燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









人の心は曖昧で
時と対象が、意味を反転させる
生を祝福と捉えるならば
死とて安らぎに変わるだろう



Night.83 心を裏返す









「待った! !」

方舟に乗り込む直前の、あの時。
を引き止めたのは、任務に反対するナース達の輪に唯一加わらなかった筈のドクターだった。

「どうしたの? 悪いけど、今更反対されても……」

三人が方舟の前で待っている、長引かせたくはない。
渋い表情で振り返ったに、ドクターは首を振った。

「違う、違う。君に、渡したいものがあってね」

余程急いで走ってきてくれたのだろう。
一向に呼吸が落ち着かない様子で、けれど背筋を伸ばしてドクターは白衣のポケットに手を入れる。

「これを。……私たちを安心させるためと思って、持って行ってくれないか」

カラン、という小さな音と共に取り出されたのは、掌にすっぽり収まるような透明な小瓶だった。
中には白い錠剤が幾つか入っている。
ぞっとして、全身の血が引いた。
これを受け取れば、きっと、――殺してしまう。

「い、要らない」

反射的に身構え、後退りしそうになる足を必死で止めた。
背後の三人に不審がられては元も子もない。
辛うじて首を振ったに、ドクターが微笑みかける。

「そうじゃないんだ。安心して、君が問題ないのは、ちゃんと知ってる」

震える手を、ドクターの厚い手が掬い取った。

「ただ、私が同じ状況だったらとてもそうは言えないから。勝手に想像して、心配しているだけなんだ」

手袋越しに感じるドクターの体温が、ひどく熱く思えて。
しかしそれは、自分の手が冷えきっていたからだと遅れて気付く。

「これはバク支部長の作った薬だよ。痛みで任務に支障が出そうなとき、一粒だけ飲むように」
「バクの……」
「そう。そもそもまだ効果があるかも分からないんだけど、まあ無いよりは、ね」

バクは、あの約束を実行してくれているのだ。
それはそうだ、彼の研究は寄生型エクソシスト全員に革新を齎すものなのだから。
自分が実験台になることは寧ろ望むところだった。
あの時は。
あの時は、自分にとっても悪くない話だと思った。
けれど、今は状況が違う。
これを受け取ることで、果たして、周囲にどんな感情を呼ぶのか、にはもう分からない。
芯まで冷えきった思考の中で、肩に温かな手の重みを感じて顔を上げる。

、キミがもし『大丈夫』じゃなくたって、ボクらは驚いたりしないよ」

たとえ「神様」のキミであっても。
そっと微笑んで、コムイが言った。
落ち着いた声音だ。
は戦慄く唇を僅かに開けた。

――矛盾、してるよ――
――命が惜しくないのか――
――神様であっても、なんて――

問い掛けたい言葉がある。
けれど声が出てこない。
信じるために。
彼らの生命を保障する、確かな証が欲しくて。
見上げるに、コムイが答える。

「不安になったりしない。だから、……もしそんなときがあったら、言ってくれていいんだよ」

膝が、崩れそうだ。
意識して足に力を入れた。
だってそうでなければ、まっすぐに立っていられない。
身動きひとつできなくて、けれど柔らかに微笑みながらドクターが小瓶を差し出してくるので。
は、じりじりと視線を下げた。

「……使わないと、思うよ」

ぼそりと、呟いただけなのに。
この上なく嬉しそうに、ドクターが頷く。

「ああ、それでも構わない」

一度拳を握って、は小瓶を手に取った。
よく見ると件の錠剤が、たった五粒だけ入っている。
それらが微かに音を立てられる程度の、本当に小さな瓶だ。
バクが捧げてくれたであろう熱意を思って、瓶を握りこむ。
腰のポーチにそれを収めて、改めて二人を見た。
ドクターとコムイが揃って微笑む。

「気を付けて、頑張っておいで」
「いってらっしゃい。チャオジーをよろしくね」

ふ、と息をついたら、不思議なことに震えが止まった。
は唇を引き結んで、そしてゆったりと呼吸をする。

「いってきます」

顔を上げたその時、きっと微笑むことが出来ただろう。









夜中の宿屋、流石に物音は少ない。
そろそろ、部屋の外に立っていても不審がられることのない時間帯だ。
廊下の壁に凭れ、はベルトのポーチから小瓶を取り出す。
あの、思い上がっていた自分との約束を、彼は守ってくれた。
応えねばならない。
それに、自分が実験台になることで、他の仲間への助けになるならば。
否、こうして心の中で弁解を繰り返す状況が、最も浅ましいのではないか。
薬を使わなくても構わないと、ドクターは言ったけれど、コムイは頷いていたけれど。
本当に使わずに持ち帰って、心配を掛けることはないのだろうか。
二錠ほど捨てて使ったように装った方がよいのではないか。
いいや、そもそも自分が求められている姿は「それ」を許されるのか。
自問自答に疲れて、小瓶を握り締めたまま、胸を押さえる。
じわりとした痛みが消えることはない。

「(でも、まだ使うほどじゃない)」

まだ、耐えられる。
使わないに越したことはない、その筈だ。
階段の方から物音が聞こえて、は小瓶をポーチに仕舞う。

「お待たせ」
「遅かったな」

ラビだ。
トイレに行くと言っていたのに、随分と時間が掛かっていた。
暗がりから現れた彼の左手には階下の食堂にあった椅子が、右手には軽食と思しき包みが握られている。

「ちょっと色々貰ってきたんさ……よっこらせ、っとぉ」
「椅子まで?」
「そ、どうせ後でジジイが欲しがるだろ。そっち半分座れよ。オレこっちな」

ラビはにかっと笑って先に座ってしまった。
は彼と背中合わせになるように、残りの半分に腰掛ける。
ラビが背中で吹き出した。

「せまっ」

も肩を震わせる。
男二人で一つの椅子に座ろうなんて、そもそも無理があるだろう。
突っ張った足が逆に疲れそうだ。

「いいよ、俺立ってるから」
「まあまあ、鍛練だと思えば軽いもんさ」

立ち上がろうとすれば強引に引き止められ、包みを貰ってしまった。
溜め息をつき、開き直ってラビの背に寄り掛かる。
向こうも軽く体重を掛け、互いにバランスを取るような格好になった。

「これ、あのパン屋の? こんなんだったっけ」
「下の食堂でサンドにしてもらったんさ。……あれ、間違えた、のはこっちだ」

はい交換、と包みを差し出され、言われるままに取り替える。
ちらりと背を覗くと、ラビのものには特大の鶏肉が挟まれていた。
目を逸らし、は手元の包みを細く開ける。
こちらはこれでもかと色とりどりのパプリカが挟まれている。

「あのな、

腹が減ってはなんとやら。
とは言え、腹が減っているわけではない。
けれど任務というものは、睡眠も食事も、定期的に出来るとは限らないのだ。
次いつ食事が出来るか分からない。
催すものが吐き気だけだとしても、食べ物があるならば食べておかねば。
意を決して齧り付いたの背中で、ラビがぽそりと言った。

「チャオジーとアレンが揉めてるって、知ってるさ?」
「は?」

振り返りたくとも容易に振り返ることが出来ないこの姿勢が恨めしい。
ラビが苦笑する。

「そっか、やっぱ知らなかったか」
「初耳だよ、何で……いつから? 何で?」
「あの方舟の中での事なんだけどな」

また方舟か。
ふう、と息をついて背を凭れると、どっしりとした背中がを受け止めた。
この体格の差が劣等感を煽るのはいつものことだ。

「ティキ・ミックには、人間の仲間がいるんさ」
「ああ、知ってる。カサブリーテで会った」
「はあ!? ……あそこで会ったノアって、まさか」
「ティキだよ」
「言えよっ!」
「静かに、ラビ。時間考えろ」

そういう問題じゃねェさ……! とラビが溜め息をつく。
はパプリカサンドをもう一口齧った。

「で?」
「ったく……、で。アレンが、と一緒にティキを引き上げようって言い出したんさ」

曰く、ノアメモリーの消えたティキを、人間の仲間の元へ返すべきだ、とのことらしい。
はつい微笑んだ。

「あいつらしいな」
「だろ? けど、チャオジーにはそれが納得いかなかったらしくてなぁ」
「ああ、それも……彼らしい」

パン屋の前でのやり取りを思い出し、苦笑する。

――様だって、大事な人達をアクマに殺されたんじゃないんですか……!?――

の罪も、吐き出しそうな胸の痛みも、彼にとっては関係のないことだ。
チャオジーの遥かな悲しみの前では、意味のないことだ。
彼は、現状最もエクソシストらしいエクソシストだろう。
アニタの願いを受けているものの、彼の行動理由は実質、教団のためですらない。
チャオジーは、ただ世界を守りたいのだ。
純粋に、一途に、それだけなのだ。
世界を守りたいから、そのためにアクマやノアは倒さねばならないと。
エクソシストは、頭からそれを意識できる者が多くないのだ。
皆やむを得ず戦うのが始まりで、他に理由があって戦っている。
ラビは、裏歴史を記録するためにエクソシストの身分をとっている。
だって、家族が死ぬのを見たくないから戦っている。

「……悪いな、気にかけてもらって」
「おー」

黙々とサンドを食べる音が背中から聞こえた。
は手を止めて暗がりを見つめる。
思ったよりもアレンへの反感は、教団中に広がっているのかもしれない。
今のところ、自分に対して面と向かって追求してくる者はいないが、放置していてよいものでもないだろう。
チャオジーの反応は、サポート派の反応と捉えることが出来そうだ。
彼の心は、他のエクソシストと違ってそちら側に寄り添える。
コムイは弟弟子を取り巻くこの歪みに気付いているだろうか。
それほどの余裕が、今、室長にあるだろうか。
コムイが何か動きを見せるのならば、室長と神様の足並みは揃えるのが無難だ。
団員を徒に混乱させ、分裂させるのは得策でない。
科学班の様子を見る限り、中央庁が弟弟子を孤独の中に捨て置けと命じるということも、恐らく無いだろう。
仮にそのような下知をするというならば、は真っ向から歯向かってやるつもりだ。
それにしても、やり方は考えなければ。
「教団の神」が関わることが、必ずしも事態を好転させるとは限らない。

「流石にこのままじゃ、アレンも苦しいさ」
「うん……」

あの日の師弟の会話を伝え聞いた者と、その場で共に驚愕を共有してしまった者。
その差はやはり大きく感じる。
そして何より、ブックマンの後継者が齎す安心感に、はラビに寄り掛かって、はあ、と息をついた。
せめて。

「(……アレンとゆっくり、話が出来ればいいのに)」









庭を通りやって来る訪問者を見て、ロードは駆け出す。

「あ! 千年公ぉー!」

おかえりっ! とその首に抱き着けば、人間の姿の彼は朗らかに笑いながらロードを受け止めてくれた。

「やあ、千年公。お茶でもしてく? ……と言いたいところだけど、何かあったの?」

人間の自分の「養父」であるノア、シェリル・キャメロットが首を傾げる。
そういえば、ロードはそっと振り返った。
片眼鏡を着け、長さは違えど長髪で、何かに異常に執着する。
彼はどことなく、ミザンと似ている。

「少々、目論見が外れましてね」

地面に下ろされながら、ロードは千年伯爵を見上げた。

「目論見?」

――恐らく、ハートはもう目覚めている。
ティキを含めて、四人でそんな話をしたのも記憶に新しい。
かつて、マナ・ウォーカーの墓前でアレンを殺さなかったのは何故なのか。
そう悩みながら、千年伯爵は現在、ハンガリーのある町に力と関心を注いでいたはずだ。
何でも、優秀な協力者がいて次々とアクマを生産できるとか。
しかし何故か、そのアクマたちがてんで命令に従わないのだとか。

「あの町に何かあったのぉ?」
「教団が嗅ぎ付けたようで。エクソシストが四人も来たので、そろそろ手を引くことにしましたよ」
「はあっ? 随分な人数だね……あちらにはそんな余裕があるのかな?」

分かりきったことを、含み笑いと共にシェリルが皮肉げに言う。
ロードはハッと顔を上げた。
それだけエクソシストがいるのなら、彼だっているのではないか。

「アレンは!? アレンは来てる!?」
「ロード!? えっ、またアレン・ウォーカー!? 駄目だよ、会うことはお父さまが許さないからね!」

一人で逆上しているシェリルを放って、ロードは千年伯爵の服をぐいぐいと引いた。
千年伯爵が二人の様子に苦笑して答える。

「いいえ、彼は今フランスの方に居るようです」
「何だぁ……」
「ああ、良かった」

父娘は正反対の反応を示し、千年伯爵をまた笑わせた。
やれやれと、彼は肩を竦めて首を振る。

「『神様』が来訪したのですよ。アクマの目が正常に働かない場で彼と向き合うのは、得策とは言えませんから」
「へえ、神様って、噂の『教団の』?」
「ええ。シェリル、キミはまだ見ていないんでしたっけ」
「ティッキーによれば大分ボクの好きそうな子らしいんだけど、なかなか」
「いつか会えるといいですねぇ」
「ほんとにねぇ。立ち話もなんだし、入ってよ、千年公」

シェリルに手を引かれるまま、ロードは屋敷に戻る。
頭の中に、たった一つ、手掛かりを刻み付けて。









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