燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









たすけて
藻掻きながら、喘ぎながら
後悔に飲み込まれながら
貴女が此方に差し伸べる
その手をただひたすらに見つめて



Night.86 愛するということ









変化は、唐突だった。

――お兄ちゃん――

揃っていた空気の粒子が、示し合わせて列を乱したような、歪な緊張。
体を震わせたを、ロードが怪訝そうに見返した。

――お兄ちゃん――

「……何、どうしたの?」

ロードの言葉を無視して、路地の入り口を振り返る。
ようやくは、この路地が町のどこに位置しているかを知った。
今自分が背を預けていたのは、あのパン屋の外壁だったのだ。
路地の入り口で、光を背にしたジェルジが立っている。
俯いて、濡れた手を握り締め、がくがくと震えながら。
全身から迸る狂気と恐怖は、彼が既に人でない物へと変わり始めていることを示していた。

「どう、シテ……」
「どうしたの、ジェルジ」

は言葉を返した。
自分達が見殺しにしたパン屋の女将はどうなったのだろうか、なんて。
思うことすら偽善だ。
ロードが溜め息をつく。

「無駄だよ、カミサマ。コイツ、アクマでしょ」
「レロロっ? どういうことレロ、ロートたま。アクマが元に戻ってるレロ?」
「そうみたいだねぇ。いきなり、どうしたんだろ」

声を潜めて、傘と少女が話している。
は構わず、彼への言葉を重ねた。

「どうしたの、ジェルジ」
「どう、シテ……彼女ハ、ゆるして……ユルして、くれない……返事……返事を……返事ヲシテ……」

ロードがハート型の大きな扉を出現させても、が右手で腰のホルダーに触れても。
ジェルジはぼそぼそと呟くだけで、顔を上げない。

「ボクは行くね、カミサマ」

ロードが囁いた。
アクマの知覚は千年伯爵と繋がっていると言っていた。
此処にいると知られるのは、彼女にとって不都合があるのだろう。

「キミとは二度と会いたくないけど、あのコトはちゃーんと覚えておいてあげる。じゃあね」

豪奢なスカートのシルエットとレロの特徴的な声が、扉の向こうに消えた。
ノアの気配が消えたとき、ジェルジがようやく顔を上げた。

「……こんナ、事に、なるナンテ……知ラナカった……」

羊の群れの中で戸惑い悲しむ山羊達の声にならない嘆きが、大通りから聞こえてくる。

――お兄ちゃん――

一体、何がきっかけなのだろう。
この町の奇蹟は、消えつつあるようだ。
ジェルジの目からは、血の涙が溢れて止まらない。
赤に濡れた手が、ルユザの頬に爪を立て、引っ掻いた。
掠れた模様を残す赤。
傷口から零れるアクマのオイル。
掻き毟る指先から、爪が剥がれる。

「ドウシテ、ユルして、くれると、……言っテ、くれない……ぼくが、ボクじゃなく、ナル……」

声に混じる機械のノイズが、じりじりと乱れ、ぶれた。
は福音を抜き、発動させる。
ユルして
許しテ
赦シテ、ユルシテ
ユるシテ許して
ゆるしテゆるして、
ユルシて
ゆルシテ赦して
ユルシテ
町中から聞こえる斉唱が、大きなうねりになって空気を揺るがす。
愛する人を、この手で殺してしまった自分を、ゆるして。
自分を喚んでしまった、愛する人をゆるして。
理を捩じ曲げて生を手にした自分を、ゆるして。
受け入れてくれたこの町を、ゆるして。
喜びを与えてくれた「彼女」を恨む自分を、ゆるして。
この悲しみを癒してくれた「彼女」を裏切る自分を、ゆるして。

――お兄ちゃん――

赦されるべき罪。
きっと、アクマになるにあたって、愛する人を殺さねばならなかった、その時のことを言っているのだろう。
それは、すぐに分かった。
マルガレータの話が本当なら、この地のアクマは殆どが殺人経験の限りなく少ないレベル1なのだ。
魂を苛む愛の嘆きを、逃れられない後悔を、けれどそれは「ゆるされること」なのだと。
赦されること、なのだと。
説き伏せ、彼らの幸せを願った「彼女」は、いなくなってしまったのか。
彼らを、置いて。
彼らを、千年伯爵の鎖に繋ぎ直して。
ジェルジの濡れた両手、それこそ、きっと初めての「罪」だった。
だらり、と彼は腕を下ろし、天を仰いだ。

「ぼく、ゆるしテ……エーヴァ……ぼクヲ……ユルシテ……クれ……」

皮が、裂ける。
組み上がる機械の体に、涙を流す彼の、彼女の仮面。
は目の前の赦されるべき人へ、銃口を向けた。

「約束、守ってくれたんだな、ジェルジ」

いっぱいいっぱいの心で、それでもルユザを責めないでいてくれた彼に。
だって、約束を果たすべきだ。

様!』

ゴーレムが届けたチャオジーの声に答える前に、は引鉄を強く引いた。
衝撃、凍りついた機械は、一呼吸の後に砕け散る。

「……主よ、彼らに赦しを」









部屋の入り口で立ち尽くすマルガレータに聞こえぬよう、ラビが溜め息をつく。
痩せた少女の痛々しい手をそっと握ったまま、チャオジーは彼を振り返った。

「ラビさん」
「だってなぁ……」

厳しく咎めるつもりではなかったけれど、ラビにはそう聞こえたのだろうか。
彼は肩を竦めて、少女を覗く。

「オレらの領分じゃねぇさ、正直」
「それは、その……そうっスね……」

チャオジーの返事も自然と尻すぼみになる。
傍へ寄ってみれば、少女の死期はますます近付いているように見えた。
喘ぐような呼吸さえ覚束なく、空気を入れようと小鼻が動いているのに叶う様子はない。
けれど、掠れた声で、もう聞こえない声で、吸った空気をすべて使って、彼女はずっと呟いている。

「だいじょうぶ……」

その姿があまりに憐れだったから、チャオジーは椅子に座ったまま、立ち上がれなくなってしまった。
最早、ブローカーである母親のことさえ頭の片隅に追いやって。
例えば、この娘が、エーヴァが死んだとして、マルガレータは「もう一度会いたい」と望むのだろうか。
神が置き去りにした問答が、チャオジーの中に齎した答えは、否だ。
「奇蹟」の代償に怯える彼女は恐らく、その一歩を踏み出せない。
エーヴァは、この奇蹟の町で奇蹟の傍にいながらにして、最も奇蹟から遠い子供だ。
可哀想に。

「(……可哀想に?)」

そう思い至った自分に、首を傾げる。
良いことではないか、この娘はアクマにならずに済むのだ、恐らく。
ならばよほど、良いことではないか。

「(でも、この子は望まれない)」

――それを本当に良いことだと、言い切れるか?――

浮かんだ問い掛けは、「彼」の声で頭の中に響く。
ぶるり、と身震いしたチャオジーの背後から、突如、甲高い悲鳴が聞こえた。
ユルシテ、許シテと繰り返す声、声、声が、瞬く間にその数を増やしていく。

「何だ!?」

ラビが弾かれたように入り口へ駆け寄る。
困惑するマルガレータを室内へ押し遣り、彼は廊下を覗き込んだ。
マルガレータがその背中越しに、同じように廊下を見て、息を飲む。
宙に浮遊し滑るように動くのは、球形の悪性兵器。

「あれは……!?」

苦い顔で振り返ったラビが、小さく舌打ちを零して槌を掴んだ。

「あれが、アクマさ」

マルガレータが呟く。

「まさか……本当に?」

ぼんやりと言葉を落とす彼女は、状況をまるで飲み込めていない。
チャオジーは理解する、このブローカーには何一つ、悪気などなかったのだと。
ただの善意が、これだけの悲鳴を生んだのだと。

「その子らを守って無線を繋げ、チャオジー! じじいとの方も気になる!」
「お、オレも一緒に……!」

戦います、と言いかけたのに、ラビはきっぱりとそれを遮った。

「いくらレベル1だろうが、こう囲まれた中にいちゃあ、お前をフォローする余裕はねェ!」

思えば、ラビのイノセンスは大きな槌だ。
それを振り回してアクマを破壊するには、広い屋外の方が適している。
小回りが利くという点ならチャオジーの方が有利だ。
しかし自分はまだ、四方を囲まれた中で戦うなんて出来そうにない。
窓の外に、アクマの姿が見えた。
アクマの仮面が此方を、三階のこの部屋を目に映す。
チャオジーは咄嗟に、エーヴァに覆い被さった。

「伏せろっ! ――火判!」

ラビの声に重なる、アクマの弾丸。
体の傍を炎の大蛇が舐め、弾丸を飲み込んでいく。
訪れた静寂に、チャオジーは身を起こした。

「(この子……)」

この一瞬で、もう、殆ど息をしていない。
けれどこんな中ではドクターを呼ぶことも出来なければ、安らかな最期さえ迎えさせてやれない。
命尽きる前に、アクマの無慈悲な弾丸を受ける可能性すらある。
振り返ると、部屋の入り口でラビも此方を振り返った。
傍らには、へたり込んでしまったマルガレータの姿がある。
廊下から、割れた窓の外から、悲鳴と爆音が止まない。
取り敢えず今、自分に出来ることは、少女の最期の時を守ることだ。

「行ってください、ラビさん!」
「おう!」

ラビが駆け出す。
チャオジーは無線ゴーレムに手を伸ばした。

様!」

呼び掛けに答えたのは、福音の発砲音。

『……主よ、彼らに赦しを』

そして、厳かな神の祈り。
平静な声音に、空回りしそうなほどの動揺が鎮まって、乱れた思考がひとつに束ねられる。

『チャオジー、今どこにいる?』

一拍の後に、彼は風を切る音をさせながら此方へ問い掛けた。

「オレはさっきの病室っス! ラビさんが部屋の外に……病院の中にもアクマがいます!」
! オレ、こういうとこ向いてないさ!』
『泣き言を言わずにしっかりやらんか! 分かっとるだろうな? 不用意に建物を破壊するなよ』

割り込んだラビの声に、ブックマンが横から答える。
無茶言うなジジイ! 叫ぶラビに向けてか、が息だけで笑う音が聞こえた。

『俺が今から病院に戻るよ、もう建物は見えてる。チャオジー、頼みたい事が』

突然の指名に、素っ頓狂な声をあげてしまった。
相手は至極冷静に、言葉を続ける。

『俺が戻るまで、お前が殺されないように。それと、エーヴァを奪われないように。出来るか?』

神託。
方舟の中で、神田とラビに下されたものと、同じだ。
そう思えばこそ。

「はっ、……はい!」
『オレは病院を出るさ。外の方がやりやすい』
『エーヴァを……? もしや、

ラビの軽やかな応答。
それに重ねるよう呟いたブックマンの声が密やかに息を含み、黄金が芯のある声で答えた。

『あの子が、イノセンスを使ってこの町のアクマを抑えていた』

チャオジーは横たわる少女を見下ろす。

「でも、……もう、この子は、」
『だから、だ。同調が不安定になって、抑制が効かなくなった』

言い淀んだ言葉を継いだのもやはり、教団の神で。

『彼女が死んだら、「奇蹟の人」は全員アクマに戻るだろう』

呆然とエーヴァを見るチャオジーの背後から、爆音が近付いてきた。
廊下からの死角へ、慌ててベッドを引きずり込む。

『話は後だ。そういうことならば、チャオジー、そちらは頼むぞ。持ちこたえろ』

ブックマンが無線の向こうで命じる声に、伝わらないと分かっていながら頷いて返した。

『おい、チャオジー、窓も気を付けろ! 外もヤベェさ!』

ありがたい助言だが、残念ながらそちらは気を付けようもない。
カーテンも、窓ガラスすら先程の火判で焼き尽くされている。
窓の方へと神経を尖らせ、ひたすらに注意を払う。

「助けてくれ! 誰か!」
「来ないで! 嫌ぁ!」
「化け物!!」

意味のある言葉は、数瞬の後には爆音の向こう側で長く尾を引く叫びに変わる。
チャオジーは歯を食い縛った。
自分がもし今、廊下へ走り出さえすれば、助かる命があるのではないか。
けれどそれをしてしまったら、自分は恐らく背後から弾丸に貫かれ、エーヴァのイノセンスも奪われる。

「神様! どうして!」
「(どうして)」

エクソシストになれば、すぐにでも奴等、千年伯爵の手先を倒す力を手に入れられると思っていた。
現実は違う。
チャオジーには、分かる。
エクソシスト一人の命が如何に重いものか。
だってチャオジーと、キエとマオサの仲間たちは、誇るべき人々は、たった六人を守るために散っていった。

「どうして!」
「(アニタ様、マホジャ様……みんな……)」

彼らは、きっと分かってくれる。
この行動の意味を。
イノセンスを敵方に渡さないために、エーヴァを守る。
病院内にいる、他の人間がいくら、死んでいこうとも。

「(……きっと、分かってくれる)」

彼らも分かってくれる。
自分も痛いほどに分かっている、筈なのに。
力を持つことが、こんなにも苦しいなんて。
部屋の入口から声がした。

「たすケて……エーヴァ……」

よろよろと歩みくるその女は、下半身がアクマへ転換していて、上半身だけがニンゲンの形を保っている。
ぞっと鳥肌が立って、その時チャオジーは、その足元に未だ座り込んでいるマルガレータの姿に気付いた。
ブローカーならばその命を蔑ろにしても構わない――否、そんなこと、出来ない。
特に彼女のような場合は。
感情を磨り潰すための歯軋りなどする暇もなく、チャオジーは叫ぶ。

「――ッ! こっちへ!」

マルガレータが一度此方を見て、立ち上がった。

「ごめんなさい」

呟いた彼女は、アクマへ転換しかけている女へ対峙し、道を塞ぐように両腕を広げる。

「私の娘に、近付かないで」
「エーヴァ……ユルシテ……」

チャオジーは駆け出した。

――「洗礼ノ腕輪(アームオブバプテスマ)」発動――

「うおおおおっ!!」

振りかぶった拳がイノセンスの光を帯びて、まだヒトの形を留めたアクマを貫く。
女の目から流れるのはアクマのオイルなのに。
それが涙のように見えたから。
体勢を崩し膝をついたチャオジーの正面から、別のアクマが銃口を此方へ向けていた。
気付くのが遅すぎた。
放たれる弾丸。
頭上を抜けて、真っ直ぐ飛んでいった先には。
チャオジーは目を見開いて振り返る。
マルガレータの体が、砂になって崩れた。

「ニンゲン……エクソ、シスト」

アクマの声がする。
奴に向き合わなければ。
殺される。
エーヴァを奴等に渡してはならない。
殺される。
奴に向き合わなければ。
今度は、自分が。
殺される。
それなのに。
砂の中に落ちた焦げ茶色のワンピースから、目が離せなかった。









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