燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









死は敗北だと人は嘆く
ある時は恨みを抱きながら
ある時はまた
遺される者への哀れみを抱いて



Night.80 君が縋る一本の藁として









は、司令室のソファで重く息を吐き出した。

「悪かったねぇ、。大変だった?」

コムイが苦笑しながら聞いてくるので、相手と同じような表情を返す。

「ずるいってば、コムイ……」

今日は朝から一騒動だった。
日が昇り、ようやく微睡もうとした矢先、検診だと医務室からの呼び出しがあった。
必要ないのに、と眉を顰めて赴けば、あれよとベッドに押し込まれた。
隙を見て抜け出そうと模索している最中、今度は司令室からの呼び出しだ。
コムイは任務だとだけ告げて通信を切ってしまった。
その所為で婦長やナースが捲し立てる苦情の受け皿になった訳だが、彼女達を宥めるのにどれ程苦労したか。
思い出すだけで、困り顔になる自覚がある。
心配は要らないとあれほど言ったのに。
皆は自分の命が大事ではないのか、はつい気を揉んでしまう。
ドクターがナース達の仲間になっていなかっただけ、まだ幸いと言うべきかもしれない。
これで少なくとも一人の命は守れたはずだ。
そもそも最初の呼び出しに応じなければ良かったのだろうが、それはそれでまた余計な憶測を呼びそうで。
なかなかどうして、思うようにはいかない。

「後で直談判するって、婦長が息巻いてたよ」
「げっ、それは困ったな……」
「この苦労を少しは味わえばいいんだ」
「えええー」

悪戯っぽく笑えば、コムイが落ち着きなく帽子を触った。
部屋の隅に立っている女性が、咳払いをする。
コムイがびくりと肩を揺らし、彼女を横目で窺った。
ブリジット・フェイ、彼女は室長補佐役として、科学班の新班長、班員たちと共に中央庁から派遣されたらしい。
コムイの相当な驚異になっているのだとリーバーは言っていた。
けれど恐らく、リーバー以上の驚異にはならないだろうとは思っている。
げんなりとした表情のコムイから渡された書類をさっと眺めた。

「今回の任務なんだけど」

顔を上げる。

「君には、新人エクソシストのサポートをお願いしたいんだ」
「新人? あれ、誰か居たっけ……?」

クロウリーのことだろうか。
確かに彼は突然適合者と判明し、成り行きでエクソシストとして動いていた。
経験は積んだものの、通例ならば新人という扱いでもおかしくないが、サポートは不要だろうに。
コムイが目を瞠る。

「ん? チャオジーだよ」

は一つ、二つ三つと瞬きを重ねた。

「ふうん。あ、……ええっ!?」
「知らなかったんだ」

くくく、と笑われながら、は頬を掻く。
ティキの攻撃で方舟が崩落した際に、ティエドールが所有していたイノセンスと同調したそうだ。
全く記憶にない。

「そこらへん、ちょっと曖昧だなぁ」
「気を失ってた時のことなのかな?」
「ああ、そっか。そうかも」

うんうん、と頷く。
コムイが気遣わしげに眉を下げた。
不味いことを言っただろうか。
ぞくりと背筋を震わせ、は先を促した。

「今回は、チャオジー、それとブックマンとラビ。四人で行ってもらうよ」
「多いね。俺とチャオジーだけでいいと思うけど」
「うん。任務自体はね、そう難しいものじゃないと思うんだけど。敵の数がいまいち掴めなくてねぇ……」
「ふうん……『奇蹟の町』、か」

手元の資料に改めて目を通す。
確かに、彼の言う意味は理解できた。

「すぐ出た方がいいかな」
「そうだね。昼には発ってもらいたい」
「分かった」

は首肯し、資料を掴んで立ち上がる。
出立までの準備の段取りが、頭の中で流れるように決まっていく。
同時にブリジットが書類を捲りながらコムイの方へ踏み出した。

「ねぇ、

静かな声が呼ぶ。
も、ブリジットも動きを止めた。
彼女は明らかに怪訝そうな顔をしている。
は、自分もそんな顔をしている自覚があった。

「うん?」

嫌な予感がした。
心配なんか、される資格はない。
コムイが死んだらどうなる、この教団を誰が守るのだ。
エクソシストを、誰が人間でいさせてくれるのだ。
この人だけは絶対に巻き込む訳にはいかない。
何より――リナリーが、悲しむ。
目眩を感じさせるほどに一瞬で高まった緊張は、コムイが首を振ったことで霧散した。

「いや、何でもない。集合は方舟の間で。見送り、行くからね」
「……うん、分かった」

またそうやって無駄な時間を! 無駄じゃないよ! と言い合いを始める補佐役と室長。
苦笑しつつ部屋を出たは胸を撫で下ろし、廊下を進んだ。









準備を済ませ、方舟の間に向かいながら書類に改めて目を通す。
探索部隊の調査があまり進まない中でこちらに回された任務のようだ。
どの部署も人が不足していることには違いない。
エクソシストが四人も行くなら何とかなるだろうという魂胆が透けて見える。

「……だからユウじゃなくて、ラビとブックマンなのかな」

あいつに聞き込みは任せられないもんな。
一人で納得しながら腰回りを触って、最後の確認をする。
右の腰には『福音』。
背後、左手で取れる位置にナイフ。
そして、左の腰にごく普通の拳銃を一挺。
この銃は、かつて修行時代に人間に対する護身用として持たされたものだ。
最近は久し振りに、常に二挺提げるようにしている。
体は少し重くなるが、背に腹は替えられない。
全てがきちんと在るべき場所に収まっていることを確認して、は大きく深呼吸をした。
扉を開ける。
空気に滲み出るチャオジーの緊張を最初に感じた。
ラビが軽く手を挙げて笑う。

「よ、
「おおおっ、お疲れさまですっ」
「これで後はブックマンだけか」

コムイが二人と向かい合うように立って、苦笑した。

「ブックマンはまだ?」

誰にともなく聞けば、即座にラビがやれやれと首を振る。

「髪の毛が上手くセットできねェっつって、まーだ鏡の前さ」
「随分と、その、乙女なんだな……ていうか悪いけど、そんなに髪……」
「言うな。んなことは誰だって思ってるっての……な、チャオジー」
「ええっ? あの、その、ええ、まあ……」

言い淀むチャオジーの前で、ラビの頭が横ざまに蹴飛ばされた。
ごきり、と嫌な音が首の辺りから鳴った気もする。
闖入者はブックマンだ。
多くない髪の毛は、いつも通り天高く結われている。

「誰がハゲだ。失礼な奴め」
「いってぇ! そこまで言ってねェし!」

涙目で抗議するラビを見て笑っていると、パンダメイクの奥の目がとチャオジーを睨め付けた。

「他人事だと思うなよ、おぬしら」
「んー、いやぁ、何の事かな……」

しらばくれて視線を外す。
仲裁に入るコムイの陰に隠れてチャオジーへ笑いかけると、目を瞠った彼は、素早く顔を逸らしてしまった。

「(あれ?)」

仄赤く染まった耳が、ピクピクと動いている。

「じゃあこれで全員集合だね」

コムイが朗らかに笑って、視線を集めた。

「チャオジー、初めてで緊張すると思うけど、が着いててくれるから。色々教えてもらって」
「はっ、はい! よろしくッス、様!」

先程の反応とは打って変わって、びしりと姿勢を正したチャオジーが、勢いよく此方を向いた。
腰を直角に曲げた一礼。

「あ、うん、よろしくな」

様子の変化に、の方が少し戸惑ってしまう。
その心情を知ってか知らずか、コムイが肩にぽんと手を置いた。









なんと畏れ多いことだろうと、チャオジーはついつい肩を竦めて縮こまってしまう。
師となったティエドールによる修行もそこそこに、早速実戦投入となることへの不安も確かに大きい。
しかしそれを上回るのは、思いもよらない教育係の存在だった。
任務もあるのだから、兄弟子となったマリや神田とは限らない、それはまだ分かる。

「(よりにもよって、神様……!)」

こんな贅沢なことが許されるのだろうか。
戸惑いを抱えたまま、この任務当日を迎えてしまったのだ。
つい、此方に微笑みかけるから顔を背けてしまった。
ラビが隣で笑いを堪えていることに気付いたが、正直それどころではない。
姿も知らない頃から耳にしてきた、赦しを齎す「教団の神様」。
実際にその「赦し」を得てしまった方舟の中。
混乱と絶望の中、吹き抜けへ飛び込んだ苛烈な背中。
朝陽を受けながら黒を従えて佇む姿はまさに、そのものだと感じた。
そんな人が。
最早同じ人間だと表すことすら畏れ多いそんな人が、自分の為に任務へ赴いて下さるとは。
腰を直角に曲げて礼をしても、まだ足りないくらいだ。

「今回からは方舟で出発してもらうよ。キミ達は、あんまりいい思い出が無いかもしれないけど」

苦笑気味のコムイが、手近なの肩を軽く叩いて促す。

「それと、敵味方の認証のために、暗証番号を決めることにした。覚えておいて」

チャオジーも含め、一人一人が十二桁の番号を伝えられる。
この極度の緊張の中で、任務終了まで覚えていられるかは、甚だ不安の残るところだ。
ごくり、と唾を飲み込んだチャオジーの背に、不意に触れるものがある。
はっと顔を上げれば、がさらりと微笑みだけを向けて、コムイに向き直った。
チャオジーはもう一度唾を飲み込んだ。
唇の、体の細かな震えがおさまり、胸の辺りがほんのりと温まる。

「移動が楽になるな」

感傷を感じさせない声で言うブックマンに、があっさりと頷いた。

「確か今回は、隣町まで行けるんだっけ」

軽く言い交わしながら、一行は方舟のゲートへ足を向ける。

「待った! !」

いざ、覚悟を決めて方舟に入ろうとした、丁度その時、ドクターが部屋に駆け込んできた。
が怪訝そうな顔で振り返る。
息を切らしながら、ドクターが彼を手招いた。

「悪い、ちょっと待ってて」
「あ、はい」

少し離れた場所のコムイとドクター、そしての声はあまりに小さく、チャオジーには内容が聞こえない。
カラン、という硬質な音だけが耳に届く。
彼の金髪が左右に振られたり、室長を見上げたり、そんな動作が続いているようだ。

「何の話っスかね……」
「さあなー」
「大方、婦長辺りが反対している、とかではないか」

ブックマンにそんなつもりは無いのだろう。
けれどその言葉はチャオジーの胸を容赦なく突き刺した。
チャオジーが一番気になっているのは、まさにそこだ。
アレンが「14番目」の宿主だと伝えられたあの日ですら、彼は姿を見せなかった。
兄弟子だというから、いち早く話を聞いていたのかもしれない。
もともと本調子では無かったところに、心労も重なったのではないか。
そんな状況で、チャオジーの為に任務に同行してくれるというのだから。

「んあ、終わるか?」

呑気に欠伸をしていたラビが、ふと向こうに目を遣った。
が何かを受け取り、腰のポーチに収めている。
首肯の後の「いってきます」という声だけは明瞭に聞こえた。
振り返った彼がいつも通りの調子で笑う。

「お待たせ」
「何、婦長キレてんの?」

ラビが茶化すとが軽く苦笑いを返した。

「はは、そんなとこ」

仕切り直しだね、と彼の半歩後ろでコムイが笑う。

「さあ、それじゃあ皆、気を付けて」

室長としてのその言葉に、ラビが瞳を不敵に細め、ブックマンがメイクの奥に怜悧な光を宿した。
そして手の触れるほど近くに佇むその人の漆黒が、凛と空気を撫でる。
チャオジーは自然と背筋が伸びるのを感じた。

「いってらっしゃい」

室長達の微笑みに、ただいま戻りました、と笑って返せる未来は在るのだろうか。
揺蕩う不安を、神様の微笑みがそっと撫でた。









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