燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









君は知らない
その揺籃を彩る言葉を
君は知らない
その墓標を飾る言葉を



Night.79 最初の呪い









黄昏の記憶。
黄昏の橙色が、身体の隅々まで入り込んで、掻き乱す。
身体の奥の奥、胸の真ん中を抉り取る。
引き裂かれるような、擂り潰されるような、哀悼を伴って。

叫んではいけない、この恐怖を声に出してはいけない。

――何故?

何故、悲しみを、痛みを、罪を、堪えなければならないのか。
余すところなく受け入れて、感じ取るべきだというのに。
この叩き付ける暴風のような、信仰を焼き尽くす炎のような苦しみは。
避けられも逃れられもしない自らへ課した罰なのだから。
それでも。

叫んではいけない。
この後悔を、苦しみを、声に出してはいけない。

――何故?

何故、だってそれは、誰かの生命を、

!!」

ぱしん、と耳元で音が走り、は目を開けた。
正確には耳元ではなく、頬を張って鳴らされた音だ。
頭は、他人事のように状況を受け入れた。
飲み込めていないのは、身体だ。
痛みはおぞましい吐き気となって、心臓を口から引き摺り出さんと蠢いている。
空気がない、呼吸が出来ない。
否、呼吸は出来ている、空気が肺にまで到達しない。
脈打つたびに釘を打ち込まれるようなこの痛みは、いったい誰の怒りなのだろう。
妹ではない、幸せな世界の住人達ではない。
彼らを穢しはしない。
では、弱さゆえに見棄てた愛しい世界の住人達だろうか。
いまだ地上に縋り付く自分への、神の怒りか。
どれも違う。
全て、他の誰でもない自分が下した罰だ。
全てが、決して赦されぬ過ちへの報いであり、償いだ。

「落ち着いて、ゆっくり、落ち着いて息をするんだ」

肩に触れている厚い手は、ドクターのものだ。
その奥では自分の右手を胸に抱えるようにして、婦長が此方を覗き込んでいた。
あの手が、夢からを引き上げたのだろう。

「(嗚呼、そうだ)」

――何故?

そんなこと、決まっているじゃないか。
たった一つの願いのために。
もうこれ以上、神への供物を積まぬよう。
今すぐ全てを受け入れて、平穏を取り戻さなければならない。
この震える手足を、落ち着かせるだけでいい。
いつものことだった筈だ。
愛する世界を守れ。
はっきりと自覚し、やるべきことを漸く体がやってのけた。

「だい、じょうぶ」

いつも通り、微笑んだ筈だ。
それなのにどうして、空気がざわめいているのだろう。
ドクターと婦長の顔色が優れない。
何がいけない、きちんと笑えていないのか。
体の震えは治まっただろうか。
視界が揺れて、歪んで、自分では少しも判断できない。
早く、安心させないと。
心配させては駄目だ。
駄目だ、殺してしまう。
ドクターの手を払って、体を起こす。
すうっ、と暗くなる視界が安らぎを齎す。
そうだ、ただ眠っていただけ。
ただ、うっかりあの日の夢を見てしまった、ただそれだけ。
いつものことだ。
心配される理由は、どこにもない。

「ごめん、大丈夫、……ちょっと、夢、見てただけ」

空気を吸い込もうとして失敗する。
代わりに、呼吸を止めて、吐き出した。
最低限の酸素だけあればいい。
もう一度きちんと部屋の空気を意識に入れて、笑ってみせる。
戸惑う表情など、気に留めていてはいけない。
それすら打ち消すくらい、意にも介さず振る舞ってみせるしか。

「どうしたの、二人とも……顔色、悪いよ」

二人の心情など考えたくもなくて、薄っぺらい言葉だけがすんなりと口をつく。
きっと二人は、に不相応な想いを向けてくれているだろうから。
どうして、心配なんか。
どうして、自分の命を大切にしてくれないのだろう。
彼らが今にも目の前で死ぬのではないかと。
瞬きの間に、殺してしまうのではないかと。
じっとしていることなど出来なくて、震えを押さえ込んだばかりの体を強引に動かし、立ち上がった。
部屋の外に、人の気配がある。
乱れたノックの音、対応に向かおうとする婦長を片手で制した。
がいるこの部屋に訪れるなら、そして自分では扉を開けられないというのなら、用向きは一つだ。
赦して、と。
扉の向こうからは、神を求める声なき声。
は歩を進めながら、揺らぐ視界を振り払うように軽く頭を振った。
壁の鏡が目に入る。

「(どうして)」

どうしてこんなに、隈が目立つのだろう。
きっと気のせいだ。
気の迷いだ。
ノブを握って、扉に手を当てて、震える息で深く呼吸をした。
頭の中の余計なものは、全て追い出そう。
自分の気持ちなど、無くなってしまえばいい。
空っぽにしてしまえばいい。
望まれるその姿になれれば、それで。

――見たい

「……っ」

――あの夢を、見たい

扉に、当てた手を強く押し付ける。
ノブを握る手を、下ろすことが出来ない。
自分の周りにひとつの膜があるような。
取り残されてしまったような。
世界の全てが遠ざかる。

――ほんの一瞬でもいい、

知っていたじゃないか。
幸せな世界から置いていかれた時に、もう。
取り残されたなんて、被害者面もいいところだ。
笑え。
笑って、扉を開けろ。
声を聞け。
傍らに寄り添え。
悲しみを引き受けろ。
今望まれているのは、「教団の神様」だ。

――自分の罪を刻み付ける、あの夢を、何度でも

神に見放されたこの場所で生きる人々の願いを、望むままに叶えよう。
今、この瞬間は、自分の罪も、罰も、後悔も悲しみも痛みも、全て。
全て必要ないのだ。
「教団の神様」の姿には、ただ、希望だけが映っていればそれでいい。
たとえその中身がどうであれ。

――見たい

磨り潰すように奥歯を噛み締め、扉に縋って顔を上げる。
肩から力を抜いて、ふ、と息を吐く。
ちらりと壁の鏡に目を遣れば、もう隈は見えなかった。
問題ない。
扉を開けて息を吸い込む。
澱んだ感情の波が押し寄せるのを感じた。
いつも通り、願いを受け入れてしまえばいい。
望まれるなら、今この瞬間は、自分だけが彼らの神様だと。
他の誰でもない自分が、彼らの神なのだとするならば。

、さん……っ」
「申し訳ありません、様……!」

自分の痛みを表すなんて、望みを口にするなんて、そんな贅沢は身の丈に合わない。

「大丈夫。……赦すよ」

だって神様は、皆のためのものだから。









彼の瞳が開いたその瞬間を、ロード・キャメロットは知らない。
呼吸の調子が変わった、その時だったのだろうか。

「……フィル……」

微かに漏れた声を耳にして、ベッドの傍に腰を下ろす。
投げ出された手を掬って、握る。
方舟で、ロードは彼を巻き込んだ。
いくら千年伯爵の側に思惑があったとしても、あの場はロード達の脚色の範疇。
アレン・ウォーカーのイノセンスとはまた違う呵責の銃口は、彼の手から見事にノアメモリーをもぎ取った。
ノアの彼は死んだのだと。
確信したからこそあの日、ロードは涙したのだ。

「暗い……見えない……私は……」

わたしは、だれだ。
その問いに、ロードは答えられない。
よくて、下僕。
或いは、愛玩動物。
本質を捉えるのならば、玩具と見るのが最適なのだろう。
この「玩具」を、千年伯爵がどう扱うつもりなのか、それはもう知っている。
ノア達のように、レロのように、家族の目覚めを待っているのではないのだ。
紛い物の家族を、そうして存在させ続ける為に。
まるで黒の教団のような怖気の走る所業を、為そうというのだから。
それでも、魂まで喰われなかっただけ、よいではないか。
それとも、存在ごと滅せられた方が幸せだったのか。

「あなたは、だれ、……そこにいるのは、誰、ですか」

黒の教団が奉ずる神も。
教団の神様も。
ノアに方舟を造らせた神も。
彼の信じた神様も。
どれも皆等しく、等しく全てが神なのだ。

――神様は、やはり神様だったのだ

神様は、やはり何も救いはしないのだ。
だから、彼は救われなかった。
ノアとしても、人としても、決して。
アクマにさえも成れず、何者にもなれない。

「だれか、……誰か、」
「おはよう」

ベッドに流れる長い銀髪の中で、戸惑いを漏らしていた唇が動きを止めた。

「ボクはロード。キミの、家族だよぉ」

ロードは訊ねる。
千年公、本当にこれでいいの?
千年伯爵は答える。
構いませんヨ、彼が我輩の元から離れないのなラ。
重ねて訊ねる。
ねえ、本当に、これでいいの?
千年伯爵は答える。
ロード、それがアナタ方の望みでしょウ。

「ロー、ド……おれは、わたしは、」
「キミは、ミザン・デスベッド。……ねえミザン、『フィル』ってだーれ?」

ロードが、ティキが。
千年伯爵の『家族』が望んだがために生かされたその人の、美しい紫の瞳を、紫紺のスカーフが覆っている。

「……だれ、……だろう……」

彼の記憶を閉じ込めるように。
もう二度と、「神」を過たぬように。









ざわついた食堂で、は並ぶ科学班員の食欲に微笑みを向けた。
先日、此方の都合でふいにしてしまった朝食に再び誘われたのだ。
やはり彼らは今日も研究漬けの徹夜明けで、昨日の昼から何も食べていないという。
所狭しと置かれた皿があっという間に片付いていくのは見物である。

「欲しいのあったら遠慮なく食べちゃっていいからね」

なんてジョニーは言ったが、恐らく皆その言葉は忘れているに違いない。
は乏しい本能を宥めすかし、ようやく一切れの林檎を咀嚼する。
とうに爽やかな冷たさは過ぎ去り、温く甘くなっていたが、構うことはない。
どうせまた、全て吐き出すことになるだろうから。

「結局、あいつはノアの仲間なのか?」

リーバーの視線を適度に余所へ振りながら、はふと聞こえた言葉に耳を澄ませた。

「あの後、結局何の話も無いよなぁ?」
「やっぱりおかしいだろ、……敵の道具の使い方を知ってるなんてさ」
「(……アレンのことか)」

食堂のどこからか聞こえてくる声は、隣に座るジョニーの耳にも届いたらしい。

「あ、……また言ってる……!」

俄に色をなして立ち上がろうとする彼の肩をそっと押さえる。
驚愕の表情を浮かべ、ジョニーが此方を振り向いた。

「何で止めるんだよ! !」
「有り難いけど、こればっかりは……アレンが、解決しなきゃ」

どうか絶望したような顔をしないで欲しい。
は苦笑した。
リーバーが斜向かいで唸り声を上げる。

「難しいとこだな……やめろったって、なあ……」
「うん。仮に『俺』が庇っても、きっと逆効果だろうと思うよ」

やってみせようか?
ジョニーに問い掛けると、彼も少し思案した後、眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「そりゃあ、確かに、そうだろうけど……でも言われっ放しは……アレンが可哀想だよ」

優しい人だ。
は、確信して頷く。

「うん。……でも、きっとあいつは大丈夫だ」
「大丈夫な訳ないだろ! だって、」
「だってアレンは、ちゃんと知ってるから。科学班の皆は味方でいてくれるって」

言葉を遮って畳み掛ければ、ジョニーが眉を下げて俯いた。

「それっぽっちのことで……」
「それっぽっちじゃない、大事なことだよ。受け入れてくれる場所があるっていうのは」

自分でも自分を信じ辛い状況に置かれているアレンにとっては、特に。
帰る場所があるということは、信じてくれる仲間がいるということは、きっと彼の力に、支えになる。

「ありがとう、ジョニー。アレンのこと、信じてくれて」
「オレは……オレは、だって……友達だから」

この一言をアレンが聞いたら、顔を真っ赤にして喜びに戸惑うだろう。
弟弟子の反応を想像して、は微笑んだ。

「うん。ありがとうな」

食べる手を止めずに静観していたロブが、うんうんと頷きながら口の中のものを飲み込む。

「全ての人に好かれる人なんて、いるわけもないか。わたし達は今まで通り、信じていよう。なあ?」

ジョニーに明るく笑い掛けるロブ。
その隣のリーバーとふと目が合った。
彼が笑う。

「まあ、お前にはそんな法則、当てはまらないか」

は一度目を落とし、それから笑みを返した。

「じゃあ、俺はきっと、もう人間じゃないんだ」









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