燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









勝者は、善だ
額縁の外から聞こえる正義を
全てかき消し、滅ぼして
歴史という海に名を刻む



Night.88 貴方の瞳に映り込む









「おかえり、

呼び掛けた声に応じて、チャオジーと話し終えた彼はいつものように微笑んだ。

「ただいま。兄貴、ドクター」

イノセンスが絡む奇怪だったが、皆、大きな怪我もなく帰還した。
リーバーをはじめ、出迎える面々はほっと胸を撫で下ろす。
とはいえ、任務に小さな擦り傷や切り傷は付き物だ。
本人達が気にも留めぬ間に頭を打っている可能性だってある。
滔々と説いている間に立ち去ったブックマンを医務室に引きずっていくよう、ラビが厳命された。
持ち帰った適合者の遺体を室長の待つヘブラスカの間へ運ぶよう言い渡されたのはチャオジー。
そして、残されたが腰のポーチを探った。

「ドクター、これ」

そっぽを向きながらドクターに差し出したのは、錠剤の入った小瓶だ。

「その、……使わなかったから……」

彼にしては珍しく、もごもごと口ごもっている。
しかしドクターはからりと笑いながらその小瓶を受け取った。

「必要なかったかい」
「……うん」
「そうかそうか。一応記録を取っておきたいから、医務室に来てくれるかな?」

が頷く。
おや、とリーバーは目を瞠った。
彼の手が何気なく拭ったこめかみに、いつの間にか汗が滲んでいる。
思えば、戦闘に決着がついてから、事後処理のための探索部隊が到着するまで、半日ほど。
彼らエクソシストは動揺する住民への対応をしていたはずだ。
ならばこの金色は当然のように、疲れも痛みも苦しみも、何一つ表には出さなかっただろう。
いっそ担架でも使って一刻も早く医務室に連れていってやるべきではないか。
声を掛ける前に、彼はドクターが促す方へふらりと歩き出した。

「お、おい……」

覚束無い足取りで進んでは立ち止まり、重たい息の塊を震えながら吐き出す。
声を掛けたいし、体を支えてもやりたいが、リーバーはついどちらも躊躇った。
暗い廊下の先を睨むように見据える漆黒に、気圧されたのかもしれない。
ドクターを見遣ると、穏やかな表情で数歩先に立ち止まり、金色を振り返っている。
一歩、また一歩と進むたびに荒く切れる息の音、言葉にならない呻き声。
グシャリと掻き寄せた胸元。
リーバーが思わず差し出した腕をも掴み損ねて、壁に凭れるように彼の膝が崩れる。
団服の飾りが千切れ、辺りに散らばった。

、」

リーバーの言葉を、ドクターが視線で遮る。
正面に膝をついたドクターは、優しい声色で何でもないことのように問うた。

「急ぐ用でもないし、少し休んでから行こうか?」

いやいやと子供が駄々をこねるように、が首を振る。
「まるで、心配した人は死んでしまうとでも言いたげに」、コムイがぼやいた通りだ。
今だって、リーバーの腕を掴み、立ち上がろうと筋違いの努力を続けている。
それでもリーバーに言わせれば、彼も随分と嘘が下手になったものだ。
何度も立ち止まり、蹲り、やっと医務室に辿り着いた途端、ベッドへ倒れ込んでしまったのだから。

「よう、よく休めたか?」

あれから二日経ち、リーバーはもぎ取った休憩を利用して、のベッドの傍に座る。
漆黒が、ぼんやりとその視線を天井からリーバーへ移した。

「……兄貴」

昨日は数回目覚めて話をしたと聞いている。
リーバーは上掛けの中の手にそっと触れた。
ひやりとした感覚に悪寒を走らせながら、しっかり握り込む。
が漆黒を瞠って、ようやく気付いたようにリーバーを見た。

「どうして、……兄貴、仕事は」
「いや、オレにも休みをくれよ」

誰も彼もが、これだ。
リーバーがたまの休憩を満喫しようとすると誰もがこう言う。
きょとんと瞬いたが、気圧されたように呟いた。

「休んでるとこ、あんま見ないから」
「確かにな、確かにそうなんだけどな」

彼の言うことも尤もで、少し落ち込む。
溜め息を落とすリーバーとは対照的に、が小さく笑った。
それに安堵し、リーバーは紙袋を差し出す。

「パリ土産を持ってきたんだよ」
「土産?」

が心から気遣わしげにリーバーを見た。

「え、ほんとに大丈夫? 夢じゃない?」
「夢じゃないっての! 失礼だな、夢じゃ――」

でも待て、こいつがそう言うなら実は夢なのか?
などと一瞬自分への信頼が揺らいだところで、が肩を震わせて笑っているのを目にした。
完全にからかわれた。
彼の額をぺしりと叩いて座り直す。

「痛っ……でも、何でパリなんか」
「アレン達の任務先で交渉する用があってな。空いた時間にちょっと見て回ったんだよ」

ふぅん、と頷く彼に、紙袋の中身を見せた。

「マカロン?」
「科学班に土産なんか買っても、誰も味わって食べたりしないだろ」

ならばまだ、女性の比率が高い部署へ持っていった方が良いだろうと思っての選択だ。

「うん、女の人相手なら悪くないんじゃない」

同僚のキャッシュや、フェイ補佐官をはじめ、リナリー、ミランダ、ジェリー。
そして厨房や医療班の女性たち。
知り合いに渡して回り、手元に残ったのはたったの三つだ。

「ピンク色が林檎味、黄色が蜂蜜、茶色がコーヒーだったかな。どれがいい?」

が視線を惑わせる。

「兄貴は、食べないの」
「食べる食べる。オレとお前と、そうだな、室長の分だ」

年下が先に選べよ、と促すと彼は少し眉を寄せて、迷った挙げ句に黄色を手に取った。
リーバーは首を傾げる。

「林檎じゃなくていいのか?」
「それは絶対に美味しいから、買ってきた兄貴が食べて」
「相変わらず林檎への信仰が篤いな」

微笑みを受けて、それならとピンク色へ手を伸ばした。
残りの茶色は紙袋に包み直す。
さて、あの室長はいつこれを食べられるだろうか。
薄い包み紙を剥がして香りを嗅ぐと、確かに林檎の匂いがする。
リーバーは丸ごと口に放り込んだ。
その一瞬後に、失敗したと気付く。
折角休憩しているのだから、もっと味わって食べれば良かった。
後悔に苛まれるリーバーの様子に気付いたらしく、も笑っている。
仕方なく、照れ隠しに笑い返した。
彼は黄色のマカロンを大事そうに枕元へ置く。

「後で食べるよ」
「(ああ、きっとこれは、食べてもらえないんだろう)」

思えば今日の彼は一度も、体を起こそうという素振りさえ見せなかった。
せめて、それが自覚あってのことであればいいが。
リーバーはただ頷いて、金色を軽く撫でた。









無言のリーバーに頭を撫でられながら、は肩を竦める。
「(あ、そうだ……)」
そこで不意に思い出した事柄に、一人背筋を震わせた。
もしもこれが勘違いなら、幻聴が起こったということだ。
リーバーに聞くのも恐ろしい。
けれど聞かないわけにもいかない。
は声を潜めて、ところで、と切り出した。

「兄貴、話は変わるんだけど……ちょっと、聞きたいことがあるんだ」
「ん? オレに分かることか?」
「うん……あの、……勘違いなら、笑って欲しいんだけど……その、えっと……」

何と聞けば不自然にならないだろう。
散々言い澱んで、やっとのこと言葉を選ぶ。

「あの、さっき入ってきたとき……外で子供の声、しなかった……?」

リーバーが入室したとき、は確かにぼんやり天井を見ていただけだった。
しかしあの時、黒の教団では聞こえようもない「子供の声」が聞こえた気がしたのだ。
リーバーがぱちぱちと瞬きをする。
はごくり、と唾を飲み込んだ。
彼はじわじわ笑いかけた顔を引き締め、真面目くさった声で言った。

「それはな……」
「う、うん……」
「本当に子供がいるんだよ」
「……えっ?」

例のパリの任務では、孤児院が戦場になったらしい。
ダークマターの影響を受けた院長と子供達を一時的に預かることにしたというのだ。
そして、その孤児院の一人が、イノセンスの適合者として教団に入団する。

「(九歳の子が、エクソシスト……)」

そんな話を聞いて、心穏やかに休むことなど出来やしない。
翌日、溜め息をつきながらごろりと寝返りをうったは、扉の外の気配に気付いた。
枕元の福音を引き寄せる。
が、すぐにそれを手放した。
これは敵意ではない。
では、何だ。
此方を探るような、この気配は。
扉がそっと押し開かれた。
隙間から覗いたのは三つの小さな顔で、を見上げて完全に硬直している。
おかっぱの男の子の上に、お下げの女の子、そしてその上に前髪を真ん中で分けた男の子。
は、身を起こして微笑んだ。

「入っておいで」

おずおずと互いを見合った子供達は、小さな歩幅で隙間から中へ入ってきた。
三人掛かりで開けただろう重い扉が音を立てて閉まる。

「だ、だれもいないと、思ったの」

女の子がもじもじしながら弁解した。
はうんと頷く。
彼らこそが、件のハースト孤児院の子供達なのだろう。
見たところ顔色も悪くないようだ。
ダークマターの影響も薄れ、暇を持て余していたに違いない。
子供はじっとしていない生き物だから。

「遠慮しなくていいよ、俺も暇だったからね」
「お、お兄ちゃんも?」

おかっぱの少年がを見上げる。
男の子にそう言われるのもなかなかに新鮮な体験だ。
は笑って頷く。

「そう、君達と同じだ。俺は、……そうだな、俺は。仲良くしてくれる?」

三人はぱっと顔を見合わせて、大きく頷いた。
彼らや、彼らが日々引き連れてくる子供達によれば、此処でお別れするのは「ティモシー」という少年だ。
「やんちゃでちょっとエロい」のだと女の子達は口を揃えた。
そして、「院長先生とエミリアと孤児院のことが大好き」なのだと。
一方で、男の子達が口々に言うのはその「エミリア」の話だ。
刑事の娘である彼女はたびたび施設を手伝い皆に勉強を教えてくれるらしい。
けれど、今回の事件を機に、ティモシーの専属家庭教師として教団入りを決めたのだとか。

「そっか。じゃあ、寂しくなるな」
「うん……あのね、

おかっぱの男の子、ユーゴがベッドに這い上がりの耳許に囁いた。

「エミリアって、怒ると怖いんだよ」
「どんな風に?」
「大きい声で怒鳴るし、ティモシーなんか、何回も蹴られてるんだ」
「見た目は上品で美人なお姉さんなんじゃなかったっけ?」
「うん、だからね、きっと、普段は角をどっかに隠してるんだよ」

彼がとても真面目な顔で言うので、も声量を絞って訊ねる。

「彼女はどこに角を隠してるんだろう?」
「多分ねぇ……オッパイか、スカートの中」
「オッ……待て、何でそんなところに」
「だって、ティモシーがオッパイもむとすげぇ怒るもん」
「いや、そりゃあ、女の人なら怒るだろうな……」

どんな悪ガキなのだ、ティモシー。
ユーゴ達に悪気は無いのだろうが、どうも良くない印象ばかり植え付けられている気がする。

「でもね、」

続いた言葉に先を促すと、彼は俯いたままで言った。

「エミリアって、すっごく可愛いんだよ」

もう、一緒にお勉強、出来ないのかなあ。
震える声に、は一度目を瞑った。
小さな頭に手を乗せる。
けれどそれではユーゴの涙を隠してやることは出来なくて。
点滴の下がっていない右腕でぐいと力強く抱き込んだ。

「さみしいよぅ……」

くぐもった言葉、もユーゴの耳許に口を寄せる。

「……ごめんな」
「何で、があやまるの?」

腕の中からを見上げた少年の、焦げ茶色。
無垢な瞳の中で、教団の神と呼ばれる人が仄かに微笑んだ。

「うん。……ごめんな」









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