燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









あなたが居たから
僕は今、生きている



Night.76 神は見ている









「彼の処分についても、明日発表しますので、そのつもりで」

ルベリエが宣言し、部屋を出ていった。
ブックマン師弟も既に場を離れている。
コムイは額に手を当て、溜め息をついた。
厄介なことになった。
エクソシストが、ノアの宿主とは。
アレンが臨界者であることがせめてもの救いだろうか。
否、エクソシストであるその事自体が救いになりうる。
教団はどうあっても適合者を手放すわけにはいかない、最悪の展開だけは避けられるだろう。
そう自分に言い聞かせて、何とか思考を落ち着かせる。

「(そういえば、は……)」

そこで、コムイは部屋の中にいたはずのもう一人の存在を思い出した。
「鴉」の面々やラビが退室した時には姿を見掛けなかった。
コムイは、先程まで彼らがいた部屋へ足を運ぶ。
一応ノックをして、扉を開けた。

、いるかい?」

声を掛けたものの、その必要の無かったことをすぐに悟る。
間違いない、息が詰まるほどに重く垂れ込めた空気は、彼の支配するものだ。
コムイは扉から手を離し、正面のソファに駆け寄った。
探し人は俯き、胸を押さえて浅い息を繰り返している。
扉の閉まる音がして、彼が僅かに顔を上げた。

「大丈夫?」

首肯が返される。
背中に手を当てると、随分と高い体温が感じられた。
が蒼白な顔で微笑む。

「ちょっと……横に、なりたい……」

休めと言われて突っぱねることは多々あれど、彼が自分から休みたいと言うことは稀だ。
こんなときなのに、コムイは少しだけ目を瞠った。

「構わないよ。このまま、アジアに戻ろうか」

が断固として首を横に振る。
なるほど考えてみれば、体の負担も気持ちの抵抗も大きいだろう。
最近になってクロスから教えられた事だが、は基本的に一人では眠れないのだという。
出来るだけ人気のある場所、そう考えて思い付いたのは、ホールに置かれたソファだった。
少し寒いかもしれないが、条件は満たしている。

「じゃあ、ホールまで行こう。支えるけど、少しだけ歩ける?」

どこかが痛む様子はなさそうだ。
ふらつくを支えてホールまで歩いたコムイは、目当てのソファに彼を横たえた。
遠くから、先遣隊の声が聞こえてくる。
コムイ自身の着てきたコートを体に掛けると、彼はありがとうと呟いた。

「大したこと、無いんだ……知恵熱かな」

力ない笑い声で彼が言う。
コムイは、つられて笑う気にはなれなかった。
アジアの良い影響だろうが何だろうが、彼が弱音を口にする時点で十分に一大事だ。
はあ、と息をついたが目を閉じる。

「無理しないで」

コムイは瞼の上にそっと手を乗せた。
手の下で、瞼が僅かに震える。

「さっきの、コムイも聞いてたんだろ」
「うん。……悪かったね、いきなり呼び出して、こんな話だなんて」

そっと一度だけ首を振ったが、ぽつりと呟いた。

「俺に監視がつかないのは……『教団の神様』だから?」

聞かれる予感はしていた。
コムイは、彼の目を遮っていることに今更安堵する。
それでも、氷のナイフが心を割り裂くように、静かすぎる空気がコムイを強張らせた。

「元帥が、ね。君には必要ないと……」
「信じたんだ? 『クロス・マリアン』の言葉を」

苦笑だろうか。
或いは、冷笑だろうか。
彼の唇が歪に笑みを浮かべ、そして、唇も体も空気も、何もかもがふっと力を失った。

「……ごめん、忘れて」

短い言葉には感情の彩りがあまりにも希薄で。
せめて漆黒から何かを掴もうと、彼の瞼を覆っていた手をそっと退ける。
けれど、瞼の狭間から覗いた瞳はあまりに疲れきっていて、かえってコムイの心を怯ませた。
結局、再び彼の瞼に掌を乗せる。

「暫く此処にいるから、眠ってもいいよ」

出来るだけ温かく聞こえるように出した声は、果たして、その通りに届いたのだろうか。
浅い息が、それでも緩やかに規則性を持ち始める。
コムイは側のソファに腰掛けた。
持ってこさせた書類を眺めながら、眠る彼の様子を窺う。
実際のところ、ルベリエとしてはを監視したいのだ。
反対したのはコムイである。
「神」が監視されているとなれば団員達の士気にも大きな悪影響を及ぼすだろうと。
彼の心身をとにかく休ませたいがために捻り出した「理由」でルベリエを辛うじて納得させた。

「(ボクの判断は正解だった、筈だ)」

彼が「神様」でないのなら。
きっと自分達は、余りにも大きな傷を見逃していた。
後悔の予感を孕み、コムイは囁く。

「ごめんね……」

いくつかの案件を書面の上で片付けたとき、にわかに建物が騒がしくなった。
何事かと身構える。
暫くして中央庁の警備員が血相を変えて駆けてきた。

「室長!」
「静かに。どうしたの?」
「緊急事態です!」

その激しい狼狽に、酷い胸騒ぎを覚えて立ち上がる。

「……何か、あった……?」

足元からの声は、浅い眠りから呼び起こされた彼のものだ。
警備員は今にも駆け出しそうな顔をしている。
コムイは軽く唇を噛み、いつも通りの笑顔を作った。

「いや、何でもないよ。少し外すけど、寝ていられる?」

小さな首肯を確認する。
コムイは軽く彼の肩を叩き、警備員の後を追った。









駆けていく二人の背を見送り、はぼんやりと瞬きをする。
側のソファに山と積まれた書類。

「(ずっと、いてくれたんだ……)」

恐らく、一人では眠れないことをクロスが伝えたのだろう。
時間は短かったものの、随分と落ち着いた眠りに身を置いた。
空間全体が何やら騒がしく、静寂は訪れない。
としては、かえって好都合だ。
これくらいの方が眠りやすい。
気を落ち着けて再び目を閉じようとすると、どこからか聞き覚えのある高い音がした。
飛んできたのは、金のゴーレム。
ティムキャンピーは、の目の前で旋回したかと思うと、激しく羽ばたいた。

「どうした、ティムキャンピー」

アレンは? そう聞こうとした矢先、ゴーレムがの服を噛み、ぐいと強く引いた。
不意を突かれ、は危うくソファから落ちかける。
呆気なく床に着いたコムイのコートを拾い、はティムキャンピーを見上げた。
このゴーレムには、こんなにも力があっただろうか。

――お兄ちゃん――

の声。
強張る体。
細い呼吸をしながら訝しく見上げる。
ティムキャンピーが闇雲にも見える羽ばたきと旋回を繰り返した。

「ティム?」

再び服を噛まれて、は遂にソファから引きずり下ろされた。
少し距離を取ったティムキャンピーが、振り返るようにの方を見ている。
着いてこい、とでも言うのか。
ゆらりと一歩踏み出しかけた瞬間、背後からアレンの声がした。

「待てよ、ティム!」

弾かれるように、ティムキャンピーが飛んでいく。

――お兄ちゃん――

自然と体が動いて、は駆け出した。

「兄さんすみませんっ」

かなり後方から、アレンの足音が聞こえる。
まだ大分距離があるようだ。
はちらと振り返り、ティムキャンピーに視線を戻した。

「なんか、いきなりティムが起き出して……!」

弟弟子と喧嘩をしたわけでもないらしい。
この奇行は、アレンにも想定外だったのか。
ならば尚更、何故。

――お兄ちゃん――

ティムキャンピーが扉の開いた一室に飛び込んだ。
は溜め息をつき、速度を上げた。

「おい、ティム!」

――風と雨の音が、聞こえる。
踏み込んだ部屋の中、割れた大きな窓に、視線を縫い止められた。
吸い込んだ空気が孕む、雨と嗅ぎ慣れた鉄の臭い。
居並ぶ中央庁の制服。
ルベリエの横顔と、コムイの背中。
慌てたように声を上げるのは、ハワードと呼ばれていたアレンの監視役。

「っ、ウォーカー、!」

その声音に、嫌な予感が過る。
息が乱れる。
空気がざわつく。
頬を掠める強い風。
雷に照らされ、紋様を露にする窓。

「それ……血……?」

アレンの声が、遠くに聞こえる。
は室内の惨状からふと目を背けた。
そうだ、自分はティムキャンピーを追ってきたのだ。
振り返ったコムイが何かを言った。
その体の向こう、窓の傍に金のゴーレムはいた。
割れて血濡れた仮面に、すり寄るようにして。

――息が止まった



舞い落ちる橙色のワンピース
ぼくのせいだ
焼けるような夕焼け
リリン
地面を震わせる轟音
こわい
雪の中駆けた道
すきだった
伸ばされる黒い手
なんでぼくたちが
待ってるわ
頬に飛んできた欠片
ごめんね
冷たい墓石
さみしい
振り返る自分の呼吸
だれか
服と砂の絨毯
……あなた……
止まない動悸
きもちわるい
吹き飛んだ真横の壁
かみさま
たった一人の村
たすけて
聳える十字架
パキン
おに、ぃ、ちゃ……



黄昏色に塗り潰された記憶が、目を眩ませる。
鳴り止まない鐘の音が、鼓膜を切り刻む。
硬い鉄に似た生臭い血の匂いが、脳を揺さぶる。
轟く雷鳴。
おじさん、震える唇が呼ぶ。
お兄さんだ、答える声は無い。

「(何があった)」

誰かに肩を揺すられている。
師匠は、さっき、ついさっきまで確かに話をしていたのに。
座り込んだら、あの人はまた来てくれるだろうか。
いつだってを暗闇から救うあの赤い髪が、どこにも見えない。

「(なにがあった……?)」

ぼやけた視界が明度を増した。
落ちていた硝子に映るのは、無表情に此方を見下ろして立つ男。
は殆ど無意識に、その破片へ手首を走らせた。









ふらりと膝から崩れ落ちた兄弟子の後ろで、アレンはただ立ち尽くすことしか出来なかった。

「しっかり……落ち着いて、

コムイがの傍らに屈み、彼の肩を叩いて気遣わしげに呼び掛けた。
金色は何も応えず、座り込んでいる。

「退室しなさい、ウォーカー。話は後です」

監視役ハワード・リンクの焦りを孕んだ声も、アレンの耳をすり抜ける。
あの仮面は、間違いなく師のものだ。
ならば、窓を彩る夥しいほどの血は。

「誰の……」

呟いたところで、行き着く答えは限られている。
空を走る稲妻が室内を鮮やかに照らし出した。
ティムキャンピーが泣いている。
この凄惨な部屋の中で、一体何があったというのだろう。

「……ルベリエ……」

――地を這うような声が、聞こえた。
全身の毛を逆立たせる、悍ましいほどの威圧感。
戦場ですら出会したことのない強烈な殺気が、一瞬のうちに部屋中に膨れ上がる。
アレンは思わず身を引いた。
出どころなんて、決まっている。
空間を鷲掴みにして握り潰すような、そんなことが出来るのはたった一人。
そこに座り込んで俯く、彼しかいない。
彼の手首が硝子の上を走る。
反射的に止めようとしたアレンとコムイを気迫だけで遠ざけ、が立ち上がる。
部屋中に散る、漆黒の釘。

「駄目だ! !!」

コムイが悲鳴のように叫んだ。
兄弟子はまるで意に介さず、佇むルベリエだけを見ている。
「磔」の釘は、全てが適合者の視線の先に狙いを定めている。
このままでは、殺してしまう。
アレンは彼の腕を掴んだ。

「兄さんっ」
「離せ!!」

かつて聞いたこともない渾身の怒声に、アレンの喉はひっと引き攣った。
信じられないほど強い力で振り払われ、尻餅をついた。

「(こわい)」

怖い。
怖い怖い怖い怖い、怖い。
がくがくと震える視界の中で、がダンと踏み込み、ルベリエの胸倉を掴んだ。
周囲の警備員が一拍遅れてへ銃口を向ける。
コムイが息を飲む。
に視線を留めたまま、ルベリエが静かな声で警備員に命じた。

「下ろしなさい、殺されますよ」

見れば、警備員一人一人に釘が向けられている。
丁度心臓の真上だ。
が念じれば一突きで彼らを仕留めるだろう。
警備員が慌てて銃を手放した。
ルベリエがを見下ろして、ぎこちなく笑った。

「キミも抑えたまえ、。死にたいのかね?」

胸倉を掴んだまま俯いたの背中が、震えている。
肩が大きく上下して、彼の声が低く聞こえた。

「どこだよ」
「聖典を停止しなさい」
「師匠は、どこだ」
「止めろと言っているんだ」
「うるせぇ!! 答えろッ!!」

割れるような怒号の後、静まり返った室内に雷が光を射した。
誰も、息すら出来ない。
この場にいる警備員は、恐らくクロスの監視の任についていたのだろう。
先程手放した銃の傍に座り込み、脅えたようにを見上げてただ震えている。
リンクは辛うじて立ってはいるが、壁際まで後退っていた。
降り続く雨の音。
いつの間にか血の釘は全てがルベリエに向けられていて、が喘ぐように息をしている。

「言っておくが、私は知らない」
「っ、だ……と……」
「発動を止めなさい、

アレンは、動けなかった。
手を伸ばしたいと、確かに思うのに体が動かない。
指一本すら、思い通りにならない。
兄弟子は、ルベリエの服を握ったまま膝を落とした。
ルベリエはそれに逆らわず体を折り、片手で彼を支えている。
コムイが躊躇いながらに歩み寄り、背に手を当てた。
もう片方の手で、ルベリエに伸びた彼の手をそっと掴む。

、もうやめよう」

存在することも赦さない苛烈な空気が、揺らいだ。
下ろされた手が、胸元を握り締めた。

「アレンくん」

コムイの声がする。

「アレンくん、頼まれて欲しいんだ」

アレンは一瞬遅れて、自分が呼ばれていることに気付いた。

「っ、はい」
「すまないね、キミも混乱してるだろうけど、バクちゃんを呼んできてくれるかな」
「え……アジア、の?」
「そう。をそっちに連れていくから取り敢えず来てくれって」

いいね? 
コムイが言い含めるように囁く。
俯いていた黄金は、既にその瞳を閉じて凭れ掛かっていた。









色の無い唇、浅く動く胸。
睫毛が震えて、瞼がゆっくりと持ち上がる。
覗いた瞳にはまるで力が無く、フォーは思わず彼の手を握った。



瞬きもしなければ、手を握り返しても来ない。
もう一声掛けようとした矢先、後ろから人の気配がした。

「気付いたのか」

フォーは手を握ったまま、バクを振り返った。
頷くと、彼は無線に呼び掛けてからの枕元に立った。

「痛むところはあるか?」

反応を示さない黄金にそっと触れ、バクが微笑む。
たった半日。
たった半日で、全てが変わってしまったようだ。
注意深くを見つめる。
何があったのか、フォーは聞いていない。
そろそろ戻ってくるかな、見習い達がそう話していた時だった。
新本部より、アレン・ウォーカーからの通信を受けて、呼ばれたバクが行ってみれば、これだ。
此方に運ばれたときには既に気を失ってはいたものの、一目でただならぬ変化に気付いた。
ただの引っ越し作業で戻った筈なのに、一体どうして。
フォーはじわりと眉間に皺を刻む。
けれど、事情を知っている筈のバクが。
嘘も吐けず、駆け引きも不得手なこの支部長が、騒ぐ内心を押し隠して微笑んでいるのだ。

「ボク達は、此処にいる」

がひゅっと浅く息を吸い、胸を波立たせた。
フォーは再び、今度はよりしっかりと彼の手を握る。

「ちゃんと、いるからな。

真新しい包帯に巻かれた手首の向こうで、指先は一度ぴくりと動き、やがてゆるゆると開いた。
まるで、何かを手放すように。









――主よ
こうして壊してゆくのなら、何故
人間を創られたのか
貴方のただ一つの欲を
責めたりは、しないから
産まれた業をせめて
其の好奇の片隅に
後の貴方が
どうか同じ欲に溺れぬよう









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