燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
肩を落として
けれどふと笑みを溢す
そんな日常が
今、何よりも尊くて
Night.73 静けさの意味も知らず
雨の匂いに包まれた一日だった。
「なあ、フォー。いいだろ、少しくらい」
「ダメだ。長引くってことは、それだけ体力を削られるんだ――ってバクのひい爺さんが言ってたからな」
「あーあ、何でそんなこと教えちゃうんだろ……」
はぱふん、と枕に頭を置いた。
もうこれ以上の抵抗は無理だと、経験が言っている。
やけに長引く微熱が、昨日と今日の鍛練の時間を奪うのだ。
まだ、変異した「聖典」の感覚を掴み切れていない。
数値が悪すぎるようなときもあれば、数値に異常が無くても酷く痛む日もある。
うんざりと溜め息をつくと、慰めのようにフォーが手を撫でていた。
「……科学班がまた問題起こしてくれないかなぁ」
「やめろよなー、縁起でもない」
うえ、と苦い顔をするフォーを見て少し笑う。
それから、自分でも再びソカロと対峙する様子を想像して思い直した。
「うん、この案は無しで」
外が雨だというのは、シィフが教えてくれた情報だった。
彼も人から聞いたことらしい。
地下空間が主の此処では、外の天気には疎くなるものだ。
雨が降ると、少し気持ちが楽になる。
けれど音が聞こえないと、どうにも雨という実感が湧かない。
扉がノックされて、開かれても、雨の音は此処には届かない。
「、少しいいか」
「どうしたの?」
入ってきたのは、バクとウォンだった。
ウォンは会釈をしてから、気遣わしげにバクを見ていた。
「その、……相談、いや、提案があるんだが」
バクが咳払いをして、を真っ直ぐに見つめる。
「ボクに、薬を作らせてみないか?」
「薬?」
「ああ。『聖典』の症状は一般の病気の薬では対処できないというのは、聞いてるな?」
「うん、一応」
バインダーを持つバクの手に力が籠る。
「その症状に対応出来るような、新しい薬を開発しようと思うんだが……」
つまり、自他共に認める優秀な科学者であるバクが、まったく新しい研究に乗り出す。
イノセンス研究の大家であるコムイもまだ着手していないことだ。
「たまには良いこと思い付くじゃねえか! やってもらえよ、」
フォーが嬉しそうにの手を握った。
わざわざ申し訳ないという思いはあるものの、としては特に断る理由が無い。
頷こうとしたところで、バクの煮え切らない表情が気にかかった。
「殿、これは前例の無い研究です」
ウォンがバクの後ろで口を開いた。
「動物での実験が出来ない。バク様は、貴方を実験台にしてしまうことを気に病んでおいでなのです」
難しい顔で、フォーが唸る。
は首を傾げた。
何が問題なのか、にはいまいち理解ができない。
実験なんて、動物でも何でも、誰かがやらねばならないことだ。
けれど、その為に心を痛めているバクに何と声を掛けたものか。
少し迷って、は尋ねる。
「その薬って、他の人にも役に立つ?」
表情とは裏腹に、力強い返答があった。
「ああ。理論さえ分かれば、きっと応用する道がある」
「なら、いつかアレンとクロウリーにも使えるね」
「……いいのか?」
彼らが醸し出す緊張を解すように、は笑う。
呆気に取られたようなバクとウォンを前に、しっかりと分かるように頷いてみせた。
「面倒かけて、ごめん」
右手を伸ばす。
バクがバインダーを脇に抱えて手を握った。
「頼むな、バク」
「っ、ああ!」
安堵の息をついて、バクとウォンが顔を見合わせる。
気が楽になったのか、すっかりいつもの表情になったバクが言った。
「よかった、実は少し研究を始めていてな……」
「先に聞けよ」
「思い立ったが吉日と言うだろう!」
笑うフォーの言葉に、むきになって言い返すのがまた彼らしい。
ウォンと一緒に双方を宥める。
「それと、コムイ室長がなるべく早く連絡を取りたいとのことで……動けますか?」
「コムイが?」
本部の引っ越しは、の知らぬ間に明日に迫っていたらしい。
驚いている場合ではない。
何せまだ、部屋の整理もしていないのだ。
思いがけず帰還したは、ゲートで警備班員の歓迎を受けて科学班を目指した。
コムイ曰く、誰かに手伝って貰った方が良いとのこと。
バクやフォーも同じ意見で、ついでにもそれには異論がなかった。
自室には物が少ないとはいえ、万全ではないこの体調では些か荷が重いというのは事実だ。
「(まあ、仕方ない、か)」
明日には住み慣れた此処には戻れないというのに、実感の湧かぬまま廊下をただ歩く。
思えばは、準備の時間を与えられて旅立つという経験がほぼ無い。
プレイベルを出る時も同じだった。
村を出た記憶は曖昧で、よく覚えていないのだ。
覚悟していたのならきっと何かしら覚えているだろう。
恐らく、クロスが自分を連れ出したのだと解釈し、は此処まで納得してきた。
修行中の旅先でも同じだ。
借金取りから逃げるために突然その場を離れると決めたり、女性問題で逃げざるを得なくなったり。
あるいは何かの事件を解決して、その苦痛から逃れるために場所を離れたり。
計画的に住み処を移るということは、今まで一度もなかった。
今回は計画された引越ではあるものの、やはりにとっては突然のものになってしまった。
こんなに長く一つの「家」で生活をしたのは、プレイベル以来のことだ。
そしてあの村と同じように、此処にも二度と戻らないのだろう。
「兄貴、いるー?」
いつものように出迎えられながら、科学班の研究室に入る。
驚くほど物が無く、「見慣れた場所」という感覚が急に薄らいだ。
研究ではなく作業で忙しく動く班員の間を縫って、奥で手を振るリーバーの元へ向かう。
「おう、調子はどうだ?」
「まあまあ」
微笑んで答えれば満足そうな首肯が返される。
「よくこれだけ片付いたね」
「いや、まだこれだけあるというか……」
げんなりと答えたリーバーが、しかし部屋を見回し吹っ切れたように力こぶを作った。
「インテリの腕の見せ所だよな」
「何か違う気もするよ」
は苦笑を返して、よろよろと歩くロブに頑張れ、と声を掛ける。
「誰か暇そうな人、……これじゃあ知らないよね。コムイが片付けを手伝ってもらえって言うんだけど」
「そうだなぁ、オレらはちょっと……エクソシストは、どうだ? 誰か手が空いてるんじゃ……」
唸るリーバーの言葉で、は適任者を思い浮かべた。
そうだ。
今此処で手伝いに回っていないなら、きっと鍛練なんかを呑気にやっているに違いない。
「分かった、当たってみる。こっちも頑張って」
「ああ、悪いな」
部屋中を一度見回してから、は研究室を後にした。
はベッドに胡座をかいて、広げた服を畳んだ。
「ユウ、ここら辺は箱に纏めて箪笥に入れて。そのまま運んでもらうから」
「だから何で俺がこんなこと……」
「だって暇なんだろ?」
「チッ」
舌打ちをしながらも、床に座る神田は指示通りに動いてくれる。
更には乱れた服を整えてくれるなど、至れり尽くせりだ。
「(律儀だなぁ)」
あからさまに笑うと流石に拗ねるので、は畳んでいた服で口元を隠し、笑った。
手を止めて、少し息をつく。
予想通り、鍛練場から食堂へ向かうその姿を呼び止めたのは昼も近い頃だった。
食堂での最後の昼食を食べて、彼は文句を言いながらも部屋へついてきてくれた。
それからは舌打ちをしつつ至って精力的に働いてくれるので、は思っていたよりずっと楽をしている。
「オイ」
顔を上げれば、不機嫌そうな目が此方を睨み付けていた。
「サボんなよ」
「はいはい」
返事が不服だったらしく、神田がまた舌打ちをする。
それを横目に、ふと扉へ意識を向けた。
よく知る気配が、意思を持って近付いている。
そう思う間にノックの音がして、此方の返答を待たずに扉が開けられた。
「よっす、。おひさー」
隙間から覗くのは、ラビの顔だ。
彼の体で隠れて見えないが、その向こうにはブックマンの気配もある。
「おう。何か用?」
「ちょーっと、着いてきて欲しいとこがあって」
は首を傾げ、神田と少しだけ目を見交わした。
「それって、結構かかる?」
ラビがへらりと笑う。
「んー。かも?」
これは、此処で聞いても答えるつもりは無さそうだ。
は頷いて、ベッドから下りた。
「分かった。ユウ、あと頼むな」
「ああ。……は!?」
「よろしくー」
「頼んだぜユウちゃん!」
てめぇら! という怒声に笑いながら部屋を出ると、やはりそこにはブックマンがいた。
「神田には悪いことをしたかのう」
心にも無さそうなその呟きにまた笑い、少し落ち着いたところで、はラビに促した。
「で、何?」
向かうのは、どうやら方舟の部屋のようだ。
の疑問に答えたのは、ブックマンだった。
「ワシらは新本部に用があってな。お主も、着いてこい。向こうでクロス元帥が待っておる」
「え? 師匠って、まだ中央庁じゃなかったっけ……」
朝一番で会った警備班員が再び敬礼の姿勢をとった。
笑って応え、方舟に入る。
が自分の意思で方舟を使うのは、これが四度目だ。
アジア支部との行き来しかしていないので、他の道に進まれると少し落ち着かない。
「こっちさー」
立ち止まっていたを、ラビが促す。
敵の舟ながら美しい白い壁や建物を眺めて少し歩くと、16と書かれた扉の前に出た。
開通したばかりだというその扉の向こうは、まだ薄暗かった。
「よーっす、オツカレ」
「なんじゃい冷えるのぉ、ここ」
二人に続いて階段を下りる。
天井の高い、ホールのような場所だ。
空気のあちらこちらに違和感を覚える。
アレンとジョニーが、唖然として此方を見ていた。
隅の方に佇む青年にはどこか見覚えがある。
「(あいつは……)」
そうだ、あの会議で見た、アレンの監視役だ。
辺りに注意を向ければ、慣れない気配が随所に紛れている。
唖然として此方を見ていたジョニーが首を傾げた。
「出発は明日だよ、ラビ」
「兄さんも……え、どうしたんですか?」
戸惑う弟弟子の声に手を挙げて応えると、彼は小走りでやって来た。
自然すぎる。
彼らは中央庁に包囲されていることには気付いていないのだろう。
「俺は……俺は、師匠がいるって二人に聞いて」
「師匠? そんな馬鹿な」
怪訝そうな顔で、アレンがラビを振り返る。
「寝ボケてんですか?」
あんまりな言いように、は思わず眉を下げて笑った。
ラビも苦笑する。
「ンなワケあるかーい」
「ちょいと本業のほうでな」
ブックマンが煙草を吹かしながら答えた。
「ほんぎょう?」
その時、聞こえた靴音。
「ご苦労でした、ハワード監査官」
やっぱり、来た。
は、先程まで耳にしていたお手本のような舌打ちを、すぐにでも実行したくなった。
「キミも任務ご苦労、アレン・ウォーカーくん」
顔を隠した役人を数人引き連れて、ルベリエがゆったりと歩いてくる。
「来たまえ。今からキミには私の指示に従ってもらいますので。よろしく」
ブックマン師弟は何も言わない。
まさに本業、今のラビは「Jr.」なのだろう。
はアレンの前に一歩進み出た。
「長官、何事ですか」
「やあ、。お元気そうで何より。なに、キミ達へのほんの贈り物ですよ」
穏やかではないのだ。
この男、常備しているはずの手製のケーキも持っていない。
形だけでも話し合おうという姿勢さえ排して来るとは。
尤も、ケーキという緩衝材があろうと無かろうと、彼が楽しげに目を細めたときには碌なことはない。
「お師匠様に聞きたかったことが、あるでしょう?」
どう好意的にとっても胡散臭い。
けれど、その言葉には少なからず心当たりがあるように思える。
は、アレンと顔を見合わせた。
BACK NEXT MAIN
151114