燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









狂った物差しが測る正義
その確かさを誰が知るだろう
神にさえ、きっと
正解など分かりやしないのに



Night.90 永久を計る砂時計









方舟のゲートが設置された部屋を、賑やかな声が満たしている。
教団に響く複数の子供の声というのは、リナリーにとっても新鮮だった。
優しそうな院長の隣で子供達に囲まれているのは、新たなエクソシストのティモシー。
孤児院への支援を要求し、その引き換えに入団を承諾したと聞いている。
彼の専属家庭教師となるエミリアも一緒だ。
ティモシーなど、泣いてしまうのではないかと思っていたけれど。
寧ろにっかり笑って、年少の子供達に手を振っていた。

「元気でいろよー、お前ら」

ティモシーもね、と口を挟んだのは彼より少し大きな女の子だ。
女の子は成長が早いというから、二人は同い年なのかもしれない。

「エミリアの言うこと、ちゃんと聞いてよね」
「うるっせぇなぁ」
「うるさいですって?」

笑顔のエミリアがティモシーの頭にぐりぐりと手を当てる。
上がる悲鳴と笑い声。
院長も止めるでもなく、穏やかに笑っている。
背後で部屋の扉が開く音がした。
全身を包まれるような温もりが、在る。
リナリーは振り返った。
部屋中の瞳が自分の背を通り越して、入室したに向けられている。

「お兄ちゃん」

あれ、との胸元を注視した。
装飾が中途半端な場所で千切れ、音を立てて揺れている。
視線の向いた場所に気付いた彼が肩を竦めて苦笑した。

「引っかけたんだ。直してもらうまで暫くこのままだな」
「ふうん」

何となく気になって、ぶら下がっているだけの飾りを指先でつつく。
リナリーの悪戯を止めるでもなく、が首を傾げた。

「リナリーはどうして此処に? この任務、関わりないだろ?」
「クラウド元帥の代わりなの。ほんとは自分で来たかったみたいなんだけど」
「ああ、元帥達も忙しそうだからなぁ……」

思えば、彼もパリの任務には関わりがないはずだ。
その間はラビ達とハンガリーに行っていたのだから。

「お兄ちゃんは?」
「俺はアレンの代わり。報告書終わってないって言うから」

ふんわりとした微笑みに思わず引き込まれる。
リナリーは慌てて瞬きをした。
飲まれてる場合ではない。
一応、リナリーはまだ襲撃事件の時の所業を許していないのだから。
顔を背けた先では、子供達がキラキラした目を彼に向けている。
その気持ちも分かるよ、と思ったところで素っ頓狂な声を聞いた。
おかっぱの少年が、を指差している。

「えっ、あ、!?」
「そうだよ。なんだユーゴ、気付かなかったのか?」

おかしそうに笑ったが歩み寄り、慌てる少年を抱き上げた。
どうやら知り合いらしい。

「どうして? 、風邪は? だいじょうぶ? 治ったの?」
「治ったから此処にいるんだよ」
「こわい婦長さんは?」
「しぃっ、聞こえたらどうすんだ……大丈夫だって、ちゃんと婦長にも言ってきたから」

先程の少年と同じように、を指差して震えているのはエミリアだ。
彼女はわなわなと唇を震わせた。

「あ、あなっ、あなた……っ」

を凝視していたティモシーがエミリアを見上げる。

、まさか、貴方って、まさか、……まさか…………!?」
「自己紹介しなかったっけ」
「したわっ! したけど! したけどしなかった……!」
「どっちだよ……」

唖然としたまま悔しそうに拳を握るエミリア。
気が抜けたような笑みを零して、がユーゴを床に下ろした。
彼の意識が向けられた先は明白だ。
誰もがその相手に視線を移す。
エミリアと子供達が息を飲んで口を噤み、ティモシーが唾を飲んだ。
対等だと示すように、敢えて膝をつかず、青年は微笑む。

「初めまして。俺は、エクソシストだ。君の名前は?」
「ティ、ティモシー……」

ティモシーが照れ臭そうに、誇らしげに笑いながら、へへんと鼻を擦る。

「俺、ティモシー・ハースト!」

頷いたの漆黒が、すいとティモシーの背後へ動き、何もない宙を見つめた。
ティモシーが目も口も開けてを見上げる。

「兄ちゃん……見えるの……?」
「いや、何も」

呆然とした呟きに、が笑って首を傾げた。
彼はティモシーに手を差し出す。
ティモシーがそろりと手を伸ばし、彼の手を握った。

「よろしくな、ティモシー」
「よっ、よろしく……」

リナリーにも、周りの誰にも二人のやり取りの意味がよく分からない。
間違いないのは、この場で一番不思議そうな顔をしているのが、ティモシーだということだ。
握手の後の手を握ったり開いたりして、ティモシーはしきりに背後を振り返っている。
が笑って彼の頭を撫でた。
そして彼は最後に、院長を見つめる。
リナリーは気付いた。
ずっと穏やかに見守っていた院長だけが、に驚かなかったと。
が静かに頭を下げる。
院長が微笑んだ。
歩み寄った彼女はそっと肩に触れ、顔を上げさせた。

「私の気持ちを切り捨てないでいてくださって、どうもありがとう」
「……俺は、」
「いいえ」

小さな言葉をきっぱりと遮り、優しい表情のままでの手を取る。
そして、院長は彼の手を自分の手で包み込んだ。

「あんな祈りは、神父さまにだって出来ません。とても、嬉しかったのよ」

の肩から力が抜ける。

「隣にいてくださって、ありがとう」

つられるように彼が笑った。
背中しか見えなくても、リナリーにはそれがはっきりと分かった。
院長の話は、子供達にもエミリアにも伝わっていないが、それでいい。
二人の間で通じあっているのなら。
リナリーには、院長の言いたいことが何となく理解できる。
きっと、彼はまた、人のために祈ってくれたのだ。
引き換えにその身を差し出すほどの、強い祈りを。
言葉にされなくたって、傍にいれば感じる。
自分のために、自分よりも、全身を切り刻む苛烈さで祈ってくれる人が在るなんて。
鳥肌が立つほどの熱い涙で心が包まれるけれど。

「(切り刻まれた貴方は、どうなるの)」

生きていてくれるだけでいい。
リナリーだって思っている。
出来るなら幸せに生きていて欲しいと、リナリーは思っている。
自分の想いは、間違っているのか。
蔑ろにしていいのか。
彼が何と言おうと、リナリーの答えはずっと、決まっている。

「ゲート、開きます」

警備班員が、子供達を慮るようにそっと声を掛けた。
真っ先に頷いてみせたのは、院長だ。
応えるように、エミリアが頷く。
二人を見上げたティモシーが、少しの沈黙の後で笑った。

「じゃあな、……ッ、痛ぇ!」

その頭に、の拳が無造作に振り下ろされる。
リナリーは思わず彼の服を引いた。

「ちょ、ちょっと、お兄ちゃんっ」

躊躇わず問答無用で行動する様は、少しだけ彼の師に似ている。
けれど、殴り付けるような理由もないのに。
涙目のティモシーが困惑した顔でを見上げた。
が、片眉を上げて笑う。

「言葉が違うだろ?」

自分に向けるものとは全く違う、どちらかと言えばアレンへ強がる笑顔のような。
或いは神田やラビと戯れる時のような。
彼の笑顔にティモシーがはっと息を飲んで、孤児院の仲間達へ向き直った。
にかっと笑い、少年は彼の家族へ手を振る。

「またな、お前ら!」
「またね、皆!」

エミリアが笑顔で続け、子供達が賑やかに手を振り返す。
リナリーも振られた手に応える。

「またね、ティモシー。元気でいるのよ」
「うん! またね、院長先生!」

手の触れられない距離にいるのに、しっかりと目を合わせる二人。
おかっぱの少年が、院長の元へ駆け寄りながら此方を振り返った。

「またね、!」

微笑んだが軽く手を挙げる。

「(……うそつき)」

リナリーは彼を横目に見上げ、口を尖らせた。
彼らが方舟へと歩を進めていく。
最後の一人が光の扉へ消えると金色は振り返り、リナリーの背を押して退室を促した。
ティモシーとエミリアを残して戻るのだろうか。
尋ねようとした時、視界の端には肩を震わせる少年の姿が映った。
抗わずに二人で部屋を後にする。
閉まろうとする扉の隙間から、特徴的な泣き声が漏れ出てきた。
リナリーは先行く背中を見つめる。

「(ううん、嘘つきじゃなくて……)」

人にはああして、腕ずくで再会の約束をさせておいて。
なんて卑怯なの。
なんて怖がりなの。
なんて、意気地なしなの。
なんて自分勝手、あの時だってそうだった。
自分の願いばかり。
自分の望みばかりで、此方の思いなんか見ていやしない。

「(好きになんか、させないんだから)」

こうやって突き放していないと、彼の願いの苦しさに押し潰されそうだから。
私の望みなんか、忘れてしまいそうだから。
それでは、私が幸せになれないから。
だから、リナリーは。

「どうした?」

の手を掴み、引き止めて、彼を見上げる。

「あのね、」

あのね。
言いたいことはいっぱいあるし、責め立てて、怒りたいこともあるけれど、全部押し込めて。
貴方をこの世界に留めてみせる。
貴方に、その生を惜しませてみせる。
幸せになりたいと思わせてみせる。
その為の楔として、決意だけを胸に叩き付けて、リナリーは笑った。

「私、貴方のこと好きだったんだよ、……

が僅かに唇を開き、微笑みを崩さぬままで穏やかに目を細めた。

「……ありがとう」

――嗚呼、やっぱり、知ってたんだ

喜びと悔しさと、怒りと決意が入り交じり、きちんと笑顔になれたか分からないけれど。

「今はね、もっと、大好き」

が、うん、と頷いた。
リナリーは、手を離して隣に並ぶ。
胸が高鳴る。
とうに手離したあの気持ちとは違う、この緊張はまるで初めて出会ったかのような。
確かに二人は今、出会い直したのだ。
守られるだけの妹ではなく、愛を与えるだけの兄でもなく。
同じ地面を歩く者として。
そう思ったら、勇気と勢いはそこまでだった。
あまりに照れ臭くて、彼へはにかむ。

「や、やっぱり呼び慣れないね、『』って……」

首を傾げたが、そのまま廊下の先を、目の高さよりずっと下の辺りを見遣った。
す、と表情が抜け落ちる。
焦点がぼやける。
瞳を揺らした彼が呟いた。

でいいよ」

ぽつりと零された声はとても小さい。
けれど瞬きの間に、ふと眉を下げて。
蕩けるように甘く、寒気がするほど優しい微笑みを宙に向けて、が言う。

でいい。……皆、そう呼んでた」

空間の狭間に彼が何を見ているのか、思い至ってしまった。
リナリーは、思わず彼の手を握り直す。

「いいの……?」

瞼を下ろして自らを追憶から切り離した彼は、此方を向いてからっと笑った。

「コムイとか、皆、そう呼んでるだろ」

これまではただ優しい微笑みに胸をときめかせていただけだったけれど。
妹ではなく、一人の少女へ向ける彼の表情が新鮮で、吐き出す息が、震える。

「(いいんだ)」

私も、その皆の中に、入っていいんだ。
「皆」でなく、皆の中に。
が手を握り返す。

「食堂行こう、リナリー。喉乾いた」
「アップルパイはいいの?」
「うーん、入るかなぁ……」

リナリーは、こつんと肩をぶつけてくすくす笑った。

「じゃあ二人で一緒に食べようよ」









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