燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









泡沫の安らぎが、欲しかった
偽りでも構わなかった
たとえ、貴方が本当は
どこにもいないのだとしても



Night.70 三日目の神子









支部員達の声が、生活の音が、そこかしこから聞こえる。

「なんか、やっとアジアに来た感じがする」

蝋花が首を傾げると、彼ははにかんで答えた。

「今までずっと静かなとこにいたから」
「確かに、病室なら本部もこっちもそう変わりはないだろうなぁ」

そうなんだよ、と笑うが、今日は隣を歩いている。
随分回復してきた彼に、フォーが食堂へ行くことを提案したのだ。
珍しく五人の意見が合致し、リハビリがてらこうして廊下を歩いている。
バクと言い合って出ていってしまった時は、気圧されていて気付かなかった。
改めて見ると、彼は思っていたより背が高い。
バクと同じくらいの背丈かと思ったが、見上げるのにもう少し角度が必要だった。
背筋もすっとしていて、五人の中で影の形もやたらと美しい。

「オレ、丼物食べたいなー」
「ボクは定食かな。は?」
「うーん、焼き林檎かなぁ」
「甘いもの、好きなんですか?」

意外に感じて、蝋花は尋ねた。
は軽く首を傾げる。

「嫌いじゃないかな。っていうか、林檎が好きなんだよね。よく食べるし」
「……それって、主食になんのか?」

絶句を挟んで、李佳が呟く。
事も無げにが頷き、シィフがやれやれと首を振った。
蝋花の反対隣で、フォーが彼を見上げる。

「にしても、たまには違う物も食べた方がいいんじゃねぇの? 栄養的にさ」
「いや、林檎だって最近全然食べてないよ。これでも久々なんだ」

アジア支部によく立ち寄るというのは本当のようだ。
バクでもたまに迷うこの支部で、が道に迷う気配はない。

「蝋花は何にする?」
「うーん、あたしは……」

シィフの問いに、メニューを頭に浮かべて唸る。
きっと今日も、と話して、合間に科学班に戻る、ハードな一日だ。
たくさん食べて力をつけておいた方がいいかもしれない。
でも体重も気になる。

「定食……ううん、うーん……」

もごもごと悩む蝋花を見て、がくすりと笑った。
その直後のことだ。
淀みなく歩を進めていたの足が、止まった。

「どうした?」

李佳が尋ねるが、答えが無い。
シィフがこちらを振り返った。
進む先に再び目を戻し、呟く。

「……泣き声が、聞こえる」
「え?」

頷いたが、固い表情のまま慎重な足取りで廊下の先を覗いた。
フォーの封印の扉、その前に蹲る一人の探索部隊。

「ごめんなさい……ごめん……ごめん……っ、ああ……っ」

探索部隊の腕には、血に汚れた包帯が巻き付いている。
けれどそれよりも、誰もいない空間に謝り続ける姿が痛々しくて蝋花は思わず口を覆った。
誰かが唾を飲む。
が、一歩、後退った。
李佳が困ったように彼を見る。
それには気付かないようで、黄金は息を乱して、更に後退った。
顔色は真っ青で、様子がおかしい。
何より、聞いていた話と違う。
三人は戸惑ってフォーを見た。
フォーが目を伏せる。
くるりと踵を返して、彼の手を握った。
浅い呼吸のまま、が視線を移す。
その視線の動きにつられて蝋花もフォーを見た。
彼女は、笑って言った。

「部屋に戻ろう、
「……フォーさん?」

蝋花は怪訝に思って呼び掛けた。
の答えは無い。
彼は目を瞠って、ただフォーを見つめている。

「まだ、出てくるには早かったよな。あたしが焦っちまって、ごめんな」

戻ろうぜ。
フォーが、そう言って彼の手を引いた。
黄金は、されるがまま、もと来た道によろりと踏み出す。
蝋花は李佳とシィフを見た。
二人とも困惑した顔で、しかし李佳が小声で言った。

「行こうぜ」
「……そうだね」

シィフが一度振り返り、フォーの後を追っていく。
蝋花は小走りでの隣に戻った。
支部の喧騒の中、嗚咽は遠く、紛れていく。

「そういや、ジジが本部に戻るらしいな」
「本部の構成を変えるらしいっすよ。なんか、各地から人を集めるっつって」
「ボクたちも見習いからやっと、正式な班員になれるらしいです」
「へえ、良かったな」

何事もなかったように三人が話し続けていても、蝋花は隣が気になって落ち着かなかった。
俯いた彼の顔は、蒼白だ。
視線は宙を漂っているのに、唇は引き結ばれている。
本部で人が亡くなると彼は弔いに祈りを捧げてくれるのだと、蝋花は先輩に聞いた。
なるほど、彼ならやってくれるかもしれない。
今も、話を聞いたその場でさえ、確かにそう思えた。
けれど、そんなことを続けて、彼の心は傷付かないのだろうか。
誰も、案じたりしない。
は「神様」だから、弔ってくれるのだと。
祈ってくれるのだと、そう、盲目に信じている。

「(そんなこと、ほんとにあるかな……?)」

心も揺らがず、悲しみも感じず、負担にも思わないなら、かえってその祈りを疑ってしまう。
彼は自分から弔いを捧げに行くという。
それは、少なからずその死に思うところがあるからではないか。
悲しみを伴って、もし、死を心から悼んでいるのなら、それ故に弔いをしているのなら。
どれほどの悲しみが、彼を縛っているのだろう。
が足を止めたのは、自分を守る本能なのだ。
だからフォーの判断は、きっと正しかった。
蝋花は震える背に、そっと手を当てた。
彼の漆黒が、焦点を結ぶ。
何度も喉が動いて、その末に、ちぐはぐな表情は答えを見付けたようだった。

「……違う」

彼が呟き、足を止めた。
フォーが不安げな顔で振り返る。

、お前、」

深い漆黒が、静かにフォーの言葉を刺した。
下りる沈黙。
ゆっくりとした瞬き。
濡れて煌めく視線は、するりと彼女から外された。

「――ごめん、フォー」

彼の背に、フォーの手が伸ばされる。
けれど、黄金はだんだんと足を早めて、殆ど走るように遠ざかる。

「くそ……っ」

フォーが顔を歪めてその背を追った。
残された三人は、顔を見合わせたりはしなかった。
膨れ上がった悲しみに彼が潰されてしまうのが怖くて、蝋花は、廊下を走った。
きっと、李佳も、シィフも、それぞれに思うところがあるのだ。
だから、何でもない距離なのに、息を切らせて走っているのだ。
蝋花は、封印の扉の前に立ち尽くすフォーを見付けた。
彼女の向こうで、佇む彼の存在に気付いたのだろう、探索部隊の男が顔を上げた。

「……、様……?」

泣き濡れた探索部隊の顔は、もう目には入らなかった。
抗えない空気の圧力が広がる。
蝋花は自然と、黄金を見ていた。

様……!」

しゃくりあげたその声で、探索部隊が彼を呼ぶ。
が、ゆっくりと踏み出した。
蝋花の位置からは背中しか見えないのに。
どうしてだろう、彼が確かに「微笑んだ」のだと分かった。
探索部隊が伸ばした手を取り、が膝をつく。
縋り付く体を受け止めて、彼は一言、言った。

「赦すよ」

シィフが、息を呑んだ。
申し訳ない、ごめんなさい。
男の嘆きが、石の壁にぶつかって響く。
黄金はただ頷いて、その背を撫でた。

「大丈夫、赦すよ」

繰り返された言葉が、胸に染み渡る。
心のどこかで、蝋花は分かっている。
は本物の神ではないのだと。
それでも、探索部隊の男が今求めているのは、この人だと。
教団の、黒の教団だけの「神様」だと。

「(だからって……)」

応える義務は、無いのだ。
それなのに、どうして彼は此処へ駆け戻ってしまったのだろう。
思わず足を止めてしまうほど苦しいなら、逃げ出しても良かったのに。
男の悲しみは癒えないかもしれないが、が嘆きを重ねることも無かったのに。
辛い道を歩くことなんて、誰も望んでいないのに。
否、それが辛いことだなんて、多くの人が思ってすらいないとしても。
少なくとも、蝋花は。
少なくとも、蝋花達は。
神様を望んでなどいなかった。

「(……神様じゃなくても、よかった)」

たとえ神でなくとも、此処にいてくれれば、それでよかったのに。

「大丈夫? 蝋花……」

心ここにあらずといった声音でそう囁いたシィフの表情が、涙で見えない。
眼鏡を外して袖で涙を拭い、もう一度、眼鏡をかけて黄金を見た。
彼は、探索部隊を促して立ち上がらせた。

「肘、怪我してるね」
「……こんなの……仲間は、死んだ、のに……」

泣きながら首を振る男に、が微笑みかけた。

「でも、貴方だって、痛いだろう?」

男が涙を拭いもせず、を見つめる。
頷く黄金に、嗚咽が返された。

「……はい……っ」

――ありがとう、ございます

そう言った男はまだ力なく、けれど確かな足取りで医務室の方へと歩いていった。
黄金は、その背を最後まで見送ることなく、かくりと膝をついた。

……!?」

真っ先に我に返った李佳が駆け寄り、背に手を当てる。
浅く速い呼吸の音。

「……フォー、人間は、」

大丈夫か、という李佳の声を遮って、彼が言った。

「失ったものが恋しくて、悲しくて……だから、無力な自分を責めて欲しくて、神に縋る」

――これは、かつて彼が感じたことなのだと、分かった。
これはかつての、彼の言葉なのだと、無意識にそう感じた。

「だけどそんなものは、手の届くところには無いんだ」

振り絞るように吐き出された声が、そのまま蝋花の胸を締め付ける。

「俺は、此処にいるから。だから、見放された手を、とってあげたい」
「(……この人は、放っておけないんだ)」

は、望まれて「そう」振る舞っているのではない。
ただただ、自分と同じ気持ちを抱えた人を放っておけなくて。
ただそれだけのために、動いているのかもしれない。
それが、「神様」に見えただけで。

「同じ思いは、させたくない。俺は、人間だから……その辛さを、知っているから」

神様には、そんなこと分かりやしないだろ。
笑いながら呟かれた言葉が、突き刺さる。
そんな悲しいことを言わないで、と。
言いたいけれど、彼の言葉はある意味正しいように思えた。

「神様だろうが、ただのだろうが。俺はきっと、同じことをするよ」

正しくて、苦しかった。
悲しみを幾重にも纏って、自分は救いそのものに絶望して立つなんて。
涙がぼろぼろと溢れた。

「どうして、さん……」

肩を抱いてくれるシィフの手が、震えている。
が、俯けていた顔を上げた。

「どうして……『赦す』って、言うんですか……」

責められたいという彼らの願いを、知っていて、なお。
が掛ける言葉は、その「理由」にそぐわない。
彼の在り方に何事かの異を唱えたくて、蝋花の口から転がった疑問に、が微笑んだ。

「一番罪深い人間は、他の誰も、責められないからね」

どうして。
もう一度、言葉が零れる。
その言葉は、拾われなかった。
優しく首を傾げた黄金が、ふ、と息をつく。

「でも、少し疲れたから……部屋、戻っていいかな……?」

これまでずっと蝋花に背を向けて立っていたフォーが、一拍置いて、頷いた。
頷いて、彼女はに歩み寄った。

「ああ」

立てるか、と問われた彼は李佳を見上げる。

「肩、貸してくれる?」
「お、おう」









とフォーを病室に戻し、結局またいつも通り、三人で食堂に向かう。
それまでずっと、蝋花は何も言えなかった。

「元気出せよ、蝋花ー」
「だって……」

李佳が背中を軽く叩いてくれる。

「まあ、オレも……あいつ、本気で言ってんのかなー、とは思ったけどさ」
「……ああじゃないと、駄目になっちゃうのかもしれないね」

シィフがぽつりと言った。

「どういう意味だ?」
「ああいう心持ちじゃないと、逆にプレッシャーで潰れちゃうのかもしれないよ」

鼻を啜りながら二人を見上げる。

「でも、疲れたって、言ってたよ」

それだけ、重いものってことじゃないの。
問おうとしたけれど、それはも承知のことだと思い直した。
自然と、後に続く言葉が自問に変わる。

「疲れても、それでも、放っておけないのかな……」
「かもな。けどそんな時は、」

李佳がにこりと笑った。

「お墨付きの、オレらの出番じゃん?」
「そうだね。……疲れたって、言える場所の一つになれれば、いいよね」

シィフが優しく笑った。

「(あ、……そっか)」

疲れていいのかと、それすら戸惑っていた彼が。
何より彼自身が、肩を貸してくれと、疲れたのだと言ったのだから。
蝋花は大きく息を吸い込んで、ぐ、と胸を張った。

さんは、焼き林檎だったよね!」

李佳が笑う。

「ああ。でも、絶対主食じゃねぇけどなぁ」
「……というか、戻ったときには寝ちゃってそうだよね」

シィフの言葉に、蝋花は李佳と声を揃えた。

「確かに……」









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