燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









誰かの願いを映す君の瞳は
自分自身を映さない
君が、
母の願いの結晶だとも知らずに



Night.65 君を穢すもの









死んだら会えると、思っていた。
死んだら謝れると思っていた。
だから、愛する世界と別れることも受け入れられた。
だから、どんな痛みにも苦しみにも耐えられた。
だから、未来を賭けられた。

――これが罰なのか

見返りを求めたら、それはもう罰にはならない。
そういうことか。
枷は、自分の手で壊してしまった。
抗えない程の力が腕を掴み、死へ向かわせる。
けれど、そこには。
神の御元に引きずり込まれる恐怖の中で、赤色を目にした気がした。

「お前を、神に渡したりなんかしない」

たすけて、なんて言えなくて。
手に触れたものにただただ取り縋り、温もりに身を任せた。









意識には長い空白があって、鈍い痛みに目を開くと、赤色を、今度は確かに目にした。

「(嗚呼、)」

この目で見るまで、自分の感覚も信じきれないでいた。

「(……無事で、良かった)」

痛みに呼び起こされるように、色々なことを思い出した。
もう後戻りは出来ないと覚悟した自分は、それでもまだ生きている。
では、共に戦った神田とラビは。
満身創痍で参戦したアレンは、イノセンスを飲み込んだリナリーは。
ヘブラスカは。
上手く守れただろうか。
あの場にいたコムイとルベリエは。
元帥達は、逃げ惑う団員達は、直撃を受けた科学班の彼らは。
もしかして、

――また、自分だけが?

また、家族のいない世界に、取り残されたのか。
また、世界を失ったのか。

「(なら俺は、一体何のために)」

溢れ返った虚しさが、師の一言で包み込まれた。

「焦らなくていい」

嗚呼、また、守れなかったんだ。
嗚呼、でも、確かに意味もあったんだ――









これは捨てた未来だった。
いつ潰えても良い、と捨てた筈の。
けれど、生きたかった世界だった。
家族のいる、未来だった。

「(また、この人に会えた)」

が三度目に天井を見上げたとき、クロスは窓の外を見ていた。
ししょう。
マスクの中で呟くと、その人は聞き洩らさずに此方を振り向いてくれた。
やたらと畏まった服を着ている。

「起きたか。具合はどうだ」
「……のど、痛い」
「そうかよ」

肩を竦めてクロスが笑った。
水をほんの僅か口にして、体勢を元に戻してもらいながら、師の横顔をつい見つめた。
思考の速度が、いつもより遅いのが分かる。
ぼう、としている間に、クロスが口を開いていた。

「なぁ、

少し顔を傾けて先を促す。

「オレはこれから、中央庁に行くことになった」

この人が行き先を告げるなんてことが、今までどれだけあっただろう。
場違いにもそんなことを考えて、反応が遅れた。
それにしても、中央庁とは。
近頃の状況を鑑みれば、その理由は容易に想像がついた。

「『14、番目』……」
「まあ、そうだな」

そういえば自分も説明を受けていない。
もしやアレン本人も、まだ何も聞いていないのではないか。
不満が顔に出ていたのか、クロスがおざなりに頷いた。

「分かってる、後でお前らにも話すさ。その為に向こうに行ってやるんだ」

まずアレンに話せってば。
そう思うが、確か二人は今、接触を禁じられていると言っていた筈だ。
口振りから考えれば、中央庁と何かしらの取引をしたのかもしれない。
ならば、師の思惑を邪魔しないよう大人しく振る舞うのが自分の役目なのだろう。
は頷く。
クロスが満足そうに笑い、の頭に手を置いた。

「それと、お前はアジア支部に行くことになってる」

はクロスを見上げて瞬いた。
アジア支部といえば、度々、周辺のアクマ討伐に駆り出されて懇意にしている場所だ。
そこに呼ばれるということは、またあの地がアクマの標的にでもなったのか。

「アクマが出た訳じゃねぇよ」

震える唇を開く前に、クロスが目を細めて言った。

「向こうで少し体を休めてこい。此処じゃあ、目が五月蝿いだろ」

は唇を引き結んだ。
全く予想もしていなかった言葉に、すぐに返事を思い付かず黙り込む。

「(俺より、アレンだ)」

衆目に晒されるという意味では、自分などより余程、弟弟子が辛い筈だ。
方舟での出来事が知れ渡っているとしたら、事情を知らぬまま厳しい目に晒されることになる。
に向かう視線は、数は多いが、大半が必要以上に好意的なものだ。
慣れもある。
アレンはどれほど苦しいだろう。
想像して、それだけで顔を顰めたに、クロスが語気を強めて言った。

「うるせぇな、行けっつってんだから黙って行け」

露になっている彼の目を見つめる。
一時の静寂。
それを穏やかな声が破った。

「……お前の判断が間違いだったとは、オレは思わない。それでも、これだけは知っとけよ」

手に、冷たい何かを握らされる。

。お前は、赦されていいんだ」
「でも、」

冷たくて、ちいさなそれは、細い鎖に繋がっていて。
反論しかけていたは、まさか、と息を飲んだ。
じわりと目が熱くなるのを、止められない。

「……師匠」
「分かってる。お前が一番、自分を赦せねェんだろ。……だけどせめて、」

ぼやけた視界の中で、震える手の中で、輝く金色のロケットを開く。
クロスが笑った。

「こいつらは赦してくれるって、信じてやってもいいんじゃないか?」

大体、傍に置かないとは怒るぞ。
意識は聴覚から視覚へ移っていく。
椅子に腰掛けて、ゆるりと微笑むグロリアが。
その後ろで、笑顔のモージスに肩を抱かれて立つ自分が。
父の前に座り、満面の笑みでカメラを見るが。
写真の中で、確かに時を止めていた。
この後を振り返ってしまい、だからもう一回撮り直して、でも結局これを選んだ。
グロリアは最期まで、モージスに貰ったこのロケットを大事にしていた。

「(もう、会えない)」

滑り落ちたロケットを、そのまま掌で胸の上に押し当てた。
瞑った瞼の裏側で、この写真の続きが見える。
声が聞こえる。
こんなにも愛おしい。
嗚呼、もう会えない。
この幸せを壊したのは自分で、だから赦すことなど出来ない。
彼らの未来を奪った自分は、罰を受けるべきなのだ。

――それでも、彼らは決してを責めてはくれないだろう

は息を吐いた。

「うん……」

彼らの優しさを穢したりしないと、誓ったのは自分だ。
甘やかな言葉に身を委ね、もう一度頷く。

「……うん……」

目を開けると、クロスが満足そうに目を細めていた。
頭の上で、ぽんぽんと手が跳ねる。

「心配すんな。動けるようになるまでとは言ってたが、まぁ、どうせすぐ呼び戻されるだろ」
「そう、ですね」

は苦笑する。
クロスが肩を竦めた。

「何だ、もう戻しちまうのか」
「え?」
「話し方」
「ああ……」

妙なところに拘るのがおかしくて、腹の辺りが温かくなった。

「『弟』に、示し……つきません、から……」
「つまんねぇとこばっか成長しやがって」

はっはっはっ!
笑う声はかなり大きく聞こえたのに、誰もこちらの部屋を覗きに来ない。
それが、とにかく心地よく感じた。
今は、自分が律しただけの、自分だけの「」でいられる。
自然と頬が緩んで、微笑みを形作った。
もう、行くんですか。
音にすらならなかった切れ切れの言葉を拾って、クロスが眉を顰める。
直された上掛けが、ロケットと手を包んだ。

「お前が寝たらな。それまでは居てやろう」

規則正しく体を叩く大きな手が、抗えない微睡みを誘う。
は笑った。
お気を付けて。
唇の動きはきちんと伝わったのだろう、クロスが頷く。

「おう」

軽く目を閉じれば、間もなく意識を闇に吸いとられた。
不思議と体は強張らなかった。









ドクターの許しを得て、コムイは病室の戸を開いた。

「こんばんは、入るよ」

ベッドの傍らにそっと近寄り、腰を下ろす。
出立間際までクロスが座っていたであろうその椅子も、もう冷たくなっていた。
機械の小さな音の中で、が眠っている。
コムイも痛めた腕を吊った状態だ。
教団中、そこかしこに怪我人がいる。
喪った仲間も多い。
それでも、誰もが何より先にと関心を寄せるのは、今日も彼の容態についてだった。
質問への切り返しは、コムイの口癖になりつつある。

「もう随分良くなったみたいだよ。心配しなくて大丈夫だからね」

会う人皆に訊かれたので、なるべく明るい声で返すよう心掛けた。
団員たちの表情は、一時希望に包まれていたが、果たしていつまで持つだろうか。
つまるところ、彼自身が以前のような姿を見せないことには、この不安を拭い去る手は無いのだろう。
その時には流石「神の寵児」だと、以前にも増して崇められてしまうかもしれない。
妹のことを含め、彼には重ね重ね申し訳ないと思いながらも、安堵する自分の存在を自覚していた。
あのままが彼岸に渡っていたらと思うとぞっとする。
千年伯爵を倒すどころか、教団は完全に統率も士気も失っていたかもしれない。
新たな犠牲すら生んでいた可能性がある。
あの瞬間でさえ、後を追うと言って死のうとした者が居たのだ。
コムイが把握しているだけでも、複数。
実際はもっと多いだろう。

――まるで、一つの宗教のようだ

穏やかな寝顔を見て、罪悪感を打ち消すようにコムイは笑った。

「よく眠れるように、元帥が魔法でも掛けてくれたのかな」

自分達が強いたことだ。
言葉はいつしか確かな意味を持って、彼を高みへと押し上げてしまった。

『室長、バク支部長からお電話が入っています』
「そのまま待ってもらって。司令室で受けるよ」

彼の療養に関する電話だと想像がつく。
「教団の神」信仰は、どこもきっと変わらない。
けれど、この本部の熱狂ぶりに比べればいくらかましだろう。
その場所として、馴染みの者が多く事情をよく知るアジアが最適だと訴えたのはコムイだ。
ドクターが許可して、バクが頷いた。
の容態をまだ受け入れ切れていないから彼を遠ざけておきたいのだと。
コムイが一番怯えているのだと。
バクには、恐らく見抜かれている。
それでも構わない。
の頬を一撫でして、コムイは立ち上がった。

「ゆっくりおやすみ、









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