燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









欲深く、醜くて浅ましい
人が人である限り
生も死も、
人の苦しみを除いてはくれない



Night.84 蓋をした祭壇の中身









一夜明け、空模様は昨日と変わりない快晴だ。
パン屋の女将から、そしてブックマン師弟が他の幾人かの住人から教えられた病院は、大分古めかしい。
けれどそれは外観だけだと、中に入ってすぐ分かった。
チャオジーは辺りを見回す。
病院らしく清潔な雰囲気で、しかし病院らしい陰気な感じはない。
目に見える設備も、黒の教団ほどとはいかないが、それなりに最新のものが揃っているようだ。

「チャオジー」

声を掛けられて、ついビクリと肩を震わせてしまった。
が苦笑しながら手招く。

「こっちだ」

廊下を行く彼の背に、チャオジーは目を細めた。

――俺には、アクマは人間に見える――

「(……確かに、様にとって、はじまりはそうだったのかもしれない)」

アクマになった両親に最愛の妹を殺されたという彼の過去を、チャオジーは知っている。
けれど、アクマは彼の両親が全てではない。
材料とされた人間にどんな理由があろうとも、それが人々を苦しめていることに変わりはない。
少なくとも教団のサポーターやサポート派の団員達は、似た経験を持っている。
そして彼とて、妹が「アクマ」に殺されたことに変わりはない。
の理論に沿ってアクマを人間と捉えるならば、殺人は許容できることになる。
理由があるならば、貴方の妹は、自分の母は、恩人は、殺されてもよいのかと。
けれど、チャオジーは決して、彼を問い詰めることが出来ないだろう。

――アニタさんにもう一度会いたいと、思ったことがないなんて、言い切れるか――

彼のあの言葉に、胸の真ん中をぶすりと刺された。
答えられない。答えられる筈がない。
だって自分は、死にゆく仲間に嘘をついてでも、あの船と共に沈みたかったのだから。

「この距離で迷ったんさ? チャオジー」

扉の前でブックマン師弟が待っている。
チャオジーは小走りで黄金の後を追い、ラビに照れ笑いを返した。

「め、目移りして……あはは」

ブックマンは気にした風もなく、開けるぞ、と一言だけ言う。
この扉の先に「ブローカー」なる存在がいるのだ。
千年伯爵に、自らの意思で材料を提供し、利益を得る、罪深い人間が。
チャオジーはごくりと唾を飲み込んだ。
古いつくりの扉が、ギィと音を立てて開く。
中で座っていたらしい栗色の髪の女性が、立ち上がった。

「こんにちは、ようこそいらっしゃいました」
「(……この女が、ブローカー?)」

人は見かけによらないというのはまさにこの事だ。
焦げ茶色の質素なワンピースに身を包んだ女性は、前にある椅子を示す。

「立ち話もなんですから……とはいえ、椅子が二つしか無いのですけれど……」
「あー、構わんで。オレらはいいさ」

ひらりと手を振ったラビが、真っ先に腰を下ろしたブックマンの横にを座らせた。
金色が振り返り、何も言わずに前を向く。
女性が自分の椅子に座って微笑む。
チャオジーはラビに倣って、の背後に立った。

「私はバルナ・マルガレータと申します」

確かハンガリーでは中国と同じように姓が先に来るという。
英語風に言うならば、マルガレータが名前だ。
ブックマンが頷いた。

「我らは『黒の教団』のエクソシストだ」

各々が名乗り、マルガレータは一々会釈を返す。
チャオジーはふと首を傾げた。
彼女は、にさして目を留めなかった。
彼の特異な存在感を知らぬふりなど普通出来ない、というのがサポーターの頃からの印象だが。
そういえば、入室した時から、彼はどうも息をひそめているように思う。
不思議に思っていると、マルガレータが此方を憐れむように微笑んだ。
使命がびしりと背を叩き付ける。
忘れてはいけない、彼女は千年伯爵の協力者、ブローカーなる存在の筈なのだから。

「『奇蹟』を求めて、というお話でよろしいですか?」
「いいや。我らは『奇蹟』の真相を知りたいのだ。単刀直入に聞くが、千年伯爵に会ったことは?」

余計なことは一切交えず、ブックマンが問う。
何でもないように、マルガレータが笑った。

「ええ、勿論。何せ私は、彼の仲介人なのですから」

やはりこの女が、ブローカーなのだ。
腹の底が沸騰したように熱い。鋭く息を吸い込んだ。

「ッ、自分が何をやっているのか……!」

言い掛けた言葉を、ラビの手が阻む。
突然の怒声に怯えるように、マルガレータが肩を竦めた。

「アンタは、奇蹟の人を伯爵が何て呼んでるか、知ってるさ?」
「え、ええ……一度だけ聞きました、確か……アクマ?とか、何とか……」

ラビが笑う。

「そ。アンタの言う奇蹟の人ってのは、本当は良いモンなんかじゃねェんさ。あれは、殺人兵器だ」

マルガレータが眉を上げた。

「何てことをおっしゃるの?」

憤慨したように眉間に皺を刻み、ラビを睨み付ける。

「殺人兵器だなんて、失礼な。彼らが何か、あなた方に危害でも加えましたか?」
「いや、そういうことじゃなくて。おかしいと思わねェの? その場に立ち会ったことくらいあるだろ?」
「いいえ、ありません。『奇蹟』は全て、伯爵様がおやりになりますもの」

これは、どういうことだ。

「奇蹟の人は、死の恐怖から解放され愛する人と一つになれた、幸せな人々なのですよ」

つまり彼女は、「何を作っているのか」知らずに手を貸しているのか。
絶句するチャオジー。
ラビもおいおい、などと呟き、首を掻いている。
ブックマンが問う。

「……千年伯爵の報酬はかなりのものと聞く。お主、金遣いが荒いようにも見えんが、何故この仕事を?」

マルガレータがぴくりと肩を震わせた。
視線が彷徨い、落ちる。
その時、ふわりと空気が動いた。
ブックマンが、ラビが、顔を動かす。
マルガレータが、まるで糸に操られでもするように彼を見た。

「(……微笑って、いる)」

自分の場所からは背中しか見えなくても、はっきりと分かる。
今、がその存在感を解き放って、笑った。

「何か、理由があるんでしょう?」

彼女の唇がわなわなと空気を食み、縋るように言葉を紡ぐ。

「娘、……娘が、長く患っていて……あの子に、良い治療を受けさせて、あげたくて……」

チャオジーはふと隣を見た。
首を振りつつ声を震わせるマルガレータを見るラビの目は、思ったよりずっと冷たい。

「夫が三年前に死んでから、何とか稼げる仕事をと思っていたときに……伯爵様からお声がけ頂いたんです」

頷いたブックマンへと、彼女は茶色の瞳を向けた。

「報酬は、十分なほど頂いています。でも、娘の容態は悪くなるばかりで」

こればかりは、伯爵様にも助けては貰えませんから。
呟くように言った彼女は、娘の看病で疲れているのだろうか。
今更になってよくよく見れば、最低限の身なりを整えた程度で、大分窶れている。
がすっと立ち上がった。

「お嬢さんは、この病院に?」
「え、ええ。ずっと入院をしていて……近頃はもう、あまり起きていることもないのですが……」
「俺達が見舞っても構いませんか?」
?」

ラビが彼へ視線を移す。
が微笑む。

「聖職者らしく祈ることくらいしか、出来ませんけど」









一行はマルガレータに先導されて、階を移動した。
チャオジーは彼女の痩せた肩を見下ろして、眉を寄せる。
千年伯爵に協力するこの女性への反感は、まだある。
しかし、今や大分ぼやけてしまった。
彼女は何を作っているのかも知らないのだ。
それに、金目当てかと言われればどうやら訳ありの様子で、気勢を削がれてしまった気持ちになる。

「此方です」

マルガレータが一室を指し示した。
開かれた扉からは、小さな声がする。

「……だい、じょぶ……だいじょ、ぶ、だよ……」

部屋を覗くと、その個室の真ん中に据えられたベッドに、一人の少女が横たわっているのが窺えた。
マルガレータに似た栗色の髪、子供らしい丸みを失った頬。
目の周りは落ち窪んでいる。
素人目にも、今日明日の灯火だろうと分かってしまった。
チャオジーは躊躇い、目を逸らす。
マルガレータが泣きそうな顔で微笑んだ。

「……私やお医者様の心配を取り除くつもりなんでしょう。ずっとああやって、譫言を」

憐れだ。
仕方ねェな、と呟いたラビが部屋に入室しようとしたとき、が静かな声で訊ねた。

「何故、貴女は千年伯爵を頼らなかったんですか?」

ブックマンが彼を見上げる。
マルガレータが首を傾げた。

「可哀想に、あんなに苦しんで……あのまま生きるのは、彼女にとって酷ではありませんか?」

室内には届かないような静かな静かな囁きが、チャオジーの胸を割り裂く。
マルガレータが真っ青になって、しかし彼を見つめていた。
チャオジーには分かった、あれは、目を逸らせないのだ。
それを、「神様」が赦してくれないのだ。

「苦しんで生き続けるより、一度死んで、貴女と奇蹟の人になった方が、あの子は幸せだと思いますよ」
「なっ、……なんて、ことを……」

マルガレータの震えた声。
チャオジーはぞっとして、背筋を凍らせる。
奇蹟の人が、本当に「死の恐怖から解放されて愛する人と共にいられる」だけの存在だと言うのなら。
確かに、あの少女は、死んでこの母親と一つになった方が遥かに幸福だろう。
しかし、マルガレータはそうしなかった。

「娘に、エーヴァに、死ねと言うのですか……!?」
「何も悪いことはない筈だ、貴女と奇蹟の人になりさえすれば、あの子は生き続けられる」

一歩、一歩とが歩み寄り、マルガレータが壁際に追い詰められる。

「けれど貴女は、伯爵を頼ることをしなかった。――何か、理由があるんでしょう?」

先程もした問い掛けだ。
同じ言葉だ。
それなのに。
彼女の唇がわなわなと空気を食み、縋るように言葉を紡ぐ。

「い、一度だけ……初めて『奇蹟』の依頼があった日、私、部屋の外で待ってて、でも、あの時……っ」

上擦った声が言うには、部屋の中からは怒号と、次いでおぞましい悲鳴が聞こえたらしい。
あまりの恐ろしさに、彼女は部屋の前を離れた。
やがて部屋から出てきた「奇蹟の人」 は、しばし呆然とした様子で佇んでいた。
しかし、彼はすぐに生気を宿して、興奮したように彼女に話しかけてきたのだという。
自分は、本当に生き返ったのか、もう大丈夫なのか、罪に問われることはないのか、と。

「罪というのが、何のことなのか、私には分からなくて……でも、二人が一つになれるというのは本当です」

だから私、それ以来『奇蹟』の最中は近付かないことにしているの。
体を震わせながら告白するマルガレータを、漆黒の瞳が冷たく見下ろしている。
マルガレータが絶望したように、を見上げた。

「ど、どうか、見捨てないで……お願いします、祈って頂けませんか、エーヴァに、どうか……」

縋り付く彼女を、残酷なほどあっさりと置き去りにして。
の視線が、チャオジーとラビに移った。

「俺とブックマンはもう一度、アクマに聞き込みをしてくるよ。二人はまず、あの子を見舞ってやって」

いいよね? ブックマン。
問われた老人はゆったりと頷く。

「結局、何故アクマが普通に暮らしておるのか、分からずじまいだからな」
「このヒトはただのブローカーっぽいしなぁ」

ラビが横目でマルガレータを見遣った。
彼女は青ざめた顔で、から目を離せないでいる。
彼はそれに気付いていたのだろう、気付いていてそのままにしていたのだろう。
言葉だけが、先に落とされた。

「赦すよ、あの子は何もしていない」

がマルガレータに向き直る。

「でも貴女は、自覚すべきだ。自分では躊躇われるようなことを、他人に強いてきたということを」

マルガレータの頬を伝う涙は、娘に祈りがもたらされる事への涙か、それとも。

「行こう、ブックマン」
「あっ……様! 貴方が、見舞った方が……」

立ち去ろうとする背中を、チャオジーは呼び止めた。
彼が振り返る。
教団の神が見舞う方が、祈りにもよほど効果がありそうな気がして。
けれど言い掛けたチャオジーに、彼が困ったように微笑んだ。

「いや、二人に任せるよ」

視線が少女の病室へ流れる。

「……だい、じょう、ぶ……」

健気なその声に重ねるように、が呟いた。

「俺が行ったら、きっとあの子を送ってしまう」









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