燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









かき消えた地面
追い縋るこの身は
鎖に繋がれたまま
黄昏の中、一人残されて



Night.69 宝玉の沈黙









「何でだよ、もういいだろ」

おはよう、そう声を掛ける前に聞こえてきたのは、の不満そうな声だった。
シィフは李佳と顔を見合わせ、先に動いた蝋花に倣い、そっと中を覗く。

「だーかーらー! 無理に決まってんだろ、まだ立ち上がれもしないのに!」

フォーが、その片手をベッドに叩きつけた。
ぱふんっ、と間抜けな音がする。

「お前らも何とか言ってやれ!」
「な、何があったんですか?」

蝋花が目を丸くして尋ねた。
びっと音が立ちそうなほど勢いよく、フォーがを指差す。

「昨日の今日で、手合わせとか言う単語が出てくるのは絶対におかしい!」
「あ、それはおかしい……」

思わず頷いた蝋花が、むっとした顔のに睨まれて目を逸らした。

「ああ、あー、んー……む、難しい問題ですねぇ……」
「難しくないよ。戦闘になったら、どうせ、動くことになるんだから」
「難しくないだろ。今はとにかく休めって、バクもウォンも言ってんだから」

真逆の言い分に、あちゃあ、と李佳が唸る。
蝋花と顔を見合わせ、肩を竦めた。

「まあ、の言うことにも一理あるよな」

そう言った李佳が、今度はフォーから睨まれた。
苦笑して、彼は続ける。

「どんな状況でも動けるようにしたい、って言いたいんだろ?」

が枕に凭れて、満足げに頷く。
その顔は少し疲れているようにも見えた。
シィフ達が来る前から言い合いをしていたならば、二人は一体いつ起きたのだろう。
今だって、起こしに来たつもりだったのだ。
体力も戻っていない中で長々と口論をしていれば、それは当然疲れもするだろう。

「でも、だからって無理するのは……どうかなぁ……」

蝋花の反論に、フォーが厳めしく頷いた。

「ほら見ろ。やめだやめだ、あたしは付き合わないぞ」
「李佳の言ったこと、聞こえなかったのか、フォー」

またも言い合いを始める二人に、難しい顔をして見守る同僚二人。
シィフはふと、眉を顰めた。

「(何でそんなに、戦おうとするんだろう)」

自分達は、科学者だ。
自分の知的好奇心を満たすことが楽しくて、研究したいと思い続けている。
だから夜通しの研究も、確かに辛いが、苦ではない。
では、はどうだろう。
彼はエクソシストだ。
根っからの戦闘狂だとでもいうのか。
アレンが言うように、アクマに魅入られてしまったとでもいうのか。

――挨拶はいい! 本部と通信を繋げ!――

アレン達が方舟を使って江戸から帰還した日のことを、シィフはまだ覚えている。
そう、「神様」を初めて見たのは、あの時だ。
アレンを押し退けて現れた赤い髪の男が、確かに彼を抱えていた。
もし、あの時からずっとこんな調子だとして。
もし、それでも話の通りレベル4を迎え撃ったのだとしたら。
正真正銘、根っからの「エクソシスト」で、根っからの「神様」なのだろう。

「(だけど、フォーさんはそれじゃあ嫌、なんだろうな)」

フォーとバク、ウォンあたりは、を見る目が他の支部員とは少し違う気がする。
そして、自分達もまた、周りとは違う目で彼を見ているように思えた。
シィフ達にとって、はつい先日出会ったばかりのただの仲間だ。
同僚のような、こんな環境で見つけた友人のような、不思議な存在。

「ねぇシィフ、どう思う?」

教団、エクソシスト。
しがらみを一度頭の隅の方に追いやって、友人のことを思うように考えるとしたら。
シィフは顔を上げた。

「……これは提案なんだけど、

先を促すように、が険しい目を向ける。
体の芯が凍るようで、それが頭の中をクリアにした。

「それ以上悪くしない訓練をする……そう考えるのはどうかな」
「……どういうこと?」

彼の目に戸惑いが生まれた今がチャンスだと、シィフは畳み掛ける。

「確かに、今動けることも大事だ。だけどまた倒れでもしたら、いざ、も何も無いと思うよ」

が目を細めて視線を逸らした。
李佳と蝋花が唾を飲む音が聞こえる。
自分はというと、口の中がカラカラで、そんな余裕は全く無い。
フォーが腕を組んで、脇の椅子にどすんと腰を下ろす。
彼の小さな声がそれに被さるように聞こえた。

「どんな体調でも、動けなきゃ意味がない」
「訓練で全力を使って本番で動けないのも、意味がないよね」

漆黒がまた、シィフを貫く。
けれど、その力はすぐに弱まって溜め息と共に瞼に隠された。

「そこを突かれると、……痛いな……」

腕を掴まれる感覚。
蝋花が表情を明るくして、此方を見上げたのが分かった。
肩を掴まれる感覚。
李佳が体の陰でガッツポーズをしていることは予想できる。

「分かったら、手合わせは無しだな」

勝ち誇った顔のフォーを、が睨んだ。

「フォーに、言われると、ちょっと……頭にくるんだ」
「何でだよ!」

あははっ!
耐えきれなかった蝋花と李佳の笑い声。
新たな言い合いを聞きながら、シィフはほ、と息を吐いた。
なんて緊張する朝だろう。

「(先輩達の言うことも、少し、分かる)」

正直、昨日まではただの知り合いに過ぎなかった。
けれど、交わす言葉に込められた思いが。
彼を突き動かす思いが。
バクとの口論を聞いていてもなお、シィフに「カミサマ」という言葉を意識させた。
一途に貫いてきた行動が、彼にとっては「家族」を守りたいだけのものであっても。
守られる「家族」にしてみれば、自分達だけを守ってくれる至上の存在になる。
稀にやってくる支部でもこうだ。
彼が拠点とする本部の様子は、推して知るべしというものである。

「(だから、此処に来させたんだ)」

の希望で、アジアに来たわけでは無いだろう。
彼は呼ばれれば今すぐにでも戦場へ出る気だ。
静養としても、本部の方が設備面ではより良いだろうに。
「神様」としての彼を、休ませたい。
わざわざ此処まで連れてきたことに理由があるなら、きっとこの一点なのだ。
初対面の自分達が傍に固められているのも、恐らくそのためだ。

「(ちょっとでも、意味があったなら、いいけど……)」

彼から滲み出る「神様」を、いつまで自分達が引き剥がしておけるのか。
引き剥がすことが出来るのか。
シィフには、途方もなく難しいように思えた。
フォーとの軽口が、突然開いた扉に遮られる。

「具合はどうだ?」

ノックもなしに入ってきたのはバクで、フォーが早速はん、と顎を上げた。

「ノックくらいしろよなー」
「ねっ、寝ていたら悪いと思っただけだ!」

そう思っているにしては大きな声で言い返すバク。
シィフは思わず溜め息をついた。
小さな笑い声。
傍らのだけが、シィフを見ていた。
周囲に聞こえないように落とされた、囁き。

「俺も、同感」

二人は顔を見合わせて、苦笑した。

「何だ?」

フォーのからかいも一段落ついたのだろう、バクがこちらを覗き込む。
が首を振った。

「何でもない。怪我、治った?バク」
「ああ。さっき本部と連絡を取ったが、コムイもそろそろ包帯が取れるらしいぞ」
「そう、……良かった」

ほ、と息を吐いて、彼は微笑む。
バクがひとつ頷いて、続けた。

「その本部だが、移転することになった」
「えっ」
「マジすか!」
「嘘っ」

だけでなく、李佳と蝋花までもが目を丸くする。
シィフは三人を差し置いてバクに尋ねた。

「建物を修復するのは諦めたということですか?」
「ああ。セキュリティの関係でも、余所に移した方が安全だろうからな」
「に、荷物とか、どうしたらいいの」

まだ呆然とした顔で、が呟く。
フォーが彼を見てけらけらと笑った。

「おっまえ、大分珍しい顔してるぞ」
「煽るな、フォー。全く……引っ越しは時機を見て、だ。準備も必要だろうしな」
「それまでに戻れればいいけど……」

呟いた金色を、バクが軽くかき回す。

「ああ」

本部に戻したくないのが、きっとバクの本音なのだ。
嘘のつけないこの支部長は、今も言葉と表情がいまいち噛み合わない。
もそれはよく分かっているのだろう。バクを見上げて、彼は苦笑いを浮かべた。









その夜、丁度フォーが睡魔に負けて沈没した頃、扉が静かに叩かれた。
ぼう、とフォーの寝顔を見つめていたは、ゆっくり目を上げる。

「どうぞ」

応えるように開いた扉の向こうから覗いたのが予想外の人物で、思わず体を起こした。

「ズゥ爺さん」
「いい、いい。楽にしていなさい」

アジア支部の料理長を勤めるズゥ・メイ・チャンが、にこりと笑う。
傍の椅子に腰掛けた彼は、おや、とフォーを覗き込んで細い目を瞠った。

「寝てるのかい」
「ずっといてくれてるから……フォーも疲れたんじゃないかな」
「そうか。お前は、具合はどうだ? 食欲は戻らんようだが」
「あー、うん……うん、平気」

科学班の三人組が下げてくれる食器は、やはりきちんとチェックされている。
は苦笑して首を傾げた。

「腹は減ったな、って思うんだけど……」

何と言えば伝わるだろう。
言い逃れてしまいたいが、ズゥは真摯な瞳での言葉を待っている。

「自分の身になってない気がして、なんか食べる気にならないって、いうか……」

しどろもどろに続けると彼は深く一度頷いた。

「そうか。……今はどうだね、何か食べられそうかい」
「え、あ、うん」

少し待っていなさいと言い残し、ズゥが席を立つ。
扉の外で何かを開ける音がした。
再びやってきた彼の手には、湯呑みのような小さな器がある。

「熱いから、気を付けて持つんだよ」
「何? これ」
「茶碗蒸しと言うんだが、口にあうかな?」

器の中には、薄い黄色と、三つ葉、それに蒲鉾が伺えた。
匙を差し入れる。

「なんか……プリンみたい」

見た目の感想を言えば、ズゥが笑ってまた腰掛けた。

「そうかもしれん。だが、甘くはないぞ」
「そうなんだ。いい匂いだね……あ、ほんとだ、甘くない」

薄味で美味しい。
そう伝えると、それは良かった、とズゥが返した。
何より、小さな器だというところが気に入った。
これなら、食べ残して余計な心配を掛けずに済みそうだ。
ズゥはがどう答えても対応出来るよう、これを扉の外に置いたのだろう。
きっと今は何も食べたくないと言えば、この器の存在をが知ることもなかった。

「神田は、元気にやっているかい?」

会えば必ず聞かれる事柄が、やっと出てきた。
は、感謝を込めて頷いた。

「教団の武器庫には、碌な刀が無い、とか文句言ってた気がする」
「ははは、相変わらずか」
「うん。だから早く六幻を直してやってよ」
「そうしよう。室長にまた要らぬ心労を掛けてしまいそうだからな」

ごちそうさま、と器を返す。
受け取ったズゥが、それを脇に置いて、ふと息をついた。
神田のことを聞きたがる割に、いつも少し悔やむような顔をする。
かつてこのアジア支部が行った人造使徒計画に、この老師も一枚噛んでいたそうだ。
はそれを、詳しくは知らない。
咎落ちのことも、そうだ。
は、詳しくは知らない。
けれど、求めに応じようとする時、人から聞き齧ることがあるだけなのだ。
ズゥが口を開いた。

「お前にも……お前たちエクソシストには、いつも、苦労を掛けるね」

ぽつりと、そして恐らく無意識に、口が形を変えようとして。
そしてズゥは、ハッとした顔で続ける言葉を飲み込んだ。

「ふあ……んん……ん? 何してんだ、ズゥ」

沈黙の中に、フォーの眠そうな声が広がる。

「夜食を届けに来ただけだよ。どれ、わたしはそろそろ戻るとしよう」
「あ、うん」

器を持って立ち上がったズゥを、は目で追った。

「おやすみ、
「……おやすみ、爺さん」

フォーが手をひらりと振った。
扉が閉まる。
アジア支部の番人は、ぐっと背伸びをした。

「わーるい悪い、あたしが先に寝ちゃったか」

ズゥが続けようとした言葉を、は知っていた。
――赦してくれ、その言葉を、知っていた。
――赦すよ、そう言えば、良かっただけなのに。
何故、言葉を飲んでしまったのだろう。

「大丈夫だよ。俺も丁度、腹が温かくて眠くなってきたとこだから」
「お、そりゃ良かった。夜食効果だな」
「うん。茶碗蒸し、美味しかった」

何故、言葉を飲んでしまったのだろう。
笑いながら考えても、答えが見つからない。
赦すよ、と。
ただ一言、いつものように言えば良かっただけなのに。
いつもの、ことだったのに。

「へぇ。茶碗蒸しって、日本の料理だぜ。克服出来たんだな、お前」
「えっ……え、嘘だろ、しょっぱくなかった」
「だから、お前が思ってるような過激な食事じゃ無いんだってば」

フォーが呆れ顔で差し出す歯ブラシを受け取り、は思考を放り出した。









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