燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









錆びたぜんまいが回り出す
その時計の針が
どちらに向けて倒れたのか
誰も、知らぬまま



Night.74 置き去りにされた心たちへ









は、あれよという間に奥の部屋へ通された。

「ウォーカーの準備が済むまで、先に此方でお待ちください」

中央庁の特殊部隊、鴉は基本的に顔を隠していると聞く。
を案内したこの男も恐らくそうなのだろう。
示された部屋の扉に手を掛けると、男はす、と身を引いた。
自分も監視されるのかと思っていただけに少し拍子抜けして、はその扉を押し開ける。

「……あれ?」

嗅ぎ慣れた煙草の香り。
正面には、大きな窓。
その前に立っていた赤髪の男が、手に持つ灰皿にまだ新しい煙草を押し付けた。

「よう、
「師匠」

クロスが、窓を細く開ける。
天候は良くない。
荒れる風の音が窓を震わせ、の背後で扉が勢いよく閉まった。

「まあ座れ。オレが居ることは聞いてただろう?」
「ええ、一応……」

穏やかな表情でクロスが此方にやってくる。
は先にソファに腰を下ろした。
背中側の窓から吹き込む風の音が耳に障る。
クロスが、の肩を抱くようにして隣に座った。

「お前、熱あるな」

はっとして見れば、師は咎めるような目付きとは別に、指でとんとんと耳を叩いている。

「微熱ですよ」

盗聴、されているのか。
何のために?
当然、これからある話のためだろう。
自分達が今改まって師に教わらねばならないことはひとつだ。
アレンと、「14番目」とされるノアのこと。
はクロスの目を見つめ、頷いた。

「ま、今日は我慢しろ。明日はよく休めよ」

クロスが頷き返す。

「分かってます。師匠こそ、抜け出して来たんじゃないでしょうね?」
「馬鹿、ちゃんと長官にも会ってんだろうが、お前は」

拳骨を軽く避けて、師を見上げた。
クロスが静かに目を逸らす。

「丁度いい機会だと思ってな。お前にも、言わなきゃならねェ事がある」

仮面に隠れていない瞳に、力が籠められたのが分かる。
肩を抱く手に緊張が走るのが分かる。

「(嗚呼、)」

そんな表情をするくらいなら、反対側に座らせればよかったのに。
は師の左肩に頭を預けて、彼の視線の先に目を遣った。

「……オレはな、。プレイベルに向かうアクマをこの目で見た」

あの日の、話だ。
そんなことは、すぐに分かった。
耳に障る風の音。
それを更に遮る鼓動が、内側から響いている。

「目の前で『転換』したアイツを、壊せなかったのは、オレだ」

すまなかった。
ぽつりと落とされた謝罪の言葉を、は呆然と床を見つめて聞いていた。
今になって思えば、クロスから聞きたいことは山程あった。
けれど、触れたくないと思う自分がまだ心の中で蹲っている。
速まる鼓動が五月蝿い。
震えそうな息を必死に押さえ込む。
クロスの手がいつものようにゆっくりと肩を叩いた。
その支点になっている手首が、微かに震えている。
は気付いた。
この話からは、逃げられない。
ごくりと唾を飲み込む。
気になったまま心の奥底に隠していた言葉を、必死に探した。

「……父さん、が……いつから、アクマだったのか……知ってますか……?」

クロスの手の動きが止まった。
風と雨が吹き込む。
音が、耳に障る。
目の前で、と言うなら、クロスは村に駆け付けるより前に、モージスがアクマだと知っていたのだ。
母を亡くしてからの父は、以前とは様子が違っていた。
死んだはずのグロリアに手紙の返事を催促し、アンナと子供達には三人きりにして申し訳ないと書く。
あの頃のモージスは、本当にモージスだったのか。
グロリアと偽って書いた手紙に、の手紙に、返事を書いたのは「誰」なのか。
それがずっと、気になっていた。
グロリアの死を忘れてしまったようなモージスが、何故伯爵に出会ったのか。
死を認識すらしていないなら何故、とずっと気になっていた。
クロスが、ふ、と息を吐く。

「あの前日か、朝だろうと思うが、オレも正確には分からねェな」

はクロスを見上げた。
彼の視線は、遠い過去へと投げられている。

「前の晩に酒場で会ったモージスは、まだ正気だった。……いや、その時は正気だったように見えた」
「どういう、ことですか?」
「あんな状態でもな、時々は、グロリアが死んだことを思い出してたんだろ」

クロスの言葉に、は唇を噛む。
父はさぞ絶望しただろう。
仕事ばかりで碌に帰れぬまま、グロリアを永遠に喪った現実にも。
その死を受け入れることが出来ずにいる自分自身にも。
息子が妻を偽って送ってきた手紙にも。
そしてまた、現実と幻想を往き来する。
恐らく、伯爵はその隙を突いたのだ。
境界を無くし、彼の夢は混ざりあった。
「グロリア」と共に故郷に帰る。
妻が死んだという事実に向き合い、再び彼女に会える幻想を抱いて。
その「お土産」に喜ぶ子供達の顔を思い浮かべて。
そうして喚ばれた母は、父を詰っただろうか。
喚んだ父は、夢を壊された父の悲しみは、どれ程だっただろうか。

「あの時アイツが言ったんだ。自分に何かあったら子供達を頼む、ってな」

クロスの手が、の肩で震えた。

「……オレに言うようなことじゃねェっての」

父が、そんなことを。

――まるで、遺言のように

ぞっとした。
辿り着いてしまった言葉が、あまりにしっくりと胸に落ちてきて。
はっきりと分かる体の震えは、もう自分では止められない。

?」
「まさか、」

続きを言うのが怖い。
肺も気管も震わせて、は、口を開いた。

「死ぬって、知って――」

クロスが息を飲んだ。
現実的な人だった。
「死者にまた会える」なんてことが、何の代償もなしに出来るとは考えなかっただろう。
死後の世界で会える、そんなことを考えでもしたのだろうか。
それでは「お土産」の辻褄が合わない。
二人が一つになると、知っていたのか。
ならばその先は、どうだ。
その末路まで、知っていたのか。

「(父さん)」

以外の人々が、あの日、どのような運命を辿ったのか。
どのような道を辿ってあの日に行き着いたのか、これまでは考えようともしなかった。
モージスの悲しみは、どの国の言語なら表せるのだろう。
父はどんな言葉を使って、幻想を抱く決意をしたのだろう。

「……父さん……」

空が、泣いている。
風と雨の音が妙に心地好い。
あの日は、雪が止んだ静かな一日だった。
父は、母のいない我が家には帰りたくなかったのだ。
愛する妻のいない世界を、生きたくはなかったのだ。
きっと、それだけだった。









死ぬと、分かっていて?

――やっと、会える――

幸せそうに呟いたあの言葉は、子供達に向けたものだと思っていた。
ス、と背筋が凍る。
クロスは、息を飲んで宙を見つめた。
其処にいる筈もない「彼」の姿を探す。
この話は黙っておくつもりだった。
あの日を振り返らせてしまったら、を現世に留める最後の糸を切ることになるから。
彼はいとも簡単に、抵抗なく彼岸へ手を伸ばしてしまう。
指先をほんの少し動かすだけで其処へ触れられるほど、あちら側への距離が近すぎる。
けれど中央庁から戻れば、アジア支部から戻れば、自分達はまた任務に駆り出されるだろう。
こんなにゆったりとした時間を持てるのは、今しかない。
戦いが全て終わるのを待っていたら、その前に弟子は、「彼」の忘れ形見は、神に拐われてしまうかもしれない。
クロスはよくも悪くも人間だった。
過ちを一人で抱え続けるには脆弱な人間だった。
況して当人の前で、神の御前で何事もないように振る舞い続けるには。

「(アイツと、もっと話をするべきだった)」

もし、包み隠さず自分の仕事を話しておけば、何かが変わっていたかもしれない。
賢い男だった、誘惑に負けそうなその時、踏みとどまる枷にしてくれただろう。
もっと、気を払ってやるべきだった。
まさか自分の周りで、まさか彼らが、悲劇の当事者になるなんて思いもしなかった。
否、目を背けていたのかもしれない。
要因は十分すぎるほどにあったのだ。
何かあっても、自分が対処できるから問題はないのだと。
その慢心が事態を招いた。

「(アイツを、壊しておくべきだった)」

慣れていた筈のことだろう。
どうしてあの時、あの瞬間に限って、自分の体は動きを止めてしまったのか。
使命を果たしてさえいれば、が妹を失うことはなかった。
故郷を失うことはなかった。
モージスの最後の願いを、叶えてやれた。

「(過ぎたことだ)」

過ぎたことをあれこれ仮定で思い返したところで、過去が変わる訳ではない。
過去ばかり見ていては先に進める筈がないのだ。
分かっていることじゃないか。
けれど。

「……父さん……」

が宙に目を遣って呟く。
風の音にかき消されそうなその声が、あまりに空虚に聞こえて。
心は、呆気なく握り潰された。

「オレは何も守れなかった」

自分だけは、決して言うまいと決めていたのに。
恨まれていても当然だと、思っていたのに。
触れる体温を冷たく感じる。
掠れた声が喉を擦って、その傷から血を吐くように痛みを落とした。

「――ゆるしてくれ」

風と雨の音が耳に障る。
祈りの代わりに抱いた彼の薄い肩が、微かに震えた。
が顔を上げ、クロスの目をじ、と見つめる。
この目だ。
初めてあの村で会った日から、クロスはこの漆黒に魅入られてしまった。
逸らせない。

「貴方が沢山のものを恵んでくれたから、」

空気の仄かな温もりが、クロスを、外の嵐から守ってくれる。

「俺は、不幸ではなかったと思っています」

の持論は嫌になるくらいよく知っている。
自分のせいだから、クロスに罪はない、と。
そのつもりで彼が微笑んでくれていることは、痛いほどよく分かっている。

「……師匠。泣かないで」

これでは何のために打ち明けたのか、分からないじゃないか。
これでは、自分が救われるために彼を利用しただけじゃないか。
浅ましい自分に幻滅するのに、それを上回る力で、彼の言葉が胸に染み渡る。

「あの日、村から連れ出してくれて、ありがとう」

じわりと滲む目の熱を止めることは、クロスには出来ない。
ひとかけらも取り零さぬように、そっと目を閉じた。

「……泣いてねェよ……」

が優しく微笑んだのが分かった。
風と雨の音が、遠くに聞こえる。
常よりも遥かに高い彼の体温を掌に感じる。

「(嗚呼、右側に座らせればよかった)」

クロスは今更になって後悔した。
きっと彼は仮面の内側の表情など、容易に見透かしていただろうけれど。

「ねぇ、いつ本部に帰ってこられるんですか?」

が首を傾げる。

「長くは掛からんだろう。――忘れるとこだった。オレが戻ったら、お前は元帥になるそうだ」
「……はぁ? 何ですか、いきなり」

突然の声が冷え込んだ。
クロスは苦笑して、心を強く持つ。
モージスの話と、この話が、を守る盾になればいい。
「教団の神」が、「14番目」ともクロス・マリアンとも関わりのない、潔白な存在であること。
その証明を求められ、クロスは今この瞬間、此処にいる。

「コムイはすっかりそのつもりだぞ。上は結構前から考えていたらしいがな」
「それは、その……知ってました、けども……」

が心底嫌そうに顔を顰め、もごもごと口ごもった。
なかなか見られないそんな表情が愛おしくて、黄金色をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
されるがままにが俯いた。

「元帥は楽でいい。縛られないし、発言力も持てる」
「そりゃあ、アンタが特別なんですよ……」
「お前も元帥になれば同じだ。『神』の地位に根拠が出来りゃあ、少しは気も楽になるんじゃねェのか」

が此方を見上げて押し黙る。
自分には勿体ないほどよく出来た弟子だ。
今だって、クロスの言葉を怪訝に思いながら、それが師の望みなのかと目まぐるしく悩んでいるのだろう。
言った言葉は、確かにクロスの本心のひとつだ。
他の者は、彼にとっての「神」の苦しみを正確には理解できまい。
これは、自分だけが彼にしてやれる助言の最たるものだ。
けれど。
強い風が、窓を震わせる。



クロスはそっとの耳元に口を寄せた。
叩きつける雨の音。
雷鳴に隠して、一言囁く。

「お前は、オレの下にいろ」

大きな音と共に一瞬の強風が通りすぎたとき、顔を上げた弟子は晴れやかに笑った。

「はい、師匠」









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