燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









敗者は、悪だ
彼らの正義を断じたのは
黒く塗り潰された眼鏡越しに
此方を見下ろす冒涜者



Night.89 砕けた骨の墓標









負傷した右腕は、まだ治らない。
けれど、応急処置が良かったのだろう。
命に関わる大事に至らず済んだことは、エミリアを安堵させた。
よかった、これで父に過剰な心配を掛けずに済む。
よかった、これで院長や子供達と笑顔でお別れができる。

「(よかった)」

これで、ティモシーに余計な重荷を背負わせずに済む。
厳しく優しい婦長から外出の許可も出た。
エミリアはここ二日ほど、新たな住まいとなる黒の教団の中を見て回っている。
ほぼ全ての団員が、白を基調とした服装をしていた。
そして女性はとても少ない。
出会ったら挨拶をするよう心掛けたけれど、まさかこれで全員なのだろうか。
料理長は筋肉質な見た目だが、話が合いそうなので女子枠だ。
ティモシーの好き嫌いを許さぬようきっちり頼み込んでおいた。
この建物の中で黒を基調にする者達が、エクソシスト。
教団内ではあまり見かけない。
聞けば、エクソシストという存在は稀少なのだそうだ。
しかしそのエクソシストだけが、アクマを破壊できる。
あの黒髪美形、神田達がティモシーを無理にでも引きずっていこうとした理由もようやく知れた。
藁にも縋る状況なのだろう。
白服、サポート派の会話といえば、定番のネタは任務で行った先の流行や料理。
それと、エクソシストの話らしい。
「リナリー」が可愛い。
「ミランダ」が最近ますます美人になった。
アレンの名を口にするとき、人々が声を潜めるのは少し不思議だ。
「教団の神様」に弔いを頼まなければ、という話もたびたび耳にする。
神様なんて、畏れ多い言い回しに思えるが、皆いたって真剣な顔で言うのだ。
どうやらこの組織には、本当に神様がいるらしい。

「(ところで……)」

数日病室にいながらにしてよく聞こえていたのは、隣の病室からの声である。
それも、よく知るハースト孤児院の子供達が騒ぐ声だ。
彼らの大部屋はまた別の場所なので、隣室から声がするのはおかしい。
しかも、この分厚そうな壁の向こうから聞こえてくるなんて、相当な騒ぎぶりである。

「(まったく、あの子達、空き部屋だからって入り浸ってるんだわ)」

少しはお行儀よくしなさいと、釘を刺しておかなければ。
エミリアは件の部屋の前に立ち、大きく息を吸った。
左手で扉を開け放つ。

「こらーっ! あんた達、しずかに……」

――金色。

真っ先に目に飛び込んだのは、黄金色の輝き。
陽光を受け、きらきらと光の粒子をまぶしたような、金色が在る。
そこにいるのは、一人の青年だった。
ベッドの上で上体を起こした彼が、首を傾げると共に柔らかく微笑む。

「こんにちは」

エミリアはつられて呟いた。

「……こん、にちは……」

子供達がきゃーきゃーと高い声を上げる。

「エミリアだー!」
「おこられるぅー!」
「にげろー!」
「かくれろー!」

隠れろと言いながら、エミリアのスカートの周りにまとわりつく彼らに少し慌てた。
顔を上げると、青年はベッドの傍にいたユーゴに声を掛けている。

「彼女がエミリア?」
「うん! ね? ちょっと怖いけど、可愛いでしょ?」
「そうだね、ユーゴの言う通りだ」

ちょっとあの子ったらなんて話をしてるのかしら、と普段だったら大きく声を上げるところだ。
エミリアははっとした。
つまり、ここ数日、子供達が騒いでいたこの部屋は無人ではなかったのだ。
子供達の慣れ方は、今日一日で形成されたものではない。
青年は穏やかに笑っているけれど、病室にいる以上は何かしらの不調を抱えているはずだ。
社交性と常識が、フル回転で動き出す。

「ごめんなさい、いきなり押し入っちゃって……子供達も随分騒がしくしたでしょう?」
「気にしないで。俺の方が退屈しのぎに付き合ってもらってたくらいだよ」

でも、と言いかけたエミリアを笑顔で遮り、彼は微笑む。

「エミリア、君のことは子供達から聞いてる。此処に残ってくれる、って」
「え、ええ。あなたは……」
「俺は。これから、よろしくな」

子供達がスカートを引いた。

ってドイツ語もしゃべれるんだよ!」
「イタリア語も!」
「いろーんなお話知ってるの!」

エミリアはぱちぱちと瞬きをした。
彼が、「」なのだ。
子供達が最近言う、教団の人の名前。
てっきり医療班の人だと思っていた。
本名はというらしい。
確か「教団の神様」も同じ名前だったはずだが、とエミリアは改めてを見つめた。
美形というより、宗教画の類いに思える。
けれど「教団の神様」はエクソシストだと聞いた。
彼はどう贔屓目に見ても戦闘員に見えない。
病室で見ているからか華奢で、子供達曰く博識で。
それなら科学班の方が似合いそうだ。
大きな怪我もないようだし、きっとこの部屋にいるのも、過労か何かなのだろう。
となれば、エミリアともこれから深く関わり合う可能性がある。

「こちらこそ、よろしく。……あの、私と一緒に男の子が入団するんだけど」
「ティモシーだろ? 聞いてるよ、今度俺の方から会いに行こうと思ってたんだ」

がユーゴの頭に軽く手を置いた。

「この子達は、いつ発つのかな」
「ええと……」

エミリアは昨日院長から聞いたばかりの日程を思い出す。

「明日だ、って聞いてるわ。やっと全員の熱が下がったから」
「じゃあ皆とも、もうお別れか」
「えーっ」

の手の下から、ユーゴが彼を見上げた。
頬をパンパンに膨らませている。

「やだぁー!」
「そうだな、俺も嫌だよ」

たった数日で、随分と懐いたらしい。
エミリアは目を細めて少年を見た。
部屋の中で思い思いに遊ぶ子供たちとも、明日でお別れだ。
気付けば、ユーゴが此方を見上げている。

「エミリアも、さみしい?」

笑顔でいようと、決めていた。
父にも笑顔で入団を告げたのだ。
何てことはない。そう、思ったけれど。

「うん、……あたしも、淋しいよ」

上手に笑えたかどうかは、自信がなかった。









蝋燭の灯りが、揺れる。
密かに病室を抜け出して、は夜の聖堂に足を踏み入れた。
ベッドの温もりに慣らされた体は、上着一つでも随分寒く感じている。
上に羽織ったのは洗濯から上がったばかりの団服、これで正解だった。
帰還した時、胸元を掴んだ拍子に飾りは取れてしまったというが、全く記憶にない。
今はただ、服に残った部分だけが小さな音を立てて揺れている。
暗がりで、最前列の椅子に腰掛けていた女性が立ち上がった。
丸い眼鏡の奥で目を瞠り、をまじまじと見つめている。
団員ではない。
が笑いかけると、彼女は目を瞠り、悪戯を見つかった子供のように眉を下げて微笑んだ。
おっとりした雰囲気の女性だ。

「ごめんなさいね、勝手に入り込んでしまって」
「構いませんよ。どうぞ座ってください」

傍を通りすぎ、床に膝をついた。
この数日で耳にした死者の名を思い返しながら目を瞑ろうとして、ふと顔を上げる。
女性が立ったままでを窺っていた。
何を求められているのだろう。
はあてもなく言葉を転がす。

「どなたかの弔いですか?」
「いいえ、そうではなくて……ええ、その、此処に来たら、もしかしたらと」

彼女が困った顔で笑った。

「運が良ければ、『神様』に御目にかかれると、伺ったものですから」
「神様……」

――それはきっと
――きっと、俺のことだ

分かったのに、分かっていたのに。
は、彼女の笑顔へ咄嗟に明確な答えを返すことが出来なかった。
まるで、アジア支部でズゥ老師と話したあの晩のように。
どうしてか、自分を切り捨てることが出来なかった。

「……俺で良ければ、……話し相手に、なりますよ」
「まあ、宜しいんですか?」

のままで、無防備に彼女に向き合う。
それでも、女性は顔を綻ばせて、そっと口を開いた。

「此方に、ある男の子と、教育係の女の子がお世話になることになったんです」

出し抜けに言われて、は立ち上がる。
嗚呼、彼女が。
この人が、まだ見ぬ「ティモシー」の大好きな院長先生なのだ。
思わず、深く頭を下げた。

「あらあら、どうか頭をお上げになって」
「いいえ」

差し伸べられる彼女の手は、きっぱりと断った。
断らなければならない。
教団の者は、皆、誰であっても。

「ご協力、ありがとうございます」

彼女が大切な子供に会うことは、二度とないだろう。
きっと、それを分かっていて。
ハースト孤児院の院長は、変わらぬ穏やかさで言葉を続けた。

「……せめて、祈りたかったのです。あの子に、あの子達に、少しでも幸福な未来を、と」

掠れた声にようやく顔を上げる。
彼女は視線を落とし、目を細めていた。

「私にはもう、顔を拭ってあげることも、傍で見守ってあげることも出来ませんから」

神の御元へ届けられたものや、自分が抱えていこうとするもの。
未来から喪われた、或いは失われゆくもののために祈ったことは数知れず。
けれど、未だ見ぬ幸せのために祈ったことは多くない。
向いていないのだ。
自分などに、その祈りは手に余る。

「(俺には、出来ない)」

たとえ自分にはやれぬと分かっていても。
巻き込まれ幸せの欠片を奪われた彼女に。
奪われ、同志となる少年に。
声をかけるなら。
心を、配るなら。
は呟くように言った。

「一緒に、祈りましょうか」

院長がを見上げた。
それに、眉を下げて微笑みを返す。

「一人の声より二人の方が、神様の耳にも届くかもしれない」

内緒話のように口許に手を当てて、彼女が微笑んだ。

「お願いしようかしら」
「ええ」

院長がに並び、二人は笑い合って膝をつく。
眼を閉じて頭を垂れた院長の姿が、の瞼の裏を罪悪感に染め上げた。
自分を捨てると、決めたのだ。
願いに、応えるべき時だったのだ。

「(主よ……)」

院長と子供達が、ずっと、ティモシーとエミリアを覚えていてくれますよう。
彼らが帰る場所が、ずっと、残っていますよう。
せめてティモシーが、穏やかに暮らす日々がまた訪れますよう。
彼にその時間が、残されますように。
その礎として、この身を。
は目を開く。
十字を仰ぎ、見据えた。
院長が顔を上げて自分を見ているのは、分かっていた。

「主よ」

そうだ、この願いは神になど委ねられない。
自分で叶える。
糧にするのは自分の身で、とうに捧げた未来の使い道を、決めるのは自分だ。
罪を背負えるだけ背負って、苦しみ足掻いて贖うその時に。
いや、その先で。
誰か一人でもいい。
いつか穏やかな時の中で笑えるように。
その礎として、この身を。
捧げるのはで、叶えるのはだ。
その願いに近付くのは神ではない。
だ。
自分を捨てる前に。
自分を捨てたとしても。
この祈りを忘れてはいけない。
悩み藻掻いて、贖うその時に。
この祈りを忘れてはいけない。

「……主よ、」

たとえ自分がいなくなっても。
自分が自分でなくなったとしても。
この祈りが、である証として贖罪を成してくれるだろう。
愛する世界と繋ぎ合わせてくれるだろう。
幸せな世界と結びつけてくれるだろう。
、君への目印になるだろう。
ならば。

――座して見ていろ

きっと、彼女の願いを約束されたものにしてみせる。
ティモシーも、エミリアも、やがて訪れる平和の中に残してみせる。

「彼らに赦しを」

は、漆黒に十字を映して祝福を紡いだ。









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