燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









嗚呼、なんて美しい
そう嬉々として
貴方と私が指差す星が
同じものとは限らない



Night.78 辻褄









――いいか、コムイ。あいつ、笑わないぞ――

クロス・マリアンを失った教団の神を、本部で人目に晒すことだけは出来ない。
そうしてアジアに隔離し、十日。
バクからの連絡を受け、ある程度の覚悟はしていた。
それでも、彼が方舟のゲートから姿を現したとき、コムイは思わず息を飲んでしまった。
一瞬の、完全な無表情。
全ての感情が、その顔からは消え失せている。
彼が整いすぎた人形ではなく「人間」なのだと証明するのは、翳りを帯びた瞳だけだ。
が目を上げる。
それに伴って、頬が緩やかに笑みを形作った。

「ただいま、コムイ」

いつも通りの団員を励ます笑顔が、どうしようもなく胸を締め付ける。
たった十日で、随分と窶れてしまった。
血の気のない顔。
目の下の隈には、不思議なほど違和感がない。

「(あの隈は……『あった』)」

――違和感が、ない。
当たり前だ、今気付いたとはいえ、あれは以前からずっとあったのだ。
ただ彼の表情が、纏う空気が、それを全く意識させなかっただけで。
クロスの話を合わせて考えれば、これまでが慢性的に睡眠不足だったのは理解できる。
ならば隈があろうともさして不思議なことではない。
問題は、そこではないのだ。
気付いてしまった、気付かせてしまった、その事実がひどく恐ろしい。
躊躇いを隠してコムイは微笑んだ。

「おかえり、

隣に並んだ彼は早速歩き出そうとしながらも、小さな声をあげて足を止めた。

「科学班、行きたいな。どこ?」
「こっちだよ」

声の調子だけは変わりが無いように思えたから、コムイは気力を振り絞って普段通りに笑いかけた。
なるべく人の少ない廊下を選び、歩く。

「具合はどう?」

がからりと笑う。

「絶好調だよ。休みが長すぎたくらいだ」
「それは良かった」

明らかに嘘だと分かっているのに、こう言う以外の返答が何も思い付かない。

「じゃあ、皆には大袈裟に言っちゃったかな」
「何て言ったの?」
「今は絶対安静だから、面会は出来ません。って」
「話盛りすぎだよ……」

眉を下げて苦笑する彼の姿が、次第に「いつも通り」に見えてきた。

「(呑まれては、だめだ)」

コムイは、先刻の印象をひたすら脳裏に反芻する。
笑っていない。
装っているようで、全くやりきれていない。
そのちぐはぐな心境に、状況に、心を寄せるべきなのだ。
それなのに。
コムイが科学班員の活発な声に気を取られた、その一瞬で、彼の笑顔は「いつも通り」に戻っていた。
しまった、後悔が胸を貫く。

「俺、もう大丈夫だから、心配しないで」

半歩先に進んだが言った。
そんな筈ない、なんて言えない。
コムイにはもう、彼の目の下の隈など、見えなくなってしまったのだから。

「まだ、死にたくないだろ?」

近頃触れていなかったこの笑顔が、胸に染み入る。
言葉の意味さえ覆い隠して。









リーバー達、馴染みの科学班員と連れ立って、朝食に向かう途中の出来事だったそうだ。
不意に立ち止まったを訝しんでリーバーが顔を向ける。
何事もないように笑みを返され、直後、彼の体はぐらりと傾いだという。
コムイの後ろからベッドを覗き込み、ティエドールが静かに言った。

「余程、堪えたようだね」

安静のために投与された薬の効果はもう切れていても良い頃だが、彼の瞼は動かない。
昨日までの十日間、アジア支部からの報告は一つの変化もなかった。
計器が、数値が明らかな異常を示そうが、それに繋がれた彼は何の反応もしない。
呼吸をしようと喘ぐこともなく酸素を失い、痛みに震えることもなく諦めるように意識を落とす。
呼び掛けにも当然、応える素振りはなかったのだ、と。
そして極めつけは、バクの言葉である。

「そういえば、今日は補佐役殿を撒けたのかい」

話題も視線も逸らして、ティエドールの声が笑う。
中央庁から派遣された室長補佐役、ブリジット・フェイの話題には、コムイもつい苦笑してしまうところだ。

「撒いたというか、時間を貰ったといいますか……」

彼女は息抜きの間も与えずに仕事を詰め込む傾向にある。
流石のコムイも最近は逃走に多少の難を来しているのだが、今日は別だ。
きちんと理由があっての事だと説得に説得を重ねて時間を作った。
けれど、彼が目覚めないことにはその用も果たせない。
また日を改めて出直そう。
と直接向き合うことから逃げる自分が、その言葉を口にせよと繰り返し囁いている。
誘惑に負けてはいけない。
コムイは金色をちらりと見て、自覚するほどあからさまに後悔する。
丁度、彼がゆるりと瞬きをしたところだった。

「おや」

気付いたティエドールが身を屈める。

「やあ、おはよう、

彼の漆黒が、ティエドールとコムイを順番に映した。
開いた唇から、茫然とした声が零れる。

「……おはよう、ございます……」

ぱちり、その瞬きは急速な覚醒を促したようで、彼は俄に緊張の色を見せて、ベッドの上に身を起こした。
呻き声は、最初の一瞬だけだ。
背を支えよう、或いは押し止めようとコムイが差し出した手をが一瞥する。

「退いて、コムイ……出たいんだけど」
「待って、話があるんだ」
「俺も聞きたいことがある。ねぇ、――兄貴達は、生きてる?」

早口で放たれた問いに、コムイはティエドールと首を傾げた。
達、というのが誰を指すのかも不明だが、何よりどうして今、リーバーの安否が問われるのだろう。
脳裏によぎったのは、ノアによる旧本部の襲撃事件だ。
あの時はノアが団員に化けて侵入した。
もしや何かしらの敵襲によって、は倒れたというのか。
ならば今、彼を心配するあまり科学班で肩を落としているリーバーは、一体誰だ。
ティエドールが一度唇を引き結んでから、尋ねた。

「どういうことかな? 倒れる前に、何か異変が?」
「違います、違う、そうじゃなくて、」

が強く首を振る。

「兄貴は? ジョニーとロブは、生きてる?」

ねぇ、コムイ、教えて、早く。
コムイの袖を掴んで、睨み付けるように尋ねる彼の表情には煮詰められた焦燥が色濃く浮かんでいた。

「三人とも、元気だよ」

気圧されて偽りなく答える。
途端、漆黒に宿る光がまろやかに散った。
弛緩する体、袖を掴む手がだらりとベッドに垂れ、震える指がシーツをくしゃりと掻く。
目を閉じて溜め息を吐き、彼はよかった、と小さく呟いた。
敵襲というわけではなさそうだ、何か悪い夢でも見ていたのだろう。
コムイ同様そう判断したらしいティエドールが、ゆるく微笑む。

「大袈裟だなぁ」
「そんな、……だって、迷惑、掛けたから……」

すっかり草臥れた様子の肩を支えて、コムイはそっと枕に寄り掛からせた。
ああ、良かった。
もう一度呟いたが、やっと二人に目を向ける。
どろりとした眼差しは、一瞬でいつもの柔らかな光と弱い微笑みを孕んだ。

「えっと……二人は、話って?」
「うん、頼みたいことがあるんだ」

クロス・マリアンに関することからは、今は遠ざけておいてやりたい。
これは初めて聞かせる話だと、コムイはそのつもりで彼に会いに来た。
深呼吸をして、拳を軽く握り、意を決して切り出す。

。君に、元帥になって欲しい」

師弟の会話を聞いた限り、彼は最初に渋ってはいたものの、最終的に師の意見に頷いていた。
の顔から笑みがすっと引いていく。

「……元帥に」
「うん。福音も聖典も、揃って臨界点を超えたし、頃合いかと思ってね」

コムイは僅かな緊張を飲み込んで、微笑んだ。

「元帥達それぞれに長期任務があるのは、知ってるでしょう?」

が頷く。

「その長期任務として、君に本部の守備を頼みたいんだ。この間みたいな襲撃に備えて」

どうだろう? 
彼が頷きさえすれば、全て丸く収まる。
大元帥達は以前からそのように指示を出していたし、枢機卿や教皇でさえそれを望んでいるという。
きっと喜ばれるだろう。
ルベリエとて、悪い顔はしない筈だ。
コムイの意図するところなど悟らせぬままに、各方面の望む結果を生み出せる。
訊ねておきながらこれはあくまで、確認の色が強いなんて。
頼む、頼むから。
心の声は、漏れていないだろうか。
思案するように目を瞑っていたが、唇を引き結ぶ。
果たして、再び現れた彼の漆黒は、ひたりとコムイを見据えた。

「悪いけど、出来ない」

彼はきっと断らないだろう。
例え、本心はどうあれ、きっと引き受けてくれるだろうと。
そんな期待をしていたことは否めない。
けれど、その瞳には明確な拒絶の色が浮かんでいた。
空気が、コムイを拒む。
脳を直接揺さぶられたような衝撃。
座っている椅子さえ失ったような激しい喪失感に、暫し呆然と彼を見つめた。

「……理由を聞いてもいいかい?」

言葉の出てこないコムイに代わって、ティエドールが聞いた。
が二人から視線を外す。

「元帥達は、もう、長期任務に行ったりしないから」

どこでもない場所を不確かに見ながら、彼は問う。

「だって、方舟があれば本部から離れる必要は無いですよね?」

ティエドールが頷いた。

「ああ、うん。確かにそうだ。本部から離れる必要はないね」
「なら、今までとは任務の形式が変わってくるんでしょう?」
「いやいや、違うんだ。そこは問題じゃないんだよ、。コムイはね、君を守りたいんだって」
「あ、ちょっと、元帥」

慌てて止めたコムイの肩を軽く叩きながら、ティエドールが朗らかに笑った。
の眉がぴくりと動く。

「本部の守備をするっていう名目があれば、任務を減らす理由になる。聖典の負担も、減らせる筈……」

そこまで言って、今度はティエドールが言葉を飲み込む。
睨んではいない。
けれど十分に剣呑な眼差しが、コムイに向けられた。
ちらとも目を逸らせない。
逃げられない。
彼の唇が微かに震えて、開く。
ただそれだけの事が、永遠に続くような緊張を孕んでいる。

「死にたいの、コムイ」

心配なんか、するなよ。
開いた唇から言葉を放り投げるように、顔を顰めた彼は呟いた。
一呼吸空けて、が力なく笑う。

「ごめん。でも、……それなら尚更、断るよ」

忌々しげに歪められた漆黒に当てられ、その上で重ねて言葉を紡ぐことは、コムイには出来ない。
金色が姿勢を変えながら、二人から完全に視線を外した。

「休みたいな」

これ以上は続けてくれるな、と。
出ていけ、と。
言外に、けれど間違いなく告げられた。
コムイはそっと立ち上がる。

「……じゃあ、……またすぐ任務が回ると思うけど、頼めるかな」
「うん。いつでも行けるから、すぐ言って」

此方に背を向けて、彼の明るい声が答えた。
出ましょう、元帥。
コムイは振り返ってそう促したが、ティエドールは動かない。

。上は恐らく、引かないよ」

固い声が背中に告げる。

「考えておきなさい。気が変わったら、いつでも言いにおいで」
「……はい」

消え入るような答えを受け取り、二人は病室を後にした。
このまま仕事に戻っても、捗る気がしない。
ティエドールが天井を仰ぎながら息をついた。

「まだ、我々だけで何とか出来るよ、コムイ」

柔和な顔をした彼らしい苦笑いが、コムイに向けられる。

「君の気持ちは分かるが、無理強いする必要は無い」
「ええ……そうですね」

ティエドールの背が遠くなる。
コムイが思い描いていた計画は全て白紙に戻った。
彼を本部に留め置けば、聖典の発動回数を減らせる。
その為には、任務に出ない理由がどうしても必要だと。

「いい考えだと、思ったんだけどな……」

なぜ、断られたのだろうか。
コムイは司令室への道を選び、のろのろと脚を動かす。
クロスとの会話を聞いた限りでは、合意に至ったように思えたのに。
生死不明という師の現状がを怯えさせている、とは思わない。
脅えるという言葉とは無縁の彼だ。
では、師の現状に動揺しているのか。
それは有り得る。
だが、通常の任務に出る気は十分にあるようだった。
そもそも、彼が人の願いを断ること事態が稀なのだ。
何が、にそう言わせたのだろう。
彼とのやり取りを一つずつ思い返して、コムイはふと全く別のことに目を瞠った。

「(……?)」

何故、その言葉を。









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