燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
かえして、かえして
あいたい、あいたい
どうして、どうして
遍く降り注ぐ光は
それ故に、届かない
Night.68 蓋は閉ざされた
蝋花がいつも通り、ふわふわした足取りで歩いていく。
シィフは粥の盆を持ちながらも、いつも通りスタスタと迷いなく。
李佳は、二人の隣をいつも通りのんびりと。
そこにいつも通りの気軽な会話が無いのは、少なからず緊張しているからだ。
科学班の見習い三人組は、今日から「教団の神様」の世話役を仰せつかっている。
支部中から羨ましがられたが、バクの命令なのだから自分達にはどうしようもない。
「昨日、あの後どうなったか知ってる?」
話の口火を切ったのは、シィフだ。
「ちゃんと聞いた訳じゃないけど……今朝はもう、支部長もいつも通りだったよね」
うーん、と唸りながら答えたのは蝋花で、シィフがそれに納得したように頷いた。
「支部長、嘘つけないもんね。じゃあフォーさんが丸く収めたのかな」
蝋花がくるりと二人を振り返る。
「『神様』って、思ってた感じと違っててビックリしちゃった」
「うん。先輩達の話だと、もっとこう、近寄りがたい人かと思ってたけど」
案外、普通の人だったね。
シィフの評価に緊張が解けたのか、蝋花が笑った。
「あ、でも、出て行っちゃった時は、流石にウォーカーさんより怖かったかなぁ」
笑い合う二人を見て、李佳はウォンの話を思い出した。
――あなた方を選んだ理由は、「彼を知らない」からです――
一昨日、李佳はウォンと共に、密かに本部へ向かった。
出来る限り目立たぬよう、「彼」をアジア支部へ運ぶためだ。
腕の中で毛布にすっぽり包まれたその体は思いの外華奢で、頼りなく思えた。
・。
その名前は、入団した時から既に何度も聞いている。
本部のエクソシストではあるものの、事あるごとにアジアへ立ち寄って下さるのだと。
アジア支部を殊に気にかけて下さるのだと。
「教団の神様」なのだと。
先輩達はそう語りながら、隈に囲まれた目を一様に輝かせていたから。
どんな人物なのか、ずっと気になっていた。
アジア支部でイノセンス復活を目指していた少年は、李佳の問いに笑顔を返した。
――兄さんは笑顔が素敵で、優しくて、ええ、師匠なんかより余程頼りになって――
恨み言混じりに説明する彼はとても誇らしげで、いつか自分も会ってみたいと思っていた。
まさか、こうして会うことになるとは思ってもみなかった。
「ウォンさんがさぁ、仲良くしてやってくれ、って言ってたぜ」
振り返ったシィフの表情が、分かりにくいながらも確かに困惑した。
「仲良く?」
「そ。何でか知らないけど、あの人と初対面の奴をこの係にしたかったんだと」
「へぇ……でも、そうか、ボクらが選ばれたのには一応理由があったのか」
「お墨付きがあるなら、この際だし、仲良くなっちゃおうよ」
「いやいや、蝋花はあの人からウォーカーの話聞きたいだけだろ」
李佳はつい突っ込んだ。
蝋花が真っ赤になって叫ぶ。
「そんなんじゃないってば!」
「開けるよ」
我関せずのシィフの発言に、李佳は慌てて姿勢を正した。
蝋花も眼鏡をかけ直して、バインダーを強く握っている。
「失礼します」
三人の目に入ったのは、内側から扉を開こうとしていたフォーの姿だった。
「お、丁度良かった。お前らの話をしようと思ってたとこなんだ」
昨日の緊張感は欠片もなく、入れよ、と気さくにフォーは言う。
言うけれど、李佳は一度唾を飲み込んだ。
シィフも蝋花も固まっている。
此処に「いる」。
肌が粟立つような存在感に、一瞬で取り込まれる。
「ああ……確か、昨日……居た?」
「うろ覚えじゃねぇか」
「あはは……」
和やかな会話が、三人の呪縛を解いた。
器と盆が、かたりと鳴る。
シィフが真っ先に部屋に入った。
転び掛けた蝋花の背を押しながら、李佳も後に続く。
ベッドの上で枕に背を預けたその人が、目映い黄金に彩られて柔らかく微笑んだ。
「こっ! こんにちは!」
裏返る、蝋花の悲鳴のような声。
相手は笑みを崩さずに一つ頷いた。
「こんにちは。昨日も来てくれた、って聞いたんだけど、あんま覚えてなくて……」
前日のそれとはかけ離れて穏やかな声が、李佳の緊張をふわりと放り出してしまった。
嗚呼、この人は、こうやって喋るのか。
「・です。しばらく、よろしく」
そう言って、彼が三人の目を順番に見つめる。
漆黒と見つめ合って、李佳は思わず足を踏ん張らなければならなかった。
緊張とは違う、体がそちらに引っ張られるような、奇妙な感覚。
そんなことは有り得ないのに、もう二度と目を離してはいけないような錯覚を、覚える。
彼の自己紹介に何も反応を返せないでいると、相手は困ったように小さく笑った。
目を伏せて、顔を背ける。
「昨日は、失望させただろ。ごめんな」
「あ、いや、そんな事は……」
李佳は何とか取り繕おうと焦った。
胸が、しくりと痛む。
昨日この部屋で感じた、感情を搾り取られるようなものとは違う、ささやかな痛みだ。
だからこそ余計に李佳の不安を煽り、言葉を詰まらせた。
弱った挙げ句、なぁ、とシィフに振れば、彼も戸惑ったように頷く。
ただ一言、伝えればいいだけだ。
ほんの少しぼうっとしてしまったのだと。
確かに前評判とは違ったけれど、聞いていたよりはずっと親しみやすそうに思ったのだと。
フォーが気遣うように此方を見上げる。
彼女が口を開こうとした矢先、明るく笑ったのは蝋花だった。
「しょうがないですよー。誰だって疲れてる時くらいありますから」
が、目を丸くして蝋花を見つめる。
その視線をフォーに移して、彼はぽつりと呟いた。
「……いいのかな」
「いいんじゃねぇの?」
心から不思議そうにしている彼を見て、フォーがからからと笑う。
「あたしだって疲れる時は疲れるよ。だから、いいんだ」
李佳には、彼が何に困惑しているのかさっぱり分からなかった。
けれど、頷いた「教団の神様」は嬉しそうに蝋花に笑いかけるのだ。
「ありがとう」
笑顔の直撃を受けて、蝋花が赤くなりながら首を振った。
ウォーカーはどうした、と突っ込みたいのを寸でのところで押し留める。
シィフが一歩進み出て、持っていたままだった盆を近くの机に置いた。
「これ、お粥だそうです。ズゥ爺様が冷めないうちに、と」
「うわっ、熱っ」
フォーが僅かに蓋を持ち上げ、湯気の直撃を受けて呻く。
それを見て微笑むの顔色が、昨日よりも一昨日よりもずっと良いことに、李佳は気付いた。
ほ、とついた息が、そのまま素直な言葉になる。
「――良かった」
彼がこちらに目を向けた。
苦しそうに乱れる呼吸。
一昨日は、布越しにそれが聞こえるたび、心臓が止まるほど緊張した。
昨日の張り裂けそうな叫びも、苦しかった。
でも、もう大丈夫そうだ。
「具合、良さそうで安心しました。こっちに来るときは辛そうだったから」
「君は……」
今度は躊躇うことなく、李佳から笑いかけることが出来た。
「オレは李佳。こっちは、蝋花とシィフ。オレ達、科学班の見習いです」
「何かあったら、あたしもこいつらも、頼ってくれていいからな」
蝋花とシィフが挨拶をするより先に、フォーがすかさず口を挟む。
「いや、いいよ。科学班の仕事も、あるだろ」
眉を寄せたに、彼女は言った。
「気にすんなよ。ウォーカーが来てたときも同じようなもんだったから」
「アレンが……」
が目を瞑る。
そうか、そうかと繰り返して、彼はそのまま深く頭を下げた。
「アイツを助けてくれて、ありがとう。皆も、フォーも、……本当にありがとう」
その声が、心なしか湿っている気がして。
慌てる蝋花とシィフの横で、李佳は頬を掻いた。
「だから、本部に行きたいんだ?」
意地悪な顔をして、彼が笑った。
「ちちちち違いますぅ!」
蝋花が赤くなって叫んだ。
本当かなぁ、と呟きながら、が匙を口に運ぶ。
アレンが此方に滞在していた時の話をしたら、彼はとても興味深そうに聞いていた。
そしてその話をするには、蝋花の恋心に触れない訳にもいかない。
いつ話そうかと機会を狙っていた李佳より先に、シィフが打ち明けてしまったのは意外だ。
もっと意外だったのは、がその話に乗って悪戯っぽく追及し始めたことだ。
「あた、あたしは、純粋に本部に……!」
「そっかそっか……純粋に、アレンに会いたくて?」
「えええ!? もうっ、何で信じてくれないんですかー!」
「その真っ赤な顔じゃ説得力が無いからだよ、蝋花」
シィフが口を挟んだが、助け船ではない。
李佳は笑って彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
「認めて楽になっちゃえよ。だって応援のつもりで言ってんだって。な?」
顔を向けると、がうんと頷く。
しかし、その答えを蝋花が遮った。
「李佳だって!」
びしっと此方を指差して叫ぶ。
「リナリーさんに見とれてたくせに!」
が目を丸くし、僅かに目を伏せた。
シィフがはあ、とこれ見よがしに溜め息をつき、フォーが腹を抱えて笑う。
李佳はそんな周りの様子をしっかり把握してしまった自分を恨んだ。
顔が熱い。
「そっ、そりゃあ……し、仕方ないだろ!」
「じゃああたしのも仕方ないでしょっ!」
「、言っておくけど、ボクは純粋に本部科学班に憧れてるよ」
「あっ、てめ、シィフ!」
が小さく吹き出す。
器を遠ざけてベッドに凭れた彼は、また意地悪い目で李佳を見た。
「大変だなぁ、李佳。上司が、恋敵なんて」
「え? ……あっ」
上司って誰、室長じゃないかな、という声を遠く聞きながら、李佳は思い出した。
レベル3のアクマがこの支部を襲撃したとき、不可抗力で聞いてしまった事実。
アジア支部長はリナリー・リーに思いを寄せているばかりか、盗撮までしているのだと。
「な、何でそんなこと知ってるんだよ……」
「ねぇ何の話? 李佳」
問い詰めようとする李佳に、蝋花から疑問の声。
フォーが笑いながら蝋花の肩を叩いた。
「知らない方がいいこともあるって」
「えー。気になりますよぉ」
「そうだよ。室長を敵に回した李佳がどうなるのかも気になるし」
敵を室長と解したシィフは、表情も変えずにさらりと言った。
心なしか楽しそうだ。
「そうだな、確かそっちも敵だったっけ」
フォーがに問いかけ、彼がそれに頷く。
「それって、室長の他にもいるってことですか? 恋敵」
蝋花が身を乗り出し、目を輝かせて聞いている。
李佳は握り拳を作って声を絞り出した。
「お前らな、他人事だと思って!」
間髪を入れず、シィフが頷く。
「事実、他人事だからね」
「そりゃあそうだけど!」
確かに、彼の言うことに間違いはない。
間違いはないのだが。
嗚呼、先程までの蝋花はきっとこんな気まずいようなもどかしいような思いだったに違いない。
「ねぇ、……さん……?」
蝋花の声がだんだんと小さくなって消える。
そちらを見ると、彼女はしぃ、と口の前に指を立てた。
微かに肩を上下させて、が目を閉じている。
李佳はまじまじとその顔を覗き込んだ。
「もしかして寝てんの?」
「……多分」
戸惑った顔で、シィフが答える。
その横で、フォーが小さく笑って何かを呟いた。
「どうかしました? フォーさん」
蝋花が聞き返すと、彼女は掛け布団を直して肩を竦める。
驚くほど優しい微笑みを浮かべ、言った。
「なんにも」
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