燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









いいのかな
本当にいいのかな、と
心が、震えている



Night.71 午前五時の大騒動









修練場で、は膝に両手をついた。

「フォー、ちょっと……ごめん、休ませて……」
「おいおい、しっかりしろよー」

ぶつぶつ言いながらも、大丈夫か? と声を掛けてくれるあたり、やはり彼女は甘い。
けれどその甘さに今は感謝しながら、収まらない呼吸を繰り返す。
喉の奥が痛くなるほど息が切れるなんて、いつぶりだろう。
アクマと戦っている時だってこんなに息を乱すことはない。
いつ次の手が来るか分からないからと、その為に鍛えてきた筈なのに。
特に疲れは感じていないが、足も震えている。
これでは手をついていても意味が無い。
床に膝をつくと、少し楽になったように思えた。

「だ、大丈夫ですか、さん」

どくどくと五月蝿い鼓動の隙間に蝋花の声がして、背中を擦る手の温もりを感じた。
顔を上げると、何故か彼女は目の前で水を差し出している。

「(あ、間違えた)」

苦しい胸元を握りながら再度気配を確かめ、背中の手がシィフのものだと気付いた。
まずいまずい、と一番の反省をする。

「(集中しろ、集中しろ)」

舌打ちもしたい気分だが、今実行したら流石に蝋花に悪いだろう。
は結局、苦笑してコップを受け取った。

「いっやあ……ウォーカーの時もとんでもないことやってんなって思ったけどさ」

李佳が一緒になって座り込む。

「すごいな、
「何が、だよ。全然駄目だ」
「そんなことないですよ! フォーさんが押されてた時もありましたもん」
「いや。あれは……手、抜いてたろ」

フォーを見上げると、彼女は肩を竦めてそっぽを向いた。

「今日は軽くやるって約束だっただろうが。お前がいきなり本気で来ただけだ」
「だけど……」

やっと大きく空気を吸う。
渡された水を少し飲んだところで、背中の手が離れた。

「そうだね、最初からフォーさんは約束通りにやろうとしてたみたいだし」

訓練だよ、
シィフの念押しに、反論も出来ず渋々頷く。
フォーが体を伸ばしながら言った。

「今はこのまま休憩。いいな?」
「……分かった」

溜め息と共に言葉を返す。
完全に座り込んで、服を扇いで風を起こした。

「思ったより、動けないもんなんだね」
「あたしとしては、思ったより動けてるように見えたけどな」

そうかな。
そうだよ。
フォーは笑いながらそう言う。
けれど、自分の体がまるで自分のものでは無いように動けなかったのは事実だ。
ここで更に体調を崩したらと思うと、ゾッとする。
シィフの言うこともやはり正しいのだ。
キンと甲高い音が聞こえる。
耳鳴りだろうか。

「(いいや。そんなには、疲れてないはずだ)」

それともまさか、自覚していない疲労とか。
うんざりと天井を仰いで、音の出所に気付いた。
此方に近付いてくる金色の塊。
なんだか、涙が尾を引いている気がする。
は手を伸ばして、呼んだ。

「ティム?」

ティムキャンピーが、突撃するように胸元に飛び込む。
慌てて手で捕まえると、ぐりぐり顔を押し付けてゴーレムは泣いていた。

「んあ? あれ、こいつ……」

フォーが目を眇める。
は四人に言った。

「師匠がアレンに渡したゴーレムだよ。ティムキャンピーっていうんだけど……」

何故か、可愛らしいツインテールが引っ付いている。
記憶と照らし合わせながら、はティムキャンピーを持ち上げた。

「どうしたんだお前、イメチェン……?」

ティムキャンピーが、必死に体を振っている。
どうやら違うらしい。
ああそう、と頷いて、より重要な事を尋ねた。

「ティム、アレンも一緒に来たんだろう?」
「え!? ウォーカーさんが!?」

蝋花が飛び上がって叫ぶ。
ゴーレムはまたも体をぶんぶん振って否定した。

「違うの?」
「な、なんだぁ……」

ティムキャンピーが宙に向かって大きな口を開ける。
見せたい映像があるらしい。
五人は、流れる映像を一通り見て、言葉も交わさずに立ち上がった。
これは、手に負えない。
先程までのやり取りもすっかり忘れて、はフォーと全速力で走る。

「バクー!!」

緊急事態だ。









コムイ・リーが、かつて開発したゾンビウィルス「コムビタンD」。
元は滋養強壮剤の筈が、余りに効果がありすぎて、狂人のように人が変わってしまう。
しかも噛みつかれることで効果が感染するという厄介すぎる代物である。
その為、随分前に科学班連中の手でお蔵入りになっていた。
それがこの引越作業の最中、何らかの理由でばらまかれてしまったらしい。
そして本部中の人間が、あろうことか三人の元帥達までもが感染したという。
最初の感染者クロウリーから抗体を作ろうとしたコムリンEXも壊された。
そこで、アレンがティムキャンピーに後を託したのだ。

――アジア支部に行けば、兄さんとバクさんがいる――

「流石ウォーカーくん! よく分かっていらっしゃる!」

という感極まったウォンの言葉。
そして不安そうな見習い三人組とアジア科学班に見送られ、バクとは方舟の中を歩いていた。

「……何故、オレ様がこんな目に……」

オレが行こうか?
本部科学班の経験があるジジ・ルゥジュンの、気の毒そうな申し出を断ったのが今更悔やまれる。
が隣で苦笑した。
アジア風のズボンから団服に穿き替えた彼は、肩を伸ばしながら歩いている。

「でもまあ、良かったよ。バクが引越の手伝いに行っちゃう前にティムが来てくれてさ」

いい子だな、ティムキャンピー。
彼は肩に乗るゴーレムをくすぐるように撫でた。
まるでペットのような扱いだが、ゴーレム本人は嬉しそうにしている。
目的の、本部へ繋がる扉はすぐ其処だ。
バクは足を止めた。

「いいか、。ボクらの目的は、コムリンEXとやらの持つデータを奪取することだ」

話し合いの結果、本部の構造に詳しいバクが現地へ向かうことになった。
持ち帰ったデータはジジを始めとするアジア科学班が早急に解析し、抗体を作る。
はバクの護衛だ。
元帥があの薬の餌食になっている以上、並の人間では返り討ちに遇うだけだ。
もしもの時はフォーを喚び出すことも考えて、バクは精霊石つきの帽子をきちんと被っている。

「オーケー。一時間くらいやってみて無理だったら……効果が切れるまで放っておこう」
「そうだな。そうしよう」
「帽子、落とすなよ」

の先導で、方舟の扉を開ける。
恐る恐る向こうを覗いた二人だったが、運良く、方舟を接続した部屋には誰も居なかった。

「取り敢えずセーフ……」
「EXの頭が最後にあった場所は……どこだ?」
「いや、俺もあの情報だけじゃ、ちょっと……」

落ち込むゴーレムを慰めながら、「福音」を構えてが溜め息をつく。

「とにかく、探そう、バク。此処にいるだけじゃ意味が無い」
「そうだな……そうか……」

元気出せよ、とが笑った。

「頼りないかもしれないけど、俺も一緒だからさ」

一拍遅れて声を掛けようとしたバクだったが、は既に扉に手を掛けていた。
向こうからは明らかに怪しい唸り声が聞こえる。
空気が緊張を孕んだ。

「開けるよ。良いって言うまで隠れてて」

バクが隠れたか、隠れないかの瀬戸際で、が扉を開け放った。
雪崩れ込む団員達。
一歩下がって相手を把握したが、即座に目の前に回し蹴りを食らわせた。
数人をまとめて蹴り飛ばし、向かってくる団員を、思った以上に容赦なく殴り付けている。

「(……大丈夫なのか?)」

物陰に隠れて見守るバクとしては、ではなく団員達の安否が気になるところだ。
それにしても、やはり彼らの様子は明らかにおかしい。
目は血走って、涎がだらだらと零れている。
そして、サポート派の団員でさえ、身体能力が異常に上がっているようだ。
体と脳の制御機能を馬鹿にしてしまうらしい、コムビタンD。
流石、と言うべきか。
才能の無駄遣いと言うべきか。

「バク! 来て!」
「っ、ああ!」

気付けば、第一団は全員が伸されていた。
駆け寄ると、彼がぐいとバクの腕を掴んで走り出す。
痛いと訴えたいが、廊下の向こうから追い掛けてくる集団が見えた。
慌てて視線を進行方向に戻し、必死に走る。

「バクは、EXを探して。俺、そんなの見てる余裕無いから」
「わ、分かった!」

風を切るような速度だが、バクは必死に目を凝らした。
そう簡単に見付かる訳はないと分かっていても、急がないと自分達が危うい。
腕を引かれるままに走っていたバクだが、突然の背にぶつかった。

「ぶっ! 何だいきなり!」
「隠れて」

柱と柱の間に、ぐいと押し込まれる。
慌てて顔を覗かせれば、そこには。

「リナリーさん!?」
「出てくんな、馬鹿バク!」

フォーの口癖を鮮やかに使いこなして、が怒鳴る。
そうこうする間に、リナリーがに襲い掛かった。

「(あの愛らしいリナリーさんが……!)」

そうショックを受けるのも一瞬のことだ。
攻撃をいなしたが、逆に彼女を壁に押し付けた。
首に腕を当てて、噛まれないよう最低限の距離をとっている。

「そこの扉、開けて!」
「し、しかし、中に誰かいたら……っ」
「大丈夫だから!」

断言する彼を信じて、そっと扉を押し開ける。
中から飛び出す人影。

「ひぃっ!」

ドン、と重く響く銃声。
振り返れば、が後ろ手に「福音」の引鉄を引いていた。
飛び出してきた探索部隊は、拘束弾に捕らえられて藻掻いている。
いくら何でも、この反射速度は予測の上だったとしか思えない。
渋るバクを説得するために、わざとあのように言ったのは間違いないだろう。
もう一度を振り返って、バクは今度こそ目を丸くした。
開いた扉から室内に向かって、がリナリーを投げ飛ばす。
彼女が着地する前に放たれる拘束弾。
唖然とするバクを部屋に引きずり込んで、が扉を閉めた。

「おっ、お前リナリーさんになんてことを!」
「仕方ないだろ……リナリー、ごめんな」

小さく謝りながらもとどめとばかりに手刀を落とし、が息をつく。
バクもも、呼吸が浅い。

「大丈夫か」
「うん、一応……怖いな、コムビタンD」
「全くだ。なあ、思ったんだが」

が顔を上げる。
バクも、ただ引きずられて走っていた訳ではない。
あの映像について、思うところがあった。

「EXが最後に転がっていたのは、食堂ではないか?」
「見てみよう。ティム、もう一度流して」

ティムキャンピーが、また口を開ける。
やはり、そうだ。
バクは確信を持って頷いた。

「予定は少し変わるが、目的地を食堂として、そこに無ければ諦めて戻ろう」

鍛えているわけではない自分の体力と、まだ病み上がりですらない彼の体力。
戦場と同じくらい殺伐としたこの過酷な状況に、長居するのは得策ではない。
しかも、こんなことのために。

「うん。……それも仕方ないか」

が呟く。
気を失っているリナリーの髪を軽く梳いて、立ち上がる。
扉の向こうからは相変わらず唸り声。
無事に抗体を持ち帰れたとして、再び此方に戻ってくる勇気はない。
方舟の部屋は無事だったのだ。
いっそ支部の科学班をあの部屋に呼んで、全て此方で終わらせる方が良いのではないか。
例えば、ワクチンをスプリンクラーで撒き散らすとか。
提案はにも即座に受け入れられた。
電話を探す時間も惜しい。
ティムキャンピーに伝言を託す。
通気孔か何かを通って無事にあの部屋へ辿り着いて欲しいものだ。
そして自分達が食堂に向かうためには、この扉を開けねばならない。
バクはまた物陰に身を潜めた。

「じゃあ、開けるよ」
「ああ。頼んだぞ、ティムキャンピー」

ゴーレムが頷いた。
ごくり、と唾を飲む。
ティムキャンピーが通気孔へ飛び込み、が扉を開け放った。
蹴り、投げ飛ばされる人々。
拘束弾で粗方を縛り付けたところで、またバクはに手を引かれた。
幸いと言うべきか、先程まで身を潜めていたこの部屋は、食堂から然して遠くない。

「あっ!」

駆け込んで、バクはすぐに目的の物を発見した。
床に転がるロボットの体。
離れたところには、頭。
天は我らに味方した! と感極まって手を伸ばす。

、見つけたぞ――ッ!?」

しかし、気付けば腹の辺りを強い力で抱えられ、コムリンEXの残骸から遠ざけられていた。
抗議の声を上げるまでもない。原因は明白だ。

「バクが、軽くて、良かった……」

が目の前の男を見上げながら力なく呟く。
ボクも初めてそう思った、なんて返す余裕はまるでない。

「ああーん? いーいところにいるじゃねぇか、
「良くねぇよ……」

が吐き捨てる。

「あいっかわらず生意気だなぁ、テメェは。クロスの野郎を思い出すぜェ」
「やめてください、ほんとに」

ウィルスに感染している筈なのにまともに話が出来ている。
全く規格外の男だ。
元帥ウィンターズ・ソカロが、イノセンスを手に舌なめずりをした。









   BACK      NEXT      MAIN



150912