燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
所詮、人が生み出したもの
想像を超えることなど出来ない
創り摘み取るその御業は
ならば、人が願ったことなのか
Night.85 君に手枷を、僕に足枷を
「此処は教団ではないのだから、お主が祈りを捧げる必要もない」
他者との距離を心得ているブックマンが、理解を示すようにそう言った。
手分けをして情報を集めようと彼は提案し、そのまま町の奥へ向かっていく。
病院の前に残されたは、当てもなく足を動かした。
「(……すごいな、あの子)」
大丈夫、と。
語りかけるように、慰めるように、言い聞かせるように。
少女は、何故繰り返すのだろう。
心配されることを恐れているのだろうか。
ブックマンの言葉は、の心情を表すのに正確ではなかった。
エーヴァの元に残らなかった理由は、簡単だ。
何年、教団で祈りを捧げてきたか。
どれだけの人を弔ってきたか。
看取った数も少なくはない。
看取られることを望んだ人も、少なくはない。
今際の際に立つ人へ、赦すなどと声を掛けようものならどうなるか、自分は知りすぎている。
けれどはあの少女に望まれたなら、否、望まれずとも、きっと自分の意思で祈ってしまった。
そして、看取ってしまったことだろう。
それがどうしようもなく怖かった。
「(今は、……嫌だ)」
心が引き攣れるように震えて、足は路地へ迷い込む。
心臓が鼓動に合わせて脈打ち、痛みを知らせる。
人目を逃れて、建物の外壁に凭れ息をついた。
俯いて視線を落とすと、世界が急に遠ざかったような気がした。
――お兄ちゃん――
の声が、聞こえる。
赤色が消えたあの日以来、聞くことのなかったの声が、聞こえる。
奥歯を固く噛み締め、目を瞑る。
閉ざされた視界に、頑なな空気に、確かに触れる異物があった。
――お兄ちゃん――
身震いをして目を開ける。
至近距離にを下から覗き込む、カボチャ頭の傘があった。
「……は?」
「は? じゃないレロ! 人が折角心配してやったのに、失礼な!」
「いや、お前……人じゃないだろ……」
「そういう問題でもないレロ! むぐぇっ」
レロが無惨な声を絞り出した。
は慌てて顔を上げる。
背筋が伸びた。
覚えのある、しかし見覚えのないこの気配。
「大丈夫ぅ? おにーいちゃん」
憐れな傘を鷲掴みにして可愛らしく笑う、黒髪の少女の名を、は知っている。
「……ロード」
少女、ロード・キャメロットがにこりと、にたりと、笑みを深めた。
「初めましてだねぇ、カミサマ」
の手は自然と腰のホルダーに伸び、心臓に宿る十字架が、全身をざわめかせる。
呻くレロを左手に、反対の手には大きなキャンディーを携えたロードがすいと背を伸ばし、首を傾げた。
「そんな緊張しないでよ。今日は何にも、するつもりはないからさぁ」
空気が囁く。
確かに彼女は支配領域に踏み込んだ異物ではあるが、敵意がないのだ、と。
は暫しロードを見つめて、溜め息をついた。
腕を組んで、再び壁に背を凭れる。
「放してやれよ……嫌がってるだろ」
「ええー、やだぁー」
「なら、お前なんかに付き合っている暇は無いけど」
細めた目で見下ろすと、唇を突き出しながらも彼女は素直にレロを解放した。
憐れな傘が、よろよろと此方にすり寄ってくる。
撫でるでも掴むでも振り払うでもなく為すがままにして、向かい合うように壁へ凭れたロードを眺めた。
たっぷりのフリルで飾り付けられた華やかなスカートが、呆気なく体に潰されている。
「あのね、この町の事だけどぉ」
ロードがにこりと笑った。
「千年公はもう、ここから手を引いたよ」
は、彼女をじっと見つめる。
突然そんな話をされたところで、何のつもりかと訝ることしか出来ない。
手の内を明かして、彼ら、彼女らに何の得があるのだろう。
「何故?」
「そりゃあキミが邪魔だったからだよ、カミサマ。ここでは、アクマの目が働かないからねぇ」
知ってるでしょ? とロードはにこやかに言った。
が目を瞠り数度瞬きをすると、向こうも首を傾げる。
「あれ? 知らなかったの?」
「ロートたま! 敵に余計なこと教える必要はないレロ、ロロロロロロっ」
口喧しく飛んでいった傘はそのまま引っ掴まれ、ぐるんぐるんと振り回された。
遠心力で吹き飛ばされてしまったレロを憐れに思いながらも、はロードに先を促す。
「アクマが見聞きしたことは、ぜーんぶ、千年公に伝わってるんだよぉ」
道理で、と呟いた。
千年伯爵が教団側の情報に精通しているようだったのは、そういう理由があったのだ。
この場に一人だったのなら、このまま考えに没頭していただろう。
はちらりとロードを見遣った。
そもそも彼女は、こんなことを伝えるためだけに此処に来たのだろうか。
これでは、まるでノアへの裏切りに思える。
渦巻く疑問に、どう順番をつけていけばいいのか分からず、漠然と問うた。
「……そんなことを、わざわざ教えに来たのか」
それとも、とはわざと嘲るように笑った。
「教団に寝返るつもりなら、口添えしてやるけど?」
まさか、そうではないのだろう。
言外に問うその意を正しく受け取って、ロードが微笑む。
それまでの子供のような笑みが崩れ、嫣然と。
不思議なことに、その笑顔の方がよほど彼女らしく、しっくり来るような気がした。
ロードは微笑んで、知らぬ間に前のめりになっていた体を壁に凭れかける。
意地悪い笑みを浮かべていた話し相手は、ほんの少し目を瞠り、また元のように気怠く目を伏せた。
どうやら黒の教団は、千年伯爵とアクマの繋がりさえ知らなかったらしい。
そんな状態でよく我々ノアと戦おうなどと思えるものだ。
その圧倒的に偏っている戦況の中で、光とされる数少ないエクソシスト。
更には神と崇められるこの青年は、以前遠目に見た時よりも遥かに人間臭く、そして確かに神々しかった。
「キミと話をしたかったんだよ、カミサマ。ミザニーを助けてくれた、キミとね」
が一瞬呼吸を止め、鋭く息を吸い込んだ。
「あれは、お前達から見たら、助けたとは言わないんじゃないか?」
よろよろと戻ってきたレロを手慰みに撫でながら、彼は肩を竦める。
ロードは鼻からふんと息を吐いた。
「まあね。ノアメモリーは、完全に消されちゃった訳だしぃ?」
だが、それはノアの一族と黒の教団の戦いの一部だ。
だからか、彼には後ろめたい様子もない。
ロードだって、多くの人間達を殺した事実をこの場で躊躇いなく告白できるだろう。
「じゃあ、どうして。いや……ミザンはあれから、どうなったんだ」
重ねられた質問に、ロードは眉を下げた。
「(変な子)」
難儀なものだ。
わざわざ、敵のことを案じるなんて。
これが例えばアレンのように、ノアと深い関わりのある立場ならまだしも。
黄金色の神様。
彼について、ロードは千年伯爵から聞きかじった程度のことしか知らない。
しかし、敢えて敵側の視点から捉えるならば、その人生は「奪われ続けている」ものであるはずだ。
敵の「その後」など、気に掛ける必要もないのに。
「気になるの?」
「お前だろ、話を振ってきたのは」
「あはっ、そうだったね」
が顔を顰める。
「変な奴……」
変なところで気が合うものだ。
ロードもちょうど、そう思っていた。
笑って受け流し、彼の団服のベルトを見ながら答える
「ミザニーは、うん、元気にしてるよ」
多分キミが思っていた形とは、少し違うけれど。
その言葉を、ロードは飲み込んだ。
所詮、神様は神様だから。
結末を変えるなんてことは、出来ないのだ。
「あの子はね、ボクらとは違うの」
「異端のノア……ってことか? 『14番目』と同じで」
「ううん、ネアは、」
「ネア?」
あ、と思ったときにはもう遅い。
が無防備な表情でその名を呟き、レロが潰れた声で長い悲鳴をあげる。
「レロロロロ! ロ、ロートたまぁぁ!」
「レロうるさい。……ネアっていうのは、その『14番目』のことぉ」
漆黒の眼差しから逃れられず、ロードは仕方なく説明を加えた。
同時に察する。
黒の教団は、少なくともエクソシスト達は、未だそこまでの情報を得ていないのだろう。
「ミザニーはネアとも違うよ。『裏切りのノア』は、これまでもこれからも、きっと彼一人」
「それは……」
が言い澱み、口を噤む。
賢い選択だと、ロードは思う。
それはどういう意味かなんて。
きっと黒の教団では、懺悔する人々の手で、この青年は望まぬまま深淵に顔を浸けられているのだろう。
黄金を崇め奉る気は更々ないし、全てを打ち明けるつもりも毛頭ない。
ただ、そう、ほんの少しの後悔と感謝を皮肉の色で染め上げて、伝えてやりたかっただけ。
「それでもあの子は、ボクの家族だから」
繋がりは、確かにあった。
ノアとしての絆は確かにあった。
けれど、「残された片割れ」の心の澱を汲む存在として生まれた彼は、明らかに性質が異なっていて。
目指すものも求めるものも、崇める神も、進むべき道ははじめから分かたれていた。
教団の神様が引き摺り出したのは、その決定的な違いだ。
それでいて、彼が彼のために生きる道を残してくれた。
だから。
ありがとう、なんて言葉は絶対に使ってやらないけれど。
ロードは微笑む。
相手が怪訝な顔をするのも、レロが不吉だと騒ぐのも黙殺して、微笑む。
が僅かに目を瞠り、口を開こうとした。
「カミサマ、キミに借りを返すよ」
それを遮って、ロードは彼を見上げた。
「何して欲しい? キミが知らないクロス・マリアンのことでも、教えてあげようか?」
路地裏の空気が、一瞬で張り詰める。
ロードはそれとなく腰の後ろに腕を回し、ブラウスの下の鳥肌をそっと擦った。
レロが黄金から後退るように距離をとる。
ひやりとするような目で、がロードを見下ろし、やがて、ふっと笑みを零した。
「……いや、いいよ。要らない」
弛緩した空気の中で、ロードはふふん、と頬を持ち上げて笑う。
「本当ぉ? 正直に言いなよ、カミサマ。ほんとは気になってんだろー?」
レロでツンツンと続けば、彼は簡単にそれを手でいなした。
「そりゃあ、少しはな。でも本当に、師匠のことはいいよ」
「えーっ。じゃあ何がいいの、ほらっ、答えて。何のためにこんなところまで来たか、分かんないでしょ」
「じゃあ、一つだけ」
「言われなくとも、一つしか聞いてやんないから」
自分達が敵同士だなんて信じられないほど、穏やかに苦笑して。
の漆黒が、まっすぐにロードを映す。
「一度だけでいい。もしもアレンが困っていたら、その時は助けてやってくれないか」
「……は?」
大真面目な顔で何を言い出すかと思えば。
「何言ってんのカミサマ、だいじょぶ?」
「こっちは真面目に言ってるんだよ」
その声の強さに気圧されて、ロードは言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
行き場を失った声を追うように、どこでもない場所を見ながら、改めて口を開く。
「じゃあ、何で。教団が助ければいいじゃん」
「教団は今、あいつにとってあんまり居心地が良くないからな。それこそ、どこかの『14番目』のお蔭で」
こうして少し話しただけのロードにも分かる、彼らしくない険のある言葉だ。
本人もそう感じたのか、すぐに眉を下げて笑った。
本当に、この人間は笑うことしか知らないのだろうかと思えてくる。
「俺が必ず傍にいられるとは限らない。もしも、教団がアレンを、……もしも、」
上がる息に反して、視線が下がる。
――守らなかったとして、
掠れた声が、そう囁いた。
貼り付いただけの微笑みの中で、虚ろな漆黒が艶めいて。
ただの・がもう一度顔を上げ、ロードを見つめた。
「その時は、手を貸してやって欲しいんだ」
そんな顔をするくらいなら、世界なんか、見捨ててしまえばいいのに。
そう出来ない理由が保身でも何でもなくて、ただ大きい愛のためだなんて。
そんな人間らしくないこと、わざわざ言われなくても判ってしまった。
「……一応確認するけど、それは『14番目の宿主』のことじゃないよね?」
「ああ、勿論。『アレン・ウォーカー』のことだ」
レロが不安げに二人を見比べている。
ロードは深く息をついた。
吐ききって、軽く首を振る。
「いいよ、。約束してあげる」
落とした言葉に、あからさまに頬を緩める彼が余りにも憐れで。
ロードはくすぐるように笑う。
「こんなことノアのボクに頼んじゃって。……咎落ちしても、知らないよ?」
「咎落ち?」
きょとんと、彼は首を傾げ、一拍置いて目を伏せて笑った。
「――ッ」
ロードは息を飲む。
比にならないほどの鳥肌が、腕だけでなく、首筋や顔まで覆い尽くす。
胃の腑を鷲掴みにされて揺さぶられるような。
全身の穴という穴を引き締めていないと、悲鳴と共に何もかもが溢れ出してしまうような。
純粋な恐怖が、這い上がってくる。
背中に回ったレロの震えが伝わってくるが、それを笑う気にはなれなかった。
「そんなもの、とっくになっていなきゃおかしいだろ」
色の抜けた唇が逐一動く様子から目を離せないまま、ロードは全身を強張らせる。
黄金の真意が、ロードの思うもので間違いないのだとしたら。
「(この子は神様に、もう何にも期待していないんだ)」
BACK NEXT MAIN
161224