燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









守れなかった、救えなかった
外れてしまった、逃れてしまった
あなたへ、わたしへ
人は嘆くのだ



Night.82 死者の町









ジェルジ、と来れば男性名の筈だ。
しかし女将の声に応じて顔を見せたのは、若い女だった。

「何? 女将さん」
「この人達に『奇蹟』のこと説明してやってくれる? あたしじゃどうも上手く言えないのよ」
「ああ、そういうことなら」

歯を見せてにっと笑う女は、カウンターへ片手をついて、首を傾げる。

「さて、どんなことから話そうか」
「ちょっと待って、その前に……気を悪くしたらごめん、貴方は、女性?」

ジェルジがきょとんと瞬いて、すぐに笑い出した。

「はは、ううん。そう、ぼくは男だ。でもまあ半分、女性だね」
「どういうこと?」
「『奇蹟』だよ、まさに。ぼくは二年前に、一度死んでいる」

すっかり、後ろの二人は手を止めてしまっているようだ。
女将が買うなら持っておいで、と手招いているのにも応じる素振りがない。
ジェルジが微笑む。

「この町の『奇蹟』っていうのはね、愛する人と一つの体で、一緒に生きていけることなんだよ」

女将は既に聞いた話だからか、穏やかに頷いている。

「……『奇蹟』が起きたときのこと、貴方は覚えているのか」
「いや、当時のことはよく知らない。ぼくらはペシュト出身で、此処へは彼女のルユザが一人で来たから」

ガラス窓の向こう、通りに目を遣りながらジェルジが指をさす。
彼も、彼女も、あの子も、「奇蹟の人」だと。
ラビとチャオジーが勢いよく窓を振り返った。

「ルユザに名前を呼ばれて。一つになるときは、流石に苦しくて辛かったけど」

ジェルジの琥珀色の瞳が、の漆黒と向き合う。

「でも、これからはずっと一緒だと教えられて。大丈夫だと、いつも励ましてもらって……」

はにかんだ彼は、照れ臭そうに頬を掻いた。

「今は、毎日が楽しい。ぼくの中にルユザがいることが。いや、ぼくがルユザの中にいることが」

気持ちも思い出も、二人で共有しているんだ。
その笑顔には曇りも疑いもなく、かえって、チャオジーを混乱させたようだった。
怒りがぎらぎらと迸り、ジェルジに向けられている。
どうしたものかと一瞬思案するの耳に、小さな物音が聞こえた。
振り返ると、女将の目に止まらぬよう、ラビが必死に彼を背に隠している。

「(今は此方に集中しよう)」

まだ聞きたいことはあるのだ。
はジェルジに向き直り、同じようにカウンターへ片手をかけた。

「二人で一つの体……じゃあ、食べ物とかはどうするの? 一人分で済む?」
「うん、体は一つだから。そうだ、ここのパンは本当に美味いんだ、買っていってね」
「上手だなぁ、全く……。そうさせてもらうよ、なあ、ラビ?」
「あ、ああ! 女将さん、オレ、これにするさ。チャオジーはどうする?」
「オレは……そんなことより、ラビさんっ」
「いいから、いいから」

絞り出すような、捻り出すような、憎しみの籠った言葉をラビが押し留める。

「お買い上げ、どうも。んん……そうだなぁ、……ぼくも二人分食べた方がいいのかなあ」

不意にジェルジが呟いた。
は眉を上げて、先を促す。

「いや、ね。なんだかいくら食べても、いつもお腹がすいちゃうんだよ。何でだろう?」
「さあ……不思議だな」

それは、ダークマターが訴える渇きなのだろう。
二人で一つの体を共有する。
共に暮らすことが出来る。
甘い言葉で、その行為へ導いた誰かが、恐らく、いるのだ。
千年伯爵自身の仕業か、はたまた、人間の仕業か。

「二人で、故郷へ帰ろうとは思わないの?」
「一度は考えたんだけどね。町の外に出ようとすると急に気分が悪くなって……引き返しちゃうんだ」
「……帰りたく、ならない?」

困ったように笑って、ジェルジが首を振る。

「『奇蹟』は、きっとこの町だけのものなんだろう。ここにいられることだけで、もう十分だよ」
「そうか……」

「奇蹟の人」がアクマだとするならば、その現象は、この町に限定されている。
そして恐らく奇蹟というべきは、人が蘇ることではない。
アクマが殺人衝動に縛られていないこと、それ自体が、達から見れば最大の「奇蹟」になる。
とすればこの町では、何らかの理由で、まさにアクマとヒトが共存できているのだ。
それは例えるならイノセンスのような、超常の、奇跡のような力によって。

「キミも、」

密やかな声音。
ジェルジが気遣わしげにを見ている。

「キミも誰かと、一緒になりたいのか?」

――嗚呼、なんて

は唾を飲み込む。
なんて美しい言葉だろう。
なんて甘やかな誘いだろう。
なんて、そそられる。
出来るのだ、この町ならば。
にもう一度生を与えることが。
たとえこの壊れた体であろうとも、アクマになればもう一度、あの子に時間を与えることが出来る。
思わず胸が詰まり、目が熱くなり、は俯いて、けれどふ、と笑った。

――いつまでこの奇蹟が続くか、分かりもしないのに

「……そうだね、興味、あるな」
様!?」

吐息と共に言葉を吐き出すと、チャオジーが上擦った声で叫んだ。
彼には後で説明しようと頭の片隅で考えながら、ジェルジを見つめる。

「教えてくれる? どこで、その『奇蹟』を得られるか」
「それは、あたしが教えてあげるよ」

女将が口を挟んだ。
ジェルジが肩を竦める。

「その方法だけは、ぼくは詳しく知らないからね」
「あそこに大きな病院が見えるだろう」

ラビとチャオジーを押し退けた女将が、窓の外を指差した。
もうすぐ、陽が落ちる。
この町の規模には似つかわしくない、かなり大きく古い病院の屋根が見える。
指摘すると、女将が笑った。

「元々、ここは医療で有名な町なんだよ。今は、生前は最高の医療を、死後は『奇蹟』を、ってね」
「あの病院に『奇蹟』が?」
「そうよ。彼女はいつも、あそこで『奇蹟』を与えてくれるのさ」
「そして彼女に、ぼくらはいつも救われているんだ。キミにも、救いがありますように」

ジェルジが、の手を取って微笑む。
囁くような声は、偽りの無い気持ちを表しているようだった。
ラビがパンの会計を済ませて、チャオジーを外に連れ出す。
は手を離し、ジェルジの手を逆に包み込んだ。

「……約束して欲しいことが、あるんだ」
「うん?」
「どんなことがあっても、ルユザを、責めないであげて欲しい」

不思議そうに、 ジェルジが首を捻る。

「何で、ぼくが?」
「何でも。約束してくれ、ルユザを責めないって。どんなことがあっても、……俺が、貴方達を赦すから」

いつか訪れる悲劇にむけて、ただただ繰り返す。
ジェルジがくすりと笑った。

「彼女と同じこと、言うんだね」









店を出て、すぐには考えを巡らせる。
最後に二人が言った、奇蹟を与える「彼女」。
ヒトだけでなくアクマにも救いを与えるということか。
どこかで一度情報をまとめなければ。
否、今優先すべき事柄は。

様! どういうことですか!」
「ラビ」
「ああ」

目配せで、ラビが駆け出す。
優先すべきは、アクマの数とその食欲とやらについて。
此処のアクマがすべからく殺人経験が無いレベル1だとしても、その数は膨大だ。
飢えたアクマが本来の動きを取り始めたら、こんな小さな町は一溜まりもない。
共喰いだって起きるだろう。
そして、が今優先すべきは。

「どうしてあのアクマを見逃すんですか……!」
「落ち着け、チャオジー」

肩に掛かるチャオジーの手を下ろし、は首を振った。

「あのアクマは……いや、仮にアクマなら、彼はまだ誰も殺していないし、殺意も持ってない」
「そんなの関係ありませんよ。アクマを壊す……それが、エクソシストじゃないんですか!?」

そう、彼のその主張は、間違っていない。
はぐ、と奥歯を噛んだ。
所詮、達は情報収集を優先したのだ。
今は害がないから、事を荒立てない為に手を出さないだけ。
いつかの時にはあの女将が犠牲になる可能性を、知りながら。

「あいつだっていずれ、人を殺すんでしょう!? アニタ様や仲間達を殺したように!」

そう、彼の主張が、正しい。
はただ、踏み切れないだけだ。
意志疎通さえ出来るなら、なるべくアクマの言い分を聞いてやりたいという、それだけだ。
まして、ただ其処に存在するだけのアクマを殺すことは、どうしても躊躇してしまう。

「どうして分かってくれないんですか」

上手く言葉に出来ないでいるの肩を、もう一度チャオジーが焦れたように掴んだ。

様だって、大事な人達をアクマに殺されたんじゃないんですか……!?」
「(――そうだ)」

まるで、身体中に氷を押し込まれたような衝撃だった。
氷は灼熱に変わって、心臓を押し上げる。
そこまで畳み掛けられて、ようやくは、気付いた。

「(『憎む』んだ)」

チャオジーにとって、否、例えば江戸へ向かったあの船の乗組員達にとって。
アクマとは、憎むべきものなのだ。
教団の関係者はその殆どがアクマに肉親を奪われ、復讐のために集った者達。
だから彼らは、日々の戦いに命を懸ける。
それが直接、自身の勝利には結び付かなくとも。
未来の誰かが、必ず成し遂げると信じて。
エクソシストが、必ずやり遂げると信じて。

「(忘れては、いけない)」

その恨みは、憎しみは、分かっていた。
寧ろ当たり前になって、改めて意識することすらなかった。
仲間達の感情は知っている。
けれどそれと自分の事を重ねられると、噛み合わずにすっかり戸惑ってしまう。
は唇を引き結んだ。
チャオジーにとってアクマとは、アニタやマホジャや船員達、そして母親の命を奪った、滅ぼすべき存在。
アニタから授かったと信じるその力は、仲間を救うために、守るために、振るわれる。

「……お前の言うことは、正しいよ」

ぽつり、呟いた言葉に、彼は安堵したように息を吸い込んだ。

「でも、今は手を出さない」
「っ、様!」
「実害が無いし、一人ずつ炙り出すのは効率が悪い。それよりも、大元を突き止めることが先だ」

チャオジーが言葉を飲み込んだ。
今、理性と衝動が必死に戦っているのだろう。

「大元っていうのは……千年伯爵の、ことですか?」
「そう。恐らくこの町に、彼の協力者、ブローカーがいる。その人を探すのが先だ」

ブローカー。
チャオジーが言葉を繰り返す。
は密かに溜め息をついた。
また、ブローカーだ。
何が楽しくて、人の不幸を売り付けるのだろうと。
愛を、絆を、誇りを、期待を、願いを、悲しみを、苦しみを、痛みを。
悼みを、利用してまで。
自分がいざその立場に立ったら、などとは考えもせず、己の欲望のために。
愚かしく、けれど当然ありうる人間の形。

「その、ブローカーを何とかするまでは、アクマを壊さない、ってことっスか?」
「ブローカーは伯爵と悲劇の仲介者だ。アクマを殺した傍から新しく生み出されても困るだろう」

チャオジーが首を傾げた。
嗚呼、彼と、ただ同じ痛みを分かち合えたら、楽だったろうに。

「殺す?」
「俺とお前は、きっと違う。俺にとって、」

互いの傷を嘗め合えたら、楽だったろうに。
微笑みの形を保っていたくて、震える唇に力を入れる。

「俺にとって、……妹を殺したアクマは、両親だった」

――そして、父を殺し、を殺し、母を壊し、あの村を滅ぼしたのは、俺だ

罪を心に刻み付け、は彼に向き直り、意識して口角を持ち上げた。

「なあ。アニタさんにもう一度会いたいと、思ったことがないなんて、言い切れるか」

ひゅうっ。
息を吸い込んだまま、チャオジーが硬直した。
通りの真ん中で口論していたからだろう、出来るだけ気配を薄めていたのに、視線が集まり始めた。
は周囲へ愛想笑いを向ける。
微笑みに仮初めの安堵を得て、人々が目を逸らしていく。

「俺には、アクマは人間に見える。喚んでしまったその想いを、否定することはできない」

嗚呼、なんて毒々しい。
背中から射す橙色を遮るように、はチャオジーの肩を軽く叩いた。

「お前の言うことは正しいよ。だからどうか、そのままでいて欲しい、――今を生きている人のために」

行こうか。
歩き出したを追う、引き摺るような重たい足音。
死者の行き交う朗らかな町の中で、二人の間には追憶と哀悼がしっとりと横たわっていた。









   BACK      NEXT      MAIN



160807