燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









全てに絶望したら
きと
死ぬことすら、出来ない



Night.67 黒塗りの画布









黄昏が、来る。

「――っ!!」

は飛び起きた。
計画通りに進んでいるなら、ここはアジア支部の医務室の筈だ。
確かに見覚えのある場所の筈だ。
なのに、どうしてこんなに不安になる必要があるというんだ。
心臓の鼓動が五月蝿い。
痛い。
息が出来ない。
苦しい。
胸が痛い。

「……っ、あ……」

胸元を握り締めて、体を折る。
瞼を閉じると、また視界いっぱいの黄昏に襲われそうで、どうしても出来なかった。
片手を胸から引き剥がし、手探りでロケットを掴む。
怖い。
怖い。
怖い、怖い、怖い。

――あの黄昏に、家族を奪われる

いつまで甘えている気だ、今のままではまた家族を失うというのに。
そんな世界は嫌だと、言ったのは誰だ。
また家族のいない世界を生きるなんて、もう堪えられないと。
そう言ったのは、確かに自分だった。
過去を赦せなくても、過去を赦されたとしても、未来を守れなければ何の意味も無い。
赦しなんか、要らない。
はロケットを手放した。
こんな所で悠々と休んでいる場合ではないのだ。
敵が来たら、すぐに動けるようにしなければ。
此処には、エクソシストは自分しかいない。
痛いなんて、苦しいなんて、嘘だ。
もっと怖いものが、すぐ傍に忍び寄っているのに。

「(聖、典……)」

いつでも力を使えるようにしておかないと。
引き攣った呼吸のまま、腕に刺さっていた管を引き抜いた。
世界がじわりと黄昏に侵される。

「……ッ、聖……」

――あの黄昏に、「家族」を奪われる

そう思うのに。
は血の流れる腕を握って、荒く息をついた。
体が目に見えて震える。
怖い。
痛みが頭を過ぎる。
また、あんな痛みを味わうのか。
また、死の苦しみに向き合うのか。
家族にも会えず、神の御元に引き寄せられるだけだというのに。
まだ、未来を捧げることができるのか。
体が震える。
唾を飲んで、息を止めた。
視界はまだ黄昏に染まっていて。
だからこそ容易に、鮮明に、誓いを繰り返すことが出来た。

――生きたくない世界が、あるから

「聖典」

赤が浮き上がり、心臓が跳ねる。

「――ッ」

ぐらりと視界が揺れる。

「ん……っ、ぅ、」

後ろに倒れ込み、背中を打ち付ける。
天井の模様が歪んで霞んだ。
血は、まだ赤い。

「ぐ、ぅあ……っ」

再び襲ってきた波に意識を呼び戻される。
胸に爪を突き立てた。
身を捩って横を向いたのに、いくら息をしても空気が入ってこない。
このまま、心臓を取り出してしまいたい。
けれど今、この赤を黒へ変えることさえ出来たら。
きっと、もう家族を失うことは無いんだ。
強くそう信じた。

「ぁ、……」

歯の根も未だ噛み合わないけれど。
痛いなんて、苦しいなんて、嘘だ。
我慢なら、ずっとしてきた。
だから、今出来ないなんて、嘘だ。

「ミス、ト……!」

漆黒の霧が視界中に広がって、黄昏を打ち消した。

――ああ、

「は?」

フォーの声が聞こえる。

!?」

息が詰まる。
喉の奥に競り上がる血が、答えを阻んだ。
鼓動が五月蝿い。

「何でこんなこと……!」

もし今襲撃があったなら、自分達は助かるだろうか。
否、助けなければ、自分は何のために。

「おい、聞こえるか!? しっかりしろって!」

平気だよ、大丈夫だよ。
答えたいのに、息が出来ない。

「バク、」

そう呟いて踵を返そうとした彼女の腕を、掴んだ。

「どうした?」
「……ま、って……」

心配しないで。
何でもないんだ。
大丈夫――









揺らぐ漆黒を見つけて、フォーは慌てて振り返った。

「っ、ウォン!」

ウォンが振り向く前に、彼へ向き直る。
冷たい手。
青白い顔には、嫌な汗が滲んでいる。
すぐにウォンが隣へ立った。

殿、分かりますか?」

返ってきたのは、力無い視線と気怠い瞬き。

「よかった。心配しましたよ」

微笑むウォンを、が見つめた。

「……ご、めん……」
「いいえ。……見付けて下さったのは、フォーさんですよ」

突然、自分へと話を向けられ、フォーはウォンを仰いだ。
二人に注がれるウォンの視線は優しく、フォーはへ目を戻した。

「……ありがと……」
「べっ、……別に……うん……」

いつものように、ごめんと言われると思っていた。
予想外の言葉にうろたえる。
頬を掻いて、の手に自分の手を重ねた。

「あのさ、」

言いたいことがあった。
一度言葉を飲み込んで、意を決して続ける。

「……あのな、

その時、科学班の卵達の声が聞こえた。

「支部長待って下さい!」
「ちょっと、落ち着いて!」

足音も荒く、バクが入ってくる。
力の篭った瞳。
フォーとウォンを押し退け、震えながらを見下ろした。
胸座を掴み上げる手。
振り上げられた腕。
誰が止める間もなく、それは白い頬を打った。

「馬鹿野郎!!」
「バ、バク様っ」
「離せ、ウォン!」

ウォンに後ろから押さえられてもなお、バクは声を荒らげる。

「勝手に聖典を発動させていただと……ふざけるな! 
何の為にお前は此処にいて、何の為に医療班が力を尽くしたと思ってる!?」

新米三人も、慌ててバクに取り付いた。
フォーは呆然とバクを見上げる。
自分が怒鳴ることはあっても、バクがを怒鳴り付ける光景など、見たことがない。

「皆がお前を生かそうとしているのに、お前がそれを無駄にしてどうする!!」

傍で、奥歯を噛み締める音がした。
見ると漆黒が力を取り戻し、微笑っていた。

「……じゃあ、俺はまた、笑って、頷いて……言う通りにしてれば、いいんだね」
「そういうことじゃない、少し安静にしろと言ってるんだ!」
「それで、ここで……何も出来ずに、死んでいくんだ」

彼は顔を顰めながら、言った。
今は息をするだけで辛いはずなのに。
バクもそれに気付いたのだろう、深呼吸して頭を振った。

「違う、聞いてくれ」

先程よりも落ち着いた口振りに戻ったバクを見据える。
必要なのは口論でなく、何より休息だ。

「バク、今はダメだ。、お前も……」

止めようとフォーが伸ばした手は、思ったよりも強く振り払われた。
バクを見上げる瞳は、揺るがない。

「……今、ここに、敵が来たら……っ、どうやって、生き残るんだよ……」
「考えすぎだ。そんな都合よく来る筈ないだろう」
「はっ」

人を蔑むような笑みを、彼が、この人が浮かべるなんて。

「何で、分かるの?」
「何でって……」
「俺、皆に、生きてて欲しいんだ」

言い澱んだバクに、が畳み掛ける。
彼らしい伏し目の微笑。
それは無理をして作った笑顔なのだと、今、ようやく気付いた。

「皆を守りたい。でも、槍だけで守れないなら、盾を使うしかないじゃないか」

微笑が消えていく。

「ここで誰かを、死なせたら……俺の過ごした時間は、俺が奪った時間は、意味が、無くなる」
「そんなことはない!」

叫んだバクは俯いて、拳を強く握った。

「……、ボクの言葉がお前を苦しめてるのは知っている」

すまなかった。
頭を下げて、バクが言う。
その事に彼が言及するのは、これが二度目だ。
もう触れないと誓ってからは、初めてのことだ。
しかし、絞り出すようなその悔恨も、の表情を動かしはしない。
顔を上げたバクは、傷付いた目をして、それでもをまっすぐ見つめた。

「此処にいる間は、言いたいことも、やりたいことも、何も我慢しなくていい。だから、」
「やりたいことなんて……『家族』を守ること以外に無い」

消えそうな低い声が答えた。

「今も昔も、ずっと、俺は、それ以外に望んだことなんか何も無い!」

昂る声音。
逸る呼吸。

「なのに今更っ」

視線が、鋭く煌めいた。

「――いまさら! 生きろだなんて、簡単に言うなよ!!」

蒼白な顔のまま、震えながら、彼が怒鳴った。
肩を上下させて、荒く、速く、咳混じりの息をする。
新米はバクに取り付いたままで怯えきっているし、ウォンは心配そうな表情で凍り付いていた。
当たり前だ。
今になって気付くことが多すぎる。
憤りを孕んだ低い声も、嗚咽が混ざっても一向に流れない涙も、彼の身の裡で滾る感情も。
今までずっと、隠されてきた。

「――っ」

が身を折って、胸元を握り締めた。
フォーは、バクを見た。
気圧されながらも、バクは逃げずに彼に向き合っている。

「今だけでいいんだ、

言葉に真摯な熱を込めて、バクが彼の手に触れた。

「頼むから、今だけ休んでくれないか。ボクはお前の未来を消したくはない」

俯いたが低い声で呟いた。

「……未来、なんか……もうずっと、見えないままだ」

バクが、手を引いて言葉を見失う。
金色はゆっくりと毛布を退けて、立ち上がった。

「早く……新しい神様を、探して。バク」

微笑みを見せて、立ち尽くすバクの横をすり抜ける。

「生きろって、言うなら……俺はもう、貴方が望んだ姿では、居られない」
「……っ、待ってくれ」

一拍遅れてバクが伸ばした手は、強い音と共に払いのけられる。
広がるのは、息をすることさえ赦されない、苛烈な厳しさを持った空気。
僅かに見えた彼の横顔からは、一切の表情が消えていた。









バクが、崩れるように座り込んだ。
額に手をやって、震えている。
聞かずとも、泣いていることくらい、分かった。

「あいつが、悪いんじゃない」

フォーは呟いた。
震える肩を、軽く叩く。

「でもお前も、何も悪くない」

言い残して、急いでの後を追った。
部屋の外で話をしていた支部員達を捕まえる。

「おい、知らないか?」
「今さっきあちらに……」
「ゲートの場所を尋ねられまして」

この勢いのまま本部へ戻って、司令室にでも行く気なのだろう。
フォーは舌打ちをして、方舟のゲートへ走った。
ここからはそう離れていない。
すぐに声が聞こえてくる。

「ですが顔色が……」
「大丈夫」
「部屋にお戻りくださいっ」
「いいから、開けて」

駆け込むと、科学班の男達が集まって、を押し止めていた。
とは言え、彼の空気にやられて、遠巻きに声を掛けているだ。
それでもフォーは彼らを心の中で褒めたくなった。
関節が白く見えるほどに、強く握り締められた彼の手を、掴む。

「っ!」

何も言わず、を引きずり出すように部屋を後にした。
これを振り払わないということは、大分気力が無いのだろう。
自分の扉の前に着く頃には、咳と荒い息遣いが耳につくようになった。
段差に座らせる。
前に立って、肩を、しっかり掴んだ。

「落ち着いたか?」

見上げる漆黒には、いつものような憂いしか窺えない。
フォーは取り敢えず、安堵の息をついた。
僅かな首肯に頷きを返し、金色を撫で、抱き締めた。

「……なぁ、。お前さ、一人で戦ってるんじゃ、無いんだよ」

荒く動く背を、優しく撫でる。

「あたしはアクマには敵わない。バクの護りだって、あいつらには効かないさ。でも、」

今まで、どんなに心細かったろう。
家族を亡くし、故郷を失い、還る処の無い中で。
生死の境に世界を見つけ、悪夢に手を引かれながら糸の上を歩き続ける日々は。

「倒れそうなお前を支えることなら、出来る」

生命を背負って心を殺し、命を晒すことは。
磔刑にされても尚、微笑み続けることは。

「お前は、一人じゃない」

どんなにか、恐ろしいことだったろう。

「あっちには、ヘブラスカがいる。ここには、あたしがいる」

もう一度金色を撫で、フォーはと顔を向き合わせた。

「頼っていいんだ。あたし達だって、聖女と神様なんだから」

向けた笑顔に、微笑は返ってこない。
けれど、彼の肩からはふっと力が抜けた。
視線が彷徨って、俯く。

「……バクに、ひどいこと、言った……」
「たまにはあれくらいやってやれよ」

肩を叩くと、が少し目を上げた。
揺らぐ瞳を眼差しで包み、フォーは笑った。

「大丈夫、焦らないで。ゆっくり、少しずつ始めよう」

空気が暖かくなったのを感じる。
溶かされたように、僅かに目尻を下げて、が微笑んだ。









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