組手ならまだまだ若いモンに負けはせんわ!」

いつの間にか参戦していたブックマンが、神田の髪紐を奪って構えをとっている。

「負かす」
「そろそろどちらが真のポニーテールか決めようぞ」

ブックマンを讃える声と神田への恨み節が入り雑じる中、は神田に手を振った。

「ユウー、がんばれー」

応援した相手は此方を見もしなかったが、代わりにラビが愕然として振り返る。

「嘘だろ! 何で起きちゃったんさ、このタイミングで! こんなタイミングで!」
「うああああ勝ち目がなくなったであるぅぅ」
「諦めないでください、皆さん! ブックマンを信じるッスよぉぉ」

阿鼻叫喚を尻目に笑うのは、楽しい。
笑いながら、目の前の勝負から意識を離した。
柱の向こう、アレンとマリは、互いの動きを確かめるように組み手を続けている。
アレンが、片手を吊った状態のマリに随分と簡単にあしらわれた。
こちらと違って勝負という形式ではないにしろ、いくらなんでも手を抜きすぎではないか。
否、何やら話をしながら組み合っている様子だ。
気掛かりなことも多いのだろう。
例えば、自身の左目を妨げた結界のこととか。

「(例えば、ユウが言ってた『緋装束』のこととか)」

中央庁絡み。
護衛。
アクマを破壊、ではなく、吸収。
この情報では要領を得なかったが、謎の新戦力が存在することだけは分かった。
「イノセンス」で「ダークマター」を破壊するという法則、これが崩れたというなら。
ダークマターを破壊し、魂の拘束を解く方法が他に見つかったというのなら。
この勝ち目の薄い聖戦にも、ようやく光明が射したということだろうか。
それなら、ありがたいのだが。

「やれっ! じじい! オレらと探索部隊の仇をとってくれ!」
「こてんぱんにしてくれブックマン! 特に顔を!」

目の前の戦いは盛り上がりを見せていて、視線を戻したはつい笑い声を漏らす。

「あははっ」

笑ったついでに、たまたま顔を向けた先で草臥れていた探索部隊達と目が合った。
大柄なその探索部隊員は、達と同年代だ。
一度も組んだことはなかった気がするが、どこか見覚えがある。
此方を見上げる彼に笑いかけると、はにかんだような笑顔が返ってきた。
考えてみれば、見覚えは当然あるはずだ。
このちっぽけな組織は、皆が知り合いで友人で、家族なのだから。
後で話し掛けてみよう、そう決めて神田に目を戻したその時だった。

――お兄ちゃん――

一人一人の身動ぎ、ささやかに語り合う人々の声、言葉、衣の擦れる音、息が、空気が動く音。
ヤカンから注がれる水の音、水を通す喉の音、アレンとマリの声。
まるで、あの日のように。
の声を皮切りに、世界が存在を主張する。
音の洪水に、粟立つ肌、黄昏色に染まる視界。
全て切り離そうと頭を振れば、耳許でまた、彼女が囁いた。

――お兄ちゃん――

石壁に何かが衝突する音。
手が「福音」を掴む。
振り向きざまに立ち上がる。
確認するまでもなく、空気が訴える。

「(アレン)」

は殆ど無意識に、音の発生源まで駆け抜けた。









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