燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









思い知った筈なのに
幾度となく軋むこの心こそ
人間の証なのだと
言い聞かせて
また今日も、手を下すのだ



Night.75 血塗られたこの手で









ノックの音がして、二人は顔を見合わせて頷いた。
頭から布を被り仮面で顔を隠した中央庁の戦闘部隊「鴉」が部屋に入ってくる。
クロスがの頭を軽く撫でて立ち上がり、窓を閉めた。
横にあった体温が離れ、少しばかりの寒気を覚える。
は自分も立ち上がって、テーブルの上のグラスにワインを注いだ。
クロスに手渡して、ソファに戻る。
「鴉」に続いて入室したのはラビだ。
いよいよ「14番目」の話を聞くときが来た。
てっきりブックマンもこの場に来ると思っていたが、その姿は此処にない。
クロスが背後の窓際で息をつく。
は振り返った。

「師匠、吸っててもいいですよ」
「……おう」

火を点ける音。
彼が深く息を吸い、吐き出す。
嗅ぎ慣れた煙草の香りが部屋に広がった。
この煙は体に害なのだと、以前医療班に聞かされたことがあった。
もしかすると師はそれを意識したのかもしれないが、は今更気にしない。
これだけの心配と迷惑をかけてなお神の手を逃れ、が人生の中で最も長く共に過ごした相手だ。
この香りは、常に傍にあった。
俎上に載せるのも今更、というものだ。
扉が開かれた。
簡素な服に着替えたアレンが、「鴉」に促されて入室する。
弟弟子の両腕は、特に左腕を厳重に呪符で拘束されていた。
不安げな、迷いの残る表情のアレンに、は一度頷いてみせた。
ぎこちなく頷き返したアレンが、唇を引き結んでの背後を見据える。

「マナは、『14番目』と関わりがあったんですね」
「ああ。『14番目』には、血を分けた実の兄がいた」

は背凭れに体を預けた。
何となく、話の筋が読めたからだ。
ソファのスプリングが軋む。
頭の奥がじんわりと痛みを訴える。
紛らせようと、目を瞑って長く息を吐いた。
先程までの話の衝撃も抜けきらず、自分の中で感情の整理ができていない。

「『14番目』がノアを裏切り千年伯爵に殺される瞬間までずっと側にいた、ただひとりの人物。
それが、マナ・ウォーカーだ」
「兄弟……マナと『14番目』が」

呆然と、弟弟子が呟いた。
表情よりも言葉よりも雄弁に、アレンの纏う空気が揺らぎを伝える。

「師匠は、ずっと前から知ってたんだ……?」
「知ってたさ、ずっと。オレは『14番目』が死ぬ時、マナを見守り続けることを奴と約束した」

上層部や中央庁は、師とノアの繋がりには気付いていたのだろう。
だからこそいち早くあの会議の場で、異端のノアについて言及できたに違いない。

「そうしていればいつか必ずマナの元に帰ってくると……お前が、オレに約束したからだ、アレン」

その言葉に、は俯けていた顔を上げた。

「――いや? 『14番目』」

部屋の空気が、大きく揺らいだ。
アレンが宙を見たまま色を失っている。
ラビが部屋の隅で体を強張らせた。
は、胸に手を伸ばす。
震える指で襟のボタンを一つ外し、押し下げるようにタイを弛めた。
それでも、追い付かない。

「(息が、苦しい)」

激しい動悸を自覚する。
師は一体何を言っているのだ。
アレンが「14番目」の兄弟に育てられたというのは、まだいい。

「ッ、師匠……」

振り返ると、クロスの険しい目とかち合って、思わず言葉を飲み込む。
けれど今ほど、黙っていられない時も無いのに。

「覚醒はまだだろうが、自分の内に『14番目』の存在を感じ始めてるんじゃないのか、アレン」
「は? 何をいって……」
「とぼけんな。お前は奏者の唄を知っていた、それは奴の記憶だ」

弟弟子はひどく狼狽えている。
声も空気も、何もかも定まらない。
何かを隠している様子はまるで無い。
アレンは、何も知らなかったというのか。

「お前は『14番目』の“記憶(メモリー)”を移植された人間」

こんな、自身の根幹に関わるような話を。

「『14番目』が現世に復活するための宿主だ」









人の倒れる音が聞こえた。
いつの間にかクロスがの前にいる。
その足元に左頬を殴られた様子のアレンが倒れていた。
知らず止めていた呼吸を思い出し、は細く口を開ける。
動悸が収まらない。
到底理解できない内容に、アレン共々思考を停止してしまっていた。
ピアノを弾けたのも、奏者の唄を知っていたのも、全て「14番目」の“記憶”だという。
そんなことが可能なのか。

「い、移植って……いつ……」
「あ? あ――……ワルイがそこはまったく知らん」
「はぁあッ?」
「まて、大体はわかる。多分アレだ、『14番目(やっこさん)』が死ぬ前だ」
「それ、わかんないんじゃん!!」

二人のいつも通りのやり取りが、を僅かながら落ち着かせた。

「ああ? ンだテメェ、ワルイつってんだろが。トバせッ、そこは」
「もうちょっと悪びれてくださいよ、師匠……」

口を挟み、二人を宥める。
押し黙った師は不機嫌に鼻を鳴らした。

「フン……オレだって半信半疑だったんだ。こいつが現れるまではな」

かつて、養父マナと「14番目」は、ノアの一族と殺し合いを繰り広げていたそうだ。
「14番目」の目的は、千年伯爵を殺すことだという。
は伯爵側の事情をつゆほども知らない。
ただ、ミザンのことが頭に過る。
ラビの攻撃から千年伯爵を守り、何度も伯爵様と口にした彼はまさに想像通りの「ノアの一族」だった。
「14番目」が異端視される理由はそこにもあるのだろうか。
何よりが気掛かりなのは、クロスの口振りである。
マナのもとに帰ってくる。
約束。
間違いない、クロスは。

「(『14番目』と通じていた)」
「チャンスがあったときに、たまたま手近にいた奴を宿主に選んだ。テメェの手で伯爵を殺したい一心でな」
「それが……僕……?」
「運がなかったな」

アレンの目から力が消える。

「移植された“記憶”は徐々に宿主を侵蝕し、お前を『14番目』に変えるだろう」
「なんだ、それ……マナが、愛してるっていったのは……僕か、それとも、どっちに……」

誰にともなくぽつりと落とされた呟きに、クロスの空気が大きく揺らいだ。
養父マナが、過去を覚えていたかは定かではないという。
それを、クロスはティムキャンピーを通じてずっと、見守っていたのだ。
ノアだとか、エクソシストだとか、そんなことは関係ない。
は、赦されたいと泣いたノアを知っている。
「穢れた神」を恨むのではなく、自分自身の罪と友の不幸を恨んだノアを知っている。
ノア一人ひとりに、それぞれの人生があることを知っている。
役割や使命の違いなんて、大した問題ではないのだ。
クロスにとって「14番目」は少なくとも、分かり合えた相手なのだろう。
否、付き合っていけた相手なのだろう。
だからこそ「14番目」が死んでから、ずっと、律儀なまでに。
けれど今、クロスの纏う空気は目の前の弟子によって、強く大きく揺らいでいる。

「……皮肉だな。宿主なんざ、もっとくだらない奴がなってりゃよかったのに」

クロスがゆっくりと屈み、膝を着いた。
癖の強い髪が肩を滑る。
師が、弟弟子を片腕で抱き込んだ。
指に挟まれた煙草を、ゴーレムが食む。

「ティエドールのことも笑えんな、まったく……」

笑い損ねた声が、独り言のように言う。
クロスには見えないと知っていたが、は堪らず首を振った。
モージスの願いを、聞かぬふりで過ごすことも出来た筈だ。
遺児の心になど構わず、早いうちに話して重荷を下ろすことだって出来た筈だ。
「14番目」の約束も、敵である上に相手が死んだならば反故にしても良かった筈だ。
まして宿主の受ける衝撃に気を払う必要など、無い筈なのだ。
それなのに、嗚呼。

「(本当に、この人は)」

欲望には躊躇わないのに、感情にはなんて鈍い人だろう。
この大きな背中に、自分達はずっと背負われ、守られてきた。

「『14番目』に為ったら、お前は大事な人間を殺さなきゃならなくなる……って、言ったらどうする……?」

クロスが囁き、立ち上がる。
大事な人間とは、まさかマナのことではあるまい。
彼は死んだ、それ故にアレンは呪いの左目を持っている。
ならば、教団の人間だろうか。
ルベリエや、コムイ、ブックマンはこれを聞いただろうか。
ラビの耳には、届いてしまっただろうか。
呆然としているアレンを残して、師が此方を振り返る。

、留守を頼む」

アレンの修行中には、何度か聞いた言葉だ。
は一拍遅れて、何を言い返すでもなくただ頷いた。
「鴉」に促され扉に向かうクロスの背に、アレンが怒鳴る。

「まて……、まてよ。僕が大事な人を殺すって、どういう意味ですかッ!!! 師匠ぉッ」
「『14番目(じぶん)』にきけ」

扉が開かれ、クロスが立ち止まった。

「この戦争にゃ裏がある。今度は途中で、死ぬんじゃねェぞ」
「物騒な捨て台詞残していくなー!!」

――その、言葉の宛て先は

「アレン・ウォーカー」か、それとも、「14番目のノア」か。
クロスのことだ、二人を混同するということはまさか無いだろうが、それでも。

「ッのぉ、まってって……言ってんでしょ、バカ師ーッ!!」

風を切る音に驚いて顔を上げる。
アレンの頭突きを受けて弾丸のように飛ばされたティムキャンピーが師の後頭部に直撃した。
ゆらり、とクロスが振り返る。
完全に逆上したクロスを制止しようとする「鴉」の一人には同情しかない。

「こ……っ、教団(ここ)に入団した日……っ」

けれど弟弟子の言葉が、意志を宿した強い瞳が、にとっては余程重要だった。

「何があっても立ち止まらない、命が尽きるまで歩き続けるってマナに誓った。――誓ったのは、僕だ!」

クロスが押し黙る。
自分の中の得体の知れないものに対する恐怖は、計り知れないだろう。
どれが自分の感情で、どれが「14番目」の感情か。
どれが自分への言葉で、どれが「14番目」への言葉か。

「僕は今でもマナが大好きだ。このキモチだけは、絶対……ッ、本物の、僕の心だと思うから」

も、見極めねばならない。
どこまでが弟弟子で、どこからが「14番目」なのか。
場合によっては、身の振り方を決めねばならない。
はどうあってもクロスの弟子で、アレンの兄弟子で、黒の教団のエクソシストだ。
示さねばなるまい、この立場に身を置く以上は。

「だから僕は、僕の意志でマナへの誓いを果たす。そう今決めた!」

アレンが、べ、と舌を出した。

「『14番目』なんか知るもんかッ!! それだけは絶ッッ対、譲りませんから!!!」

抵抗をやめたクロスが連れていかれる。
はそっと口を開いた。

「アレン」

弟弟子の肩がびくりと震える。
先程までの勢いを失い恐る恐る振り返ったアレンが、窺うようにを見た。

「兄さん……」

此方を振り返るのは、随分な勇気が必要だった筈だ。
自分が、まさにノアなのだと聞かされて、その上で此方を振り返るのは。
は、努めていつも通りに笑った。
彼の空気が緩むのを感じる。
彼ならばきっと理解してくれるだろうと信じて、は唇に言葉を乗せた。

「『お前』が一欠片でも残っているなら、俺はお前の味方だよ、アレン」

大切な弟弟子、大切な「家族」だ。
だからこそ、選ぶ言葉なんて、もとより決まっている。
もしも彼の中から「アレン・ウォーカー」が根こそぎかき消えてしまったとしたら。
は、エクソシストとして、兄として、彼に銃口を向けるだろう。
果たして、弟弟子は唇を引き結び、小さく一つ頷いた。

「退室の時間です」

監査官の声がする。
アレンが「鴉」の面々に連れられ部屋を出ていった。
その後に続いたラビが此方を見ていたのに、気付かないふりをする。
途端にがらんとした部屋の中では、ふう、と音を立てながら息を吐いた。
さて、一体何をもって彼を「アレン・ウォーカー」とすべきだろうか。
敢えて芝居がかった調子で思考をするも、考えれば考えるほど眉間の皺が深くなる。
アレンは、「14番目」の侵蝕に耐えられるのか。
中央庁は、侵蝕が完成するまで処分を待ってくれるのか。
教団は、室長としてのコムイは納得してくれるのか。
自分は、アレンを?

――出来る、筈だ

見知った「家族」 がアクマになることなど、珍しくない。
はきちんと全てを破壊してきた。
そうだ。
母親や、「妹の形をした幻想」ですら、壊してきたのだから。
出来る筈だ。
出来ないとしたら、これまでの自分の行いは何だったのだろう。
弟弟子の姿をしたノアを殺せるのか。
自分に問う。
きっと、出来る筈だ。
その皮が誰であろうと、その中身が何であろうと。
けれど。

「父さん……」

家族に殺されるというのは、どんな気持ちなのだろう。

「……母さん、俺、」

父さんを殺したくなんか、なかっただろうに。

「俺は――ッ」

この思いを口に出したら、もう二度と、エクソシストとしては生きられない。
はぐ、と胸元を握り締めた。









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