燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
全てを選択する権利と
全てを受け入れ赦す力
神に選ばれた存在と
神に魅入られた存在
両者の出合いは
紛れもない、必然
Night.8 愚者の駆け引き
正面は、に声を掛けた眼鏡の男。
向かって右側にはおかっぱ頭。
左側は、帽子を被った小さな男。
少し離れた客の中に、マスクの少年。
が座ろうとすると、おかっぱの男がニヤニヤしながら頬杖をついた。
「負けて泣いても知らないぜ? 兄ちゃん」
先刻の賭けで負けた男が、心配そうにを見ている。
はその男をちらりと見て、椅子に座った。
ゆったりと足を組んでから、微笑を湛えておかっぱ頭を見返した。
弱い相手なら、これくらいの余裕を見せれば簡単に堕ちる。
案外肝の据わった連中だな、と素直に思った。
「俺はアンタに心配してもらうほど、弱くはないよ」
挑発の台詞に、見物人の間からどよめきが起こる。
帽子の男が鼻を擦って、笑った。
「強気だなぁ、オイ。負けたらどうするよ」
は教団のコートを脱いで、テーブルに乗せた。
煽られたカードが、数枚舞う。
帽子の男はまじまじとコートを見て、やがて驚きの声を上げた。
「おいティキ! このコートの装飾、全部銀だぜ!」
ティキと呼ばれた眼鏡の男に、は言った。
「代わりに俺が勝ったら、あの人が取られた物全部、貰うよ。
そっちは三人、勝つ確率は三倍なんだ。いいだろ?」
眼鏡の男――ティキは、眼鏡の奥からをじっと見つめた。
やがて喉の奥で笑い、唇が弧を描くように笑みを深める。
「よし。始めよう」
客の中から口笛が響いた。
帽子の男がカードを切り始める。
店の主人が、にサンドウィッチを運んできた。
「兄ちゃん! ったくこんな強気に出ちまって……勝算あるのかい?」
主人だけでなく、先の賭けに負けた男も、客の何人かも、不安そうにこちらを見ている。
はその全員に微笑みを向けた。
その場の空気を呑みこむ。
カードを切る音が、一瞬、止まった。
「大丈夫」
主人にだけ聞こえるように、囁く。
「絶対負けないから、見てて」
カードを受け取り、片手にサンドウィッチを掴んだ。
視界の右端、おかっぱ頭の男に狼狽の色が見えた。
正面ではティキが、帽子の男に何事か囁いている。
は意に介さずに、カードをめくった。
幾分か固い表情で、帽子の男がカードを一枚換えた。
ティキが唾を呑みこみながら、山に手を伸ばす。
おかっぱの男が帽子の男に素早く視線を走らせる。
は口の中の物を飲み込んで、カードを一枚換えた。
残りのサンドウィッチは、食べられない物が入っている。
「(割と美味しかったのに)」
「調子出ねぇなぁ……」
ぼんやりしていると、帽子の男が手札を開いていた。
ハートのカードが五枚、絵札は無い。
ティキが大げさにつっこむ。
「オイオイ! さっきまで快調だったじゃん! どーしたらそうなんの」
「そういうお前はどうなんだよ、ティキ」
おかっぱ頭に言われ、ティキは乾いた笑いを漏らす。
「はは……ゴメン」
スペードの2と8、ハートのエース、ダイヤの5と10.
ティキの開いたカードを見て、おかっぱが彼の頭を小突いた。
そして自分のカードを開く。
の方に視線を向けた。
「俺はフルハウス。あとは兄ちゃんだけだぜ」
紅茶を飲みほして、はカードを開いた。
クラブの10、ナイト、クイーン、キング、そしてエース。
五枚のカードを見て、帽子の男は「げ」と言い、おかっぱは「マジかよ」と呟く。
ティキは顔をひきつらせ、銜えていた煙草を落とした。
奥に居たマスクの少年が、ぱちりと目を瞬かせる。
は笑みを浮かべた。
「約束通り、返してもらおうか」
客の間から大きな歓声が上がった。
先程負けた男は、に何度も頭を下げている。
歓声の中、三人が囁いているのが聞こえた。
「お前、やっぱ配り間違えただろ」
帽子の男が慌てて首を振る。
「そんな筈無いって! いつも通りだった!」
「おっかしいよなぁ、ボロしか回してねぇのに……」
ティキの呟きに、は笑った。
「やっぱり。イカサマ、してたんだ」
掛けられた声に、帽子の男が眉をハの字にして笑った。
おかっぱ頭が負けじと言い返す。
「お前こそイカサマしてたんじゃねぇの?」
は首を横に振って、両手を挙げる。
肩を竦めて笑った。
「まさか。……俺、じゃんけんでも何でも、賭け事で負けたこと無いんだ。
相手は必ずイカサマに失敗するし。ってことで、残念でした」
ティキが笑う。
「綺麗な顔して、エグイことするねぇ。勝つって分かってたんだ、オニーサン」
「今日もいける確証は無かったけど。つーか、お互い様だろ?」
「確かにそうだ」
は帽子の男からコートを受け取り、袖を通した。
気付けば、マスクの少年が小さく手を振っている。
彼に手を振り返して、はカウンターの上にコインを置いた。
「親父さん」
主人に声を掛ける。
「アイザック・イェルマって子、知ってる?」
主人はコインを受け取り、顎に手を当てた。
「イェルマ? ……ああ、知ってる知ってる!」
「その子、どこに住んでる?」
「確か此処を出てすぐ、一本裏に入った通りの突き当たり、だったはずだけど……
悪いことは言わない。あいつに会うのだけはやめておきな」
突然、主人は眉をひそめて渋い顔をした。
は首を傾げた。
「何で?」
「あの子と喋ると呪われるって、専らの噂さ。
なんでも、言うことが全て現実になるらしい。まさに、堕天使だね」
酷い言われようだ。
はカウンターを離れた。
「忠告ありがとう」
その表情を見てか、主人が溜め息をついた。
「行くのか……。天使の加護がありますように」
ドアのベルを鳴らして、は店を出る。
そのあとを、胡散臭い眼鏡の男――ティキが追ってきた。
「待った待った!」
は振り返る。
先程使ったトランプを振って、ティキは言った。
「コレ、いる?」
「別にいいよ。それは賭けてないし」
そう返すと、ティキは肩を竦めて歯を見せた。
「そっか。……実はちょっとほっとした」
「あはは!」
笑う。
ティキの口の端が、不自然に吊り上がった。
「――『神に魅入られた存在』か」
「え……?」
余りに聞き慣れた、自らの代名詞ともいえるフレーズ。
は思わず耳を疑った。
しかしティキは既に、間の抜けた笑みを返していた。
「またな、オニーサン?」
「あ……ああ」
釈然としないまま、は酒場の主人に言われた通り、裏通りに入った。
大通りよりはいささか小さな店が並んでいる。
華やかな大通りに比べ、ここは随分と静かだ。
その突き当たり、左側の家の前で、子供達が何やら騒いでいる。
声の限りに、中心の少年に罵声を浴びせる子供達。
ガキ大将のような少年が石を振り上げたのが見えて、は思わず声を張った。
「何やってんだ!」
「わっ! 逃げろ!」
蜘蛛の子を散らすように、子供達は逃げていく。
座りこんでいる茶髪の男の子。
彼に近付きながら、そっと声を掛けた。
「大丈夫か? 怪我は?」
「……いで」
「ん?」
怯えきった瞳でを見上げ、少年は叫んだ。
「“来ないで”!!」
少年が叫んだと同時に、の体がふわりと浮きあがった。
「!?」
突然のことに驚く。
次の瞬間、は向かいの壁に向かって勢いよく吹き飛ばされた。
無抵抗で壁に叩きつけられる。
その時、通りの向こうから声がした。
ラビが血相を変えて走ってくる。
「!」
の脇に屈み、軽く肩を揺する。
「おいっ、大丈夫か!?」
柄にもなく焦っているラビ。
は呻きながらも無事を知らせた。
安堵の息を吐いたのも束の間、ラビが少年を鋭く睨みつけた。
「こいつ……!」
「……待って、ラビ」
今にも掴みかかりそうなラビを制し、はゆっくり立ち上がった。
ラビの剣幕にさらに怯えている少年に、目線を合わせるように屈む。
「アイザック・イェルマだね? 驚かせて悪かった。俺達は、黒の教団のエクソシストだ」
黒の教団と聞き、少年の瞳が二人のコートを捉えた。
栗色の髪から覗く瞳は、青く澄んで美しい。
「教団……あの、白い服の人達の、仲間?」
穏やかに微笑んで、は頷いた。
少年、アイザックはさっと顔を赤くして、申し訳なさそうに俯いた。
「えっと……あの……ごめんなさい……」
蚊の鳴くような声で謝るアイザックを見て、ラビが長く息を吐く。
ようやく肩の力を抜き、いつものようなのんびりした笑みを浮かべた。
も立ち上がる。
「これくらい、平気だよ」
アイザックが、ほっとしたように目を細めて笑った。
笑顔の中で、ラビが告げた。
「オレ達はお前さんを迎えに来たんさ。ところでアイザック、『白い服の人達』はどうした?」
アイザックは言い澱み、ラビから視線を外して下唇を噛んだ。
「最初の人達は、駅の前で……次の人達は、僕の家の、裏側で、その……」
俯いた黙りこくったアイザック。
とラビは苦い表情で顔を見合わせた。
やがて溜め息をついたラビが、アイザックの頭に手を乗せた。
「ごめんな、思い出させて」
ううん、と言いながら首を振り、アイザックが鼻を啜る。
強く吹いた冷たい風に小さく体を震わせて、ふとは尋ねた。
「白い服の人達は、一緒に来いって言ったんだよな? アイザック、荷造りは済んでるか?」
「うん。あ、でもまだ……」
「分かった。……やっぱ保護者に言うべきだよね?」
ラビに言うと、彼はぽんと手を叩いた。
「忘れてたさ! ん? 荷造りしてるってことは、もうオッケーもらってるんか?」
視線を受けたアイザックは、悲しく微笑んだ。
「父さんは僕が小さいころに死んじゃった。母さんは僕を置いて出てったよ。だから、大丈夫」
思わず二人は押し黙った。
アイザックが俯く。
「……あのね」
ぽつりと、気遣わしげに言った。
「僕、本当に『教団』に行ってもいいの?」
「それは、もちろん」
「なんか心配なんさ?」
最初アイザックを見つけた時とは正反対の優しい表情で、ラビが屈んだ。
はそんなラビを見て、気付かれないように微笑んだ。
「うん……僕は、『堕天使』だから」
「どういう意味さ?」
「言葉でワザワイを起こすって、みんな言うから……」
「なっ……!」
ラビは勢いよく立ち上がり、の方を向いて声を荒げた。
「ひでーさ、!」
「言ったのは俺じゃない」
「スイマセン……」
二人のやり取りに、アイザックが小さく笑った。
「本来、この街の天使は喋れないんだ。アイザックは特に言葉を使うから、そう言われるんだろ」
「なるほど」
酒場の主人の物言いから、これは分かっていた。
冷静な説明にラビは頷き、腰に手を当てた。
「安心するさ、アイザック! お前は立派にオレ達の天使さ!」
初めて言われたのだろう。
ラビの言葉に、アイザックは顔を輝かせて笑った。
「ありがとう。えっと……」
「あ、言い忘れてたさ。オレはラビ、こっちは」
ラビが笑った時、軽やかなカーニバルの音楽の中から、厳かな鐘の音が大きく鳴り響いた。
少年が空を仰ぎ見る。
「大時計の鐘だ。これが鳴ると、すぐに日が暮れるんだよ」
へぇ、と頷くに、ラビが言った。
「さっき宿取ってきたさ。行く?」
アイザックの言う通り、空の色が変わってきた。
心を締め付ける色が、頭上に迫っている。
なるべく上を見ないように、は聞いた。
「そうだな。アイザック、出発はいつがいい?」
「明日でもいいよ。僕、早く行きたい!」
彼は、きっとエクソシストになるということの意味を、分かっていない。
騙して連れて行くようで、少し複雑な気持ちになる。
隣でラビが大きく頷いた。
「じゃ、明日の朝迎えに来るさ。それでいいよな?」
「ああ。準備しておきな」
僅かな夕陽の中で、アイザックは嬉しそうに笑って頷いた。
大時計が、月光を浴びて立っている。
二人の部屋からは、それがはっきりと見えた。
ベッドに入りながら、ラビが言う。
「にしても、この街の連中はひどすぎるさ。あんな小さい子に……」
はくすくす笑う。
「最初は殴ろうとしたくせに」
「う」
仄かなランプの明かりに照らされたラビの顔が、少し赤くなる。
「それとこれとは話が別さ。アイザックはちゃんと謝ったし」
はいはい、とは笑いながら頷いた。
掛け布団を引っ張り上げ、ふと尋ねる。
「ところでお前、あの女の人はどうした?」
「ははは……玉砕」
乾いた笑みにつられて、も苦笑した。
ラビがランプを消して布団を被る。
「どんまい」
「サンキュー」
宿屋の明かりが一つ、消えた。
昼のカーニバルと正反対に静まり返った大通りを、一人の男が歩く。
黒いシルクハットにタキシード、額には十字の聖痕。
彼が歩くその上空を、球形の物体が滑るように飛んだ。
石畳に、硬い靴の音が響く。
男は宿屋の前を通りながら、喉の奥で笑った。
酒場の脇を抜け、裏通りに出る。
男の唇が、ニタリと弧を描いた。
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