燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
だいじょうぶ
怖いことは何もないよ
わたしは知ってる
あなた達は何も、悪くないということ
だからどうぞ、この手に縋って
わたしが、ゆるしてあげるから
Night.87 聖女の亡骸
――死
一発の銃声が、その言葉を掻き消した。
「……かみさま」
知らぬ間に呟く。
廊下から、横様に銃弾を受けたアクマが凍り付き、砕けた。
気配が近付く。
その人が、部屋の前に姿を現す。
「生存者は! この声がいいと言うまで、絶対にその場を離れるな!」
が部屋の外に向かって叫んだ。
生存者がいたのか、この惨劇の中で、まだ。
彼がどうしてそれを察知したのかはチャオジーの知るところではない。
けれど、それだけで自分の行いも無意味ではなかったと思うことができた。
彼はすぐさま振り返り、チャオジーに微笑む。
「おまたせ」
「、様」
宥めるような首肯の後に微笑みは淡く消え、彼の漆黒が焦げ茶色のワンピースを映した。
歩み寄り、それを拾い上げて、がベッドへ足を向ける。
「チャオジー、少しの間、窓の外を警戒していて」
「は、はい……」
何をする気なのだろうとチャオジーは立ち上がった。
が、窓を背にしてベッドへ軽く腰掛ける。
伸ばされた手。
白い指先が、少女の顔の横で敷布を沈ませる。
エーヴァを覗き込むように身を屈め、そして彼は息を吸い、微笑った。
「――っ」
チャオジーは唾を飲み込んだ。
黄金色が、真昼の明るい陽光を受けて輪郭を無くす。
煌めく光の粒子が肌を磁器のように彩る。
まるで、絵画。
まるで、聖歌。
まるで、まぼろし。
エーヴァが薄く目を開いたのが此処からでも分かった。
彼女の世界は、今、神に埋め尽くされている。
「あなたは、だれ」
ぜいぜいと喘ぐ呼吸の合間に、掠れた声は訊ねた。
が色の薄い唇をそっと開く。
「誰であって欲しい?」
その声は、すぐ傍にあるのに、どこか遠く高いところから降ってくるようで。
柔らかくて、けれど確かに空気を割り裂いた。
少女の声が、息が、答える。
「てんしさま……?」
吐息が音に聞こえるのは、一生分の願いと祈りが詰めこまれているからだ。
空気が表情を緩める。
しかし彼女は瞼を下ろして、自分でその答えを否定した。
「……かみさま……」
彼が目を瞠ったのが分かる。
そして今、慈悲深く微笑んだ。
静かで厳かで、それでいてとるに足らないものさえ掬い上げるような温もりが、空気を染め上げる。
まさに、求められた姿に相応しい在り方で。
「君はよく頑張った」
が紡ぐ声は脳の隅々まで染み渡り、チャオジーの心すら解きほぐしていく。
けれど、ふと我に返ることが出来たのは、きっと、チャオジーが彼に相対していないからだ。
彼の言葉は今、エーヴァだけに捧げられている。
否、彼は今、エーヴァだけの神様なのだ。
神の支配する空間を外側から見たとき、その光景は、美しすぎるが故に恐ろしく不吉だった。
「あとは全部、俺が赦そう。何も心配は要らない。大丈夫だよ、エーヴァ」
何をするつもりなのだろう。
心臓の鼓動が唐突に速まる。
その子の命に、何を。
鳴り止まない。
チャオジーがアクマから守った、その子に。
「(待って、神様)」
彼の背に手を伸ばすことすら出来ない。
出来るわけがない、どうして人間が、神の行いを止められるというのか。
開いた口から息を発することが出来ない。
彼は、痩けた頬を片手で優しく包み込み、彼女の耳許に顔を寄せる。
「――赦すよ」
たった一言、囁くだけで、全てが終わった。
「(嗚呼、)」
がくがくと脚が震え、唇は戦慄く。
「(なんてことを)」
総毛立つチャオジーの前で身を起こした彼は、焦げ茶色のワンピースをそっと少女の亡骸に被せた。
「主よ、彼らに赦しを」
一瞬前までそのものとして存在した人が、母娘のために言葉を捧げる。
何故自分が泣いているのかも分からない。
怖い。
憎い。
悔しい。
尊い。
美しい。
気味が悪い。
羨ましい。
おそろしい。
体を内側から震わせる彼の所業を、けれどチャオジーが責められる筈もない。
羨んでしまった。
傍らにある黄金の神の寵を一時でも我が物にできたら、なんて。
あろうことか、少女を。
チャオジーは拳で乱暴に顔を拭って目を瞬かせた。
冷たい涙の粒が、睫毛で弾ける。
がベッドから掛け布団を除いた。
敷布を引き出して、聖女の亡骸とその母親の遺品を纏めて包んでいる。
持ち帰るのだ、遺体を。
少女の体には、イノセンスがあるのだから。
チャオジーは鼻を啜る。
手伝おうと、手を伸ばした。
「様、」
「なあ、チャオジー。勘違いするなよ」
が、呼び掛けに被せるように言う。
彼は手を動かしながら、俯いたままの唇に微笑みを浮かべた。
「エクソシストだって、死ぬんだ」
咄嗟にチャオジーは肩を震わせる。
あの、死にかけた一瞬のことを言われているのだ。
あの時は間違いなく、無防備に敵の前に身を晒してしまっていたのだから。
「例えば俺が戦闘で死んだら、お前達は俺の体からイノセンスを抜き取って持ち帰らなきゃならない」
無理なら、こうして体ごと持って帰ってもいいけど。
とても微笑みながらする話ではないけれど、言われている意味は理解できる。
「いつか、キエやマオサと任務に行くこともあるだろう。その時二人を守るのはお前の役目だ」
少女の死体を丁寧に包み終えて、手を止めたが正面からチャオジーを見据えた。
「だけど、二人を守るために大勢が死ぬというなら、見捨てることだって可能性としてはある」
心を穿つように、微笑むことをやめた彼の声が、耳に届く。
「二人を守るためにお前が死ぬというのなら、……見捨てることだって、あるんだよ」
これは、神の言葉ではない。
チャオジーより少し先に、この戦いの渦中に身を置いていた、先達の言葉だ。
震える手で、敷布に置かれた彼の手に触れる。
「様、……あなたも?」
彼の手はするりと離れた。
福音を構え、彼は窓の向こうへ弾丸を放つ。
「……そうならないように、俺達は技を磨かなきゃ」
が遺体を抱えあげ、先に立って部屋を出た。
大きく息を吸う音。
空間が塗り替えられ、全てが包み込まれる。
「よく耐えたね。無事な人は顔を見せてくれ!」
黄金色のエクソシストが浮かべた笑顔は、爆音の直中にあってあまりに静かで、あまりに儚い。
けれどたった一呼吸で、そんな表情は消え失せた。
おずおずと物陰から顔を出す人々へ、彼は明るい微笑みを見せている。
「俺の言葉を信じてくれてありがとう。怖がらないで。……大丈夫、必ず守ってみせるから」
その顔を見たら、思わず涙が堰を切ってしまうような、まるで救世主のような。
それが彼の在り方で、彼が信じ、彼に求められた「エクソシスト」なのだ。
チャオジーは顔を上げた。
タッと駆けて隣に並び、手を差し出す。
「オレ、運ぶっス」
きっと、チャオジーは上手く笑えなかった。
それすら覆い隠すように、がはにかんだ。
「ゲートの準備が整いました」
出発の時に見送ってくれたシスターが、どうぞ、と部屋を示した。
「厄介になったな」
先に立ったブックマンが、礼をしている。
チャオジーは未だシーツとワンピースに包まれたままのエーヴァの死体を抱え持った。
死者の町で、災厄から身を隠す術を持っていたのは病院の周囲一帯にいた者だけだった。
病院に辿り着きさえすれば、神の加護を受け鉄壁の守りに身を置くことが出来た。
けれど。
土台無理な話だったのだ、住民の三分の一がアクマになった町の人間を、被害もなしに守り抜くなど。
チャオジーは振り返る。
「立てるか、」
「ああ。……大丈夫だって」
頷いて立ち上がる彼に、しかしラビは手を伸ばした。
その気持ちは、チャオジーもよく分かる。
現に、この腕にエーヴァがいなければ、自分が手を伸ばしていただろう。
が此方を見て、チャオジーの腕の中の少女へ静かに声を掛けた。
「エーヴァ、君の知らない国に行くよ。……お母さんも一緒だ、怖くないからね」
あの後、病院の一階に生存者を集め、その中心に少女の遺体を安置して。
彼は何でもないように、息をするように唱えた。
――聖典、発動――
自然すぎて止める間もなかった。
病院を円蓋のように包む半透明の黒い「帳」。
チャオジーとはその周囲でアクマの殲滅にあたった。
その場にイノセンスとエクソシストが在るというそれだけで集結するアクマと、庇護を求める住民。
魂と人々の声を拾い上げながら平然と戦ってみせたは今なお、呻き声の一つも洩らさない。
「あ、あのっ……」
シスターが手を差し伸べる。
神に仕える娘であれど、否、だからか、彼女は最初に見送ってくれた時もこうして頬を染めていた。
その行為の意味をどう受け取ったのだろう。
チャオジーは、きっと彼女の想いは正しく受け取られたのだと感じた。
だというのに、振り返ったが微笑む。
綺麗なばかりではない働く者の手をそっと両手で包み込み、額へ掲げた。
「どうか、お元気で」
さようなら。
シスターは離れていく手をたった一歩追いかけて、そこで立ち止まった。
先にゲートの中へ進んだブックマンとラビのあとを辿り、が方舟へ消えていく。
彼が選んだ言葉は、戦いの場に身を置く者として確かに正しいのに、それでもどこか素っ気ない。
「(アクマには、優しいのに)」
――優しいのか?
違う。
彼は、平等なのだ。
生死の別なく、全ての魂に対して、・は「等しい」。
――まるで、神のように
「(本当に?)」
「教団の神様」は確かに、ローズクロスの下に集まる者たちの神だ。
けれど、さればこそ。
彼は、決して平等なのではない。
原典は幼い頃に喪った家族で、墓碑には常に新たな家族の名が刻まれる。
それを大事に、大切に、一人守ってきたのだ。
チャオジーはシスターに会釈をした。
神のご加護がありますように。
眉を下げて微笑んだ彼女の言葉を受け止めてゲートをくぐり、黄金色を追う。
黒の教団本部へ繋がる扉を開いて、声をあげた。
「様っ」
慌てたように押し止める警備班員の掌へ、急いで暗証番号を書く。
エーヴァを抱えた状態で走り寄るのは決して楽ではなかった。
リーバーとドクターに迎えられていた彼が、振り返る。
漆黒の力は先程までと比べてずっと緩やかだ。
「様、……オレ、あなたにはなれないっス」
愛に置き去りにされた存在を赦すならば、愛に絡めとられた存在をも平等に赦せるのだろう。
けれどチャオジーには、それは出来ない。
アクマを、人間と呼ぶなんて。
「オレにはやっぱり、理解できません」
廊下の向こうから、温かな音が聞こえる。
この場にだけ、しんと下りる沈黙。
リーバーとドクターが戸惑ったような顔でを見る。
ブックマンに置いていかれたラビが振り返り、じっと此方を見ている。
警備班員がごくり、と唾を飲み込み――が微笑んだ。
「それでいいんだ」
微笑んで、彼はひとつ、頷いた。
「俺達は皆、違う人間なんだから」
赦された。
胸に落ちる言葉に、チャオジーは奥歯を噛み締める。
赦された。
そして、初めて意識する。
彼も一人の「人間」なのだと。
助けを乞うて叫んだあの町人と同じように。
往く先を神の手に委ねたかつての仲間達と同じように。
悲しみを糧にして世界の礎になろうとする今の仲間達と同じように。
感覚は叫ぶ。
――これは、神だ
理性が嘆く。
――彼は、ヒトだ
そして自分は、「神の使徒」になったのだ。
未来と権利を搾り取られた彼らと、同じように。
チャオジーは彼をまっすぐ見つめ、そして腰を直角に折る。
「今回は、……ありがとうございました、さん」
顔を上げると、彼は瞠った目をゆっくり細めて笑った。
「お疲れ様、チャオジー」
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