燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
生は過ちだと人は嘆く
ある時は悔恨を抱きながら
ある時はまた
先逝く者への哀しみを抱いて
Night.81 奇蹟の町
――あの町に行けば、愛した人との永遠が手に入る
そんな噂が立ち始めたのは、ちょうど三年前のこと。
ハンガリー、ブダペシュトの郊外に位置する小さな町は、今では「奇蹟の町」と呼ばれている。
愛する人を亡くした者がその町に行くと、死者と共に過ごせるらしい。
その代わり、行った人は二度と戻らない。
「――と、まあどう考えても?」
「アクマ……かな」
方舟が繋いだ隣町の教会、そこから四人は馬車に揺られる。
どうやら先の教会にはも訪れたことがあるらしい。
ステンドグラスを背にしたシスターに、以前はお世話になりました、などと金色が微笑みかけていた。
頬を染めたシスターから簡単に隣町の噂を聞き、手配してもらった馬車の中で早速資料を読み始める四人。
チャオジーは、向かいに座る二人の掛け合いに目を瞠る。
「そう、なんスか?」
斜め前に座るラビが笑った。
「そうだろ、多分。愛した人との永遠……アクマのことじゃねェかな」
へえ、とチャオジーはただただ頷く。
千年伯爵がどのようにアクマを増やしているのか、今まではさして知りもしなかった。
そんな機会は訪れず、訪れたとて知りたいとは思わなかったろう。
アクマとは、母親やアニタ、マホジャ、そして船の仲間達を奪った存在で、それ以上でも以下でもない。
隣のブックマンが、顎を触ってふむ、と唸った。
「確かに、これでは敵の勢力の全容は掴めんだろうな。どれ程の人数がその目的で町を訪れたか……」
「気になるのは、」
正面に座るが、ラビに凭れながら資料を横目に眺め、呟くように言う。
「どうして被害報告が一件もないのか、ってところだな……」
「……なあ、」
「うん……?」
「もしかして、眠い?」
チャオジーがずっと気になっていたことを、苦笑したラビが聞いてくれた。
え、と声を漏らして、が目を瞬かせる。
そして、彼はようやくラビに凭れ掛かったその体勢に気付いたらしい。
「あ、悪い」
「いやいや、良いけど、別に」
「どうせ後になれば無理にでも動くことになる。眠れるようなら休んでおれ、」
微睡みを妨げない静かな声で、ブックマンが言う。
が慌てたように首を振り、はにかんだ。
「違うんだ、大丈夫。その……ラビ、温かくて」
「寒いんか? なんなら抱き締めてやるさ、ほら遠慮無く!」
「やめろって、要らねぇよ」
笑い合う二人を見ていると、あまりにもいつも通りに見えてくる。
おかしい、先程はどことなく気怠さの漂う空気であるように思えたが、うっかり安心してしまいそうだ。
チャオジーは身を乗り出して、問い質そうと口を開いた。
けれど、彼の漆黒がチャオジーを射止める方が僅かに早い。
「大丈夫。……変な顔してんなよ」
肩を竦めたその笑顔に、不自然な点は一つもなくて。
結局チャオジーは、浮かせかけた腰を椅子に戻した。
がラビから離れて、手持ちの資料を捲っていく。
「話を戻すけど、どう思う、ブックマン」
「ふむ。被害報告が無いということは、アクマではない可能性もあるにはある、のだろうな」
「被害報告が、無い……」
チャオジーの言葉に、が目を向けた。
「住民が皆アクマだって可能性もある。それに……何らかの手段で、共存している可能性だって」
え、と思わず絶句する。
可能性の話をしているのは分かるが、あまりにも突飛な考えだ。
「まっさかぁ」
反論するより先に、ラビが先に笑い飛ばした。
「いくらなんでも、そりゃあねェさ」
「案外、正鵠を射ているのかもしれんぞ」
老人の瞳が鋭く弟子を見遣る。
「何せこの町は『奇蹟の町』。アクマが殺戮を繰り返すような町を、そんな名では呼ぶまい」
「でもっ」
アクマは、チャオジーの大切な人達を奪った残虐な殺戮兵器だ。
そんなものと人間が、共存するだなんて。
つい叫ぶように言って、我に返り首を振る。
「……でも、有り得ないっスよ、そんなこと……」
現実は、絵本のような夢物語にはなりえないのだから。
沈黙が下りた室内に、蹄と車輪の音が続く。
ふ、と空気が和らいだ。
目を上げる。
三組の眼差しを受け、が首を傾げた。
ゆるりと微笑む。
「実際に見てみないと分かんないよな。まあ、アレンがいたら一発なんだろうけど……」
チャオジーは目を瞠った。
「小僧の眼なら、町の様子もすぐに把握出来るだろうに。あやつはどこに行ったのだったか」
落ち着け。
何もおかしなことはない。
アクマとヒトを見分ける眼を持つ弟弟子を、が連想することくらい、自然なことだ。
その筈だ。
たとえその弟弟子が、ノアの宿主だったとしても。
分かってはいるのに、ささくれだった心はなかなか平常に戻らない。
「あー、アレンは確か、ユウとマリと一緒にパリだった気がするさ。上手くやれてんのかね」
ラビが洩らす乾いた笑いに応えるように、がくすりと笑った。
「無理だろうなぁ……あいつら、初対面からなんか反りが合わないんだよ」
「聞いたぜ、それ。食堂でやりあったって?」
「そうそう。コムイも、同じ二人組なら俺らとアレン達を逆にしたら良かったろうに。なぁ?」
突然が此方を向くものだから、チャオジーは肩を跳ね上げてしまう。
渦巻く負の感情を、吹き飛ばすような笑顔だ。
彼はこの内心のざわめきを、知らないだろうに。
「兄弟子達と一緒だったら、もっと心強かったろ?」
「そ、そういうもんっスか、ね」
かもなー、とラビが頷く。
ちらとチャオジーを見遣ると、背凭れにだらりと寄り掛かり、そのままずるずると背と尻を滑らせた。
「そういや、はチャオジーがエクソシストになったって知らなかったんさ?」
「ああ、うん、そうなんだ。コムイに聞いて驚いたよ。そういう意味でも、よろしくな」
朗らかな言葉に、心のうちは一瞬で塗り替えられた。
身の引き締まる思いがする。
チャオジーはぐっと背筋を伸ばした。
「はい、頑張ります!」
「腕輪の形のイノセンスだっけ?『洗礼ノ腕輪(アームオブバプテスマ)』……ちょっと見せて」
「ど、どうぞ」
差し出された手。
彼の一挙手一投足が、チャオジーの胸を高鳴らせ、緊張の渦に巻き込む。
応えて自分の腕をその手に乗せると、が興味深そうにイノセンスを眺めた。
「ふうん、装備型……」
チャオジーは、彼の視線を辿るように腕輪を見つめた。
変貌したティキ・ミックと対峙した方舟の中。
リナリーを守りたいと思ったあの時、突然その思いに応えてくれた神の結晶は、まさに。
「……アニタ様が」
「ん?」
「このイノセンスは、きっと、アニタ様からの授かり物なんです。皆さんを守る、力として」
愛おしいその腕輪をそっと撫でる。
ふと顔を上げれば、神が静かに目を伏せていた。
林を抜けると、町の入り口までは一本道だ。
町の手前で四人は馬車を下りる。
ラビが唸りながら背伸びをし、ブックマンがしゃっきりしろ、と小言を言った。
が御者に微笑みかけて礼を述べる。
引き返していく馬車を見送りながら、教団の神は笑顔のままそっと呟いた。
「……町の外も、案外大人しいな」
ブックマンが頷く。
「馬車を下りてすぐ攻撃されることも考えたが……」
「え、」
思いもよらない言葉に、チャオジーは瞬時に青ざめた。
ばっと左右を見回して、隣に佇むラビが槌に手を番えているのをようやく目にする。
ブックマンの視線もこれまでより鋭くて、思わず背筋が凍るほどだ。
そんな危険など、予期していなかった。
何せチャオジーが注視していたは、そうだけは先程までと変わりないのだ。
チャオジーは慌てて拳を握り締める。
しかし、恐らく危機はないという判断なのだろう。
とブックマンは話し合いながら町の方へ行ってしまった。
あんなに素早い判断は、出来ない。
イノセンスに適合したら、エクソシストになったら、誰もが神の使徒に相応しくなれるのではなかったのか。
二人の背を見送っていると、ポンと肩を叩かれる。
「ほら行くぜ、チャオジー」
ラビだ。
先にたって歩きながら、彼は早足で後を追うチャオジーを気に掛けるように少し振り返った。
「から色々学べって言われてるのは知ってるけど、これだけは言っとくさ」
改まって、一体何の注意事項だろうか。
チャオジーは身構える。
「アクマの見分け方だけは、アイツじゃなくてオレらを見て覚えた方がいい」
「どうしてですか?」
「オレらはアレンみたいな眼を持ってるわけじゃない。それはも同じ、の筈なんだけど」
ラビが眉を下げて笑った。
「分かるらしいさ、あいつ。誰がアクマで、誰が人間か」
つい見開いた目が乾きを訴える。
掠れた声が、やっと喉を通り抜けた。
「……っ、そんな、馬鹿な」
そう言いつつ、一方でチャオジーは自答する。
理解している筈だ、彼ならきっと、出来るのだと。
理論の向こうで、心の奥底、限りなく根底に近い部分で。
「のやり方は、多分参考にならねェよ」
町の入り口で、早く来いよと此方を手招きするその人を、チャオジーは改めてまじまじと見つめた。
活気のある町だ。
傾き始めた陽の光の中で、は周囲に目を遣って考える。
交通の便は良くない。
町の規模も、取り立てて大きいわけではないけれど、商店も人も、活気に満ちている。
町並みもきちんと整えられて、美しい。
古くからの建物と、新しい集合住宅とが入り交じっていても、あまり違和感は感じられない。
宿を取ってくるというブックマンを送り出して、三人はゆっくりと大通りを歩く。
ふと、はチャオジーに目を遣った。
「チャオジー」
「はっ、はい!」
「緊張してる?」
心なしか青ざめたチャオジーが、ぎこちなく振り向いた。
初任務なのだ、当然だろう。
は表情を緩めて微笑みかけた。
「まだそんなに心配は要らないよ。今のところ、敵意は無さそうだ」
「でも、様……」
「それも」
しょうがないなぁと呟きながら、眉を下げる。
「様、なんて、言わなくたっていいのに」
「そうさ。同じエクソシストだろ?」
ラビが軽い調子で続けたが、逆効果だったようだ。
チャオジーが困ったように俯いた。
自らの手でアクマを狩ることが出来ないからか、サポート派の団員はエクソシストを敬称で呼ぶことが多い。
どの仕事にも優劣はないのだと、例えば通信班がいないと本部との連絡もとれないのだと。
いくら説明しても、の主張を受け入れてくれる者は少ない。
彼らの思いも知っているから、最終的には本人の判断に委ねてしまうのだが、エクソシストは別だ。
戦闘中などは言葉に気を遣っている場合でも無いし、同じ立場でその呼び名は不自然だろう。
「様は……その、オレらにとっては、神様だったんで……」
はふう、と息をついた。
分からないでもないのだけれど。
彼はこれまでずっとサポーターとして教団に助力してくれていた身だ。
今までの癖で呼んでしまうこともあるだろう。
「分かった、好きに呼んでくれればいいよ。……ただし、これだけは分かっていて」
救われたような顔のチャオジーに釘を刺す。
「俺達は対等だ。上も下もない。お前は、欠けてはならない存在だと」
いいな、と念を押せば、チャオジーが神妙な顔付きで一つ頷いた。
それに頷き返して、空気を変えるようににこりと笑う。
町に入ってからずっと続いていたチャオジーの体の震えが、ようやく止まった。
もう、不必要な緊張は取れただろう。
ラビに目配せをすれば、相手も肩を竦めて応じた。
「よし、日が暮れる前に聞き込み行こうぜ。あのパン屋なんてどうさ? 美味そう」
「美味そうって、ラビさん、食べる訳じゃないんスから」
「いや、世間話がてら情報を貰うには、なかなか使える手だよ」
へえ、と瞬くチャオジーを促して、ラビの指差すパン屋に入る。
カラン、と鳴るベルの音。
ラビとチャオジーがパンを選ぶのを横目に見ながら、はカウンターへ近付いた。
いらっしゃい、と笑顔で応じた女将が目を瞠る。
「あらやだ、あたしったら化粧もしないで……外の人よね。『奇蹟』を求めて来たんでしょう?」
此方に耳を傾けながら賑やかにパンを選ぶラビ。
そしてラビに答えればいいのか此方を盗み聞きすればいいのか戸惑って慌てるチャオジー。
背後の様子が可笑しくて自然と浮かんだ笑顔を、余すことなく女将に向けては微笑んだ。
「いや、俺達は仕事で来ただけなんだ。けど聞いたことがあるよ。この町で『奇蹟』が起こるって」
「ええ、ええ。もう、そのお陰で随分豊かになったのよ。こんな小さい町だけどほら、人も随分増えてねぇ」
「ふうん、それは良かった。なかなか興味深い話だよな。確か、……死んだ人を生き返らせる、だっけ?」
それまで嬉しそうに語っていた女将が、小首を傾げる。
「少し違うわね。ああでも、あたしは説明が上手くないのよ……ちょっと待って。ジェルジ!」
大声で奥に呼び掛けて、振り返った女将はにこりと笑った。
「ちょうど『奇蹟の人』が奥にいるのよ。あの子に聞けば、色々教えてくれると思うわ」
ラビとチャオジーの手が止まる。
目を向けなくても二人が此方を見ているのが分かる。
は注意深く女将を見つめた。
「『奇蹟の人』?」
「そ、『奇蹟』の恩恵を受けた人のこと。案外珍しくもないのよ、うちでも二人働いてるしね」
「……そうか。そういえば、人が増えた、って言ってたね」
「ええ、ええ。人口が三倍くらいに増えたもんだから。店も大工も何もかも、儲かっちゃって儲かっちゃって」
うちもね。
片目を瞑ると両目とも瞑ってしまうお茶目な女将の仕草に、は笑みを返す。
けれどラビとチャオジー、二人の心を落ち着かせることは当分出来ないだろう。
何せの心の中だって、ざわめきが大きい。
今の話が、確かなら。
――この町はまさに、「死者の町」だ。
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