燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









「何故、お前は……元帥になるのを、断った……?」

薄暗い空間。
イノセンスの番人は、数ある手を金髪の青年の肩に這わせる。
青年は、柵に身を預けている。

「お前ならば……その資格は、充分に……あるというのに……」

細く美しい声を紡ぐ、聖女。
神の寵児は、その神秘的な手に頬を寄せた。

「資格なんて、無いよ」

虚空を見つめて、彼は微笑む。

「あるはずが、無いんだよ」



Night.7 過ぎった風景









目の下に隈を作った男達がひっきりなしに出入りする、科学班の研究室。
リーバーの机の横の小机。
つまり定位置に、は入り浸っている。
すぐ後ろにはソファがある。
アレンとリナリーが巻き戻しの町に旅立ってからの二日間、は殆どの時間をそこで過ごしていた。
勿論、翻訳作業や書類整理など、出来ることは請け負っている。
この中で何もせずに居ることほど心苦しいものはない。

「ハイ、兄貴。一冊終わったよ、どこ置けばいい?」

の声に、リーバーが化学式から目を上げた。
聞けば三日は寝ていないという彼の目は腫れぼったく、濃い隈に縁取られている。

「おー、サンキュー。そこらへんに適当に置いといてくれるか?
それと、アジア支部からのレポート捜してくれ、そこの机にあるはずだから」
「オッケー」

は気軽に答えた。
しかし、リーバーの指さす方向を見ると、今にも崩れそうなほどうず高く積まれた書類の山。

「……マジか」

呆気にとられて思わず呟く。
気を取り直して、慎重に、けれど迅速に書類を一枚ずつめくった。

「おーい! この書類何語だ!?」
! これ訳してー!」

背後から掛けられるいくつもの声に、苦笑いをしながら返す。

「俺は一人しかいないよー。皆ちょっと待ってて」

そして目の前の山に集中しようとした矢先、ジョニーの声には手を止めた。

ー! 室長が呼んでるよー!」

とリーバーの間に流れる、気まずい沈黙。

「……ごめん」
「ハハ……行ってこい」

書類を崩れないように整えて、は振り返った。

「帰ってきたらやるから、全部机に上げといてー」









久し振りに黒の団服を纏って、は研究室を出た。
廊下を少し行ったところ、一つの扉の前で足を止める。
ノックを二回。
内側に押し開ける。

!」

衝撃。
続いて上半身を締め付けられる感覚。
視界いっぱいの朱い髪。

「会いたかったさー! すっげー久し振りじゃね?
おっ、ちょっとでっかくなってるさ! でもって、ちょっと痩せた?」

は自分の首を締め付ける腕を必死で叩いた。
と、横から老人の声が突っ込んだ。

「さっさと放してやらんか! 馬鹿者!」
「わあー! ごめん! 大丈夫さ? 生きてる?」

朱い髪の青年、ラビは慌ててを放した。
二、三回喉を擦って、は恨みをこめてラビを見上げた。

「あのさ、何度も言ってると思うけど、首絞まるから」
「うん、ごめん」

ニコニコしながら謝る友人に、溜め息をつく。
しかし懐かしさに微笑みを浮かべ、は二人を見た。

「久し振り、ブックマン、ラビ」

老人、ブックマンは満足そうに頷き、ラビは嬉しそうに笑った。
ふと啜り泣きを耳にして、は書類の塊に目をやった。
ボクだけ仲間外れ……と部屋の主が肩を落としている。

「あ、ごめん、コムイ」
「いいよ、みんなでそうやってボクだけさぁ……なんてね」

軽くウィンクをして、コムイは席を勧めた。

、ラビも座って。任務だ」
「あれ? ブックマンは?」

座って資料を受け取りながら、はブックマンを見る。
ブックマンは二人に資料を渡し、袖に手を通した。

「室長に話があるのでな、二人で行ってこい。、この馬鹿を頼むぞ」
「ははっ! 任せて」
「ひでーさ、二人とも!」

不憫なラビの言葉に快活な笑いを送って、コムイが地図を引っ張った。

「スペイン北東部にドールという街があるんだけどね。二人とも知ってる?」

とラビは顔を見合わせた。

「知らねェな……は?」
「初耳。それで?」

コムイは穏やかに微笑む。

「今その街はカーニバルの真っ最中でね。凄く綺麗なお祭りらしいんだ。
二人はそのお祭りを楽しんで、囚われのボクに報告すること!」
「それ……任務なんさ?」

思いもよらない内容に、ラビが怪訝そうに聞き返した。
勿論、とコムイが頷く。

「重大な任務だよ。カーニバルといえば、たくさん人が集まってくる。
そうするとアクマの動きに警戒しなきゃならない。奴らには恰好のエサ場だからね」
「あ……」

なるほど、とラビが頷いた。
急にコムイが真剣な顔をする。

「それと、一番重要なこと。
アイザック・イェルマという十歳の少年を捜索・保護し、無事に教団まで連れ帰って欲しい」
「十歳? 何でまたそんな子供を?」

が尋ねる。
コムイは眼鏡を押し上げた。

「六日前、ドールに赴いていた探索部隊から、声帯にイノセンスを持つ少年を発見したと連絡があった。
これから連れて帰るってね。だけど二日待っても以降の連絡が無い。
そこで三日前、新たな探索部隊を派遣したんだ。
だけど、その隊は街の入り口で先の探索部隊が全員殺されているという連絡を最後に、音沙汰が無い」

乾いた笑い声。
ひきつった笑顔で、ラビが呟いた。

「ホラーさね」

頷き、コムイは続ける。

「これ以上探索部隊を派遣するのは無意味だと判断した。
それに、殺したのがアクマだとすれば少年が危険だ。
二人には探索部隊の安否の確認と少年の捜索、住民の安全確保を頼みたい」









家々が立ち並び、その中央に教会が一つ。
畑や果樹園が続き、小さな森が佇む。
車窓から見えたその村は、遠く汽車の中からでも窺えるほど、長閑な雰囲気を醸し出している。
しかしラビの視線は手元の書類にあった。

「ドールでは天使が信じられてるらしい。神じゃないんか、珍しいな。
ドーリーカーニバルは、天使の愛情が来年も与えられるようにっていう収穫祭のことさ。
街中にカサブリーテっていう真っ白な花が溢れて、花飾りを付けた人形がいろんなところに飾られてる……
おっ、この花すげーさ! 茎まで真っ白――って」

興奮した声を鎮め、ラビは目の前のを見た。
心ここにあらずといった調子で、ぼう、と窓の外を眺めている。



強めに声をかけると、は視線だけをラビに向けた。

「どうした? なんか元気ないさ」
「……そうでもないよ」

彼はまた外を見る。
景色が変わって森が続くが、彼の視線は森のずっと先を見ていた。

「具合悪いんさ? 『聖典』、また副作用が出たって……」
「大丈夫だって」

微笑を漏らし、は森の向こう、果てない何かを眺める。
ラビは引き下がらなかった。

「大丈夫じゃない時ほど、はそうやって笑うんさ」

少し怒ったように言葉を放り投げた。
汽車の揺れる音だけが、大きく響く。
やがて森を抜けた時、が窓から視線を外した。

「さっき通った村、昔、俺が住んでた所に似てるんだ。教会の形とか、森とか」
「……そっか」
「思い出したら、ちょっとな」

静かに、は苦笑い。
一拍置いて、ラビは真剣に彼を見つめた。

「苦笑いは、もう見飽きた」

の瞳が、ラビの隻眼を、そして隠れた右目を捉える。

「コムイだって、リナリーだって、ユウだっているさ。
皆お前のことが好きで、皆たまには力になりたいって思ってる。頼ってやれよ。仲間だろ?」

ラビの問いに、は答えなかった。
微笑んで言う。

「やっぱりその中に、お前は入ってないんだな」
「……っ」

ラビは言葉に詰まって、息を呑んだ。
するとは一転してくすりと笑った。

「だからこそ、お前と居ると少し安心するよ」
「えっ」

思いがけない言葉に面食らって、声が漏れる。

「ラビだから言えることも多いしな」
「それってオレしか知らないが居るってことさ? 役得さね、超嬉しい」

が声を上げて笑った。
それを見てラビは、鼻をこすり、へへ、と笑った。

「気ィ、晴れた?」

彼は笑いながら大きく息を吐く。

「ああ、ありがとう」









昔々、空から降りてきた天使は、喋ることが出来なかった。
言葉の代わりに、たくさんの花を降らせた。
それは、太陽の光に目映く輝く、白い花(カサブリーテ)。









汽車を降りた二人を出迎えたのは、子どもの形をしたたくさんのぬいぐるみだった。
それを取り囲むように咲き誇る、白い葉、白い茎、白い花弁のカサブリーテ。

「ホントに白い花ばっかりさ……」

あんぐりと口をあけるラビの横で、も周囲を見回した。
見渡す限り、花といえばカサブリーテ。
店先にも街灯にも、必ず人形と花が飾られている。
家々の玄関にも、窓際にも、いたる所に、だ。
大通りの中央には、大きな時計。
その前で五人ほどの楽団が陽気な音楽を演奏している。
流石、カーニバルの最中といったところか。
大人も子供も、あちこちで楽しそうにしている。

「綺麗な街だな」

は呟いた。
その時目の前を横切った美しい女性。
まずい、と恐る恐るラビを見た。

「ストライーク!」
「はぁ……」

案の定、目がハートマークになっている。
は思いきり大きな溜め息をついた。
こうなったラビは止められない。

! 日没に大時計の前に集合さ!」
「はいはい、了解」
「サンキュー!」

元気よく駆けだして、美女の後を追うラビ。
はがっくりとテンションを落として手を振った。

「で。俺はどーすっか……」

しばらく大通りを行くと、一際賑やかな酒場が目についた。

「あそこでいいかな」

任務中で酒を嗜めないのが、いささか悲しい。
はドアを開けた。
ベルが軽い音を奏でる。
中には何人か、子どもの姿も見えた。

「兄ちゃん! いらっしゃい!」

主人だろうか。
恰幅のいい男が、人好きのする笑顔でを迎えた。

「ご注文は?」
「えっと……何か、食べるもの。量は要らない」
「あいよ! ――と、なんだぁ、またアンタらが勝ったのか」

主人が声をかけた方向を、も見た。
低いテーブルを、四人の男が囲んでいる。

「何やってんの?」

聞かなくても分かるほど見慣れた光景。
一応尋ねると、主人はカウンターに入りながら答えた。

「賭け事だよ、ポーカー。いやね、その三人が強くて、誰も勝てないんだ」
「へぇ……」

確かに。
打ちひしがれている一人の男を、他の三人が取り囲んでいると言ったほうが正しいだろうか。
歓声をあげる店の客。
その後ろから眺めているの姿を、三人のうちの一人、胡散臭い眼鏡を掛けた男が目に留めた。
もそれに気付いた。
しばし、二人の間で沈黙が流れる。
男が口の端を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。

「そこのオニーサン」

客の視線がに集中した。
眼鏡の男はトランプを指し示す。
相変わらず、笑ったままだ。

「どうだい?」
「やめときな、兄ちゃん!」

主人が後ろからを引きとめた。
が、は笑い返して一歩踏み出した。

「いいよ、やろう」









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