燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
彼らには、まだ、見えるだろう
信じ続けてきた虚像の表情が
たとえ上掛けされた金属が剥がれ
鈍色の地金が顕わになっていても
Night.64 明日について
「色」のノア、ルル=ベルによる教団襲撃。
守化褸(スカル)の手で人体改造を施された者、殺害された者、重傷を負った者。
続いて発生したレベル4の騒動による犠牲者。
科学班や探索部隊を中心に、この事件は教団に大きな被害を出した。
アクマの卵を奪取し返したことだけが、唯一最大の戦果というべきか。
「(ルベリエ長官なら、そんなこと思ってそうだな)」
怪我も癒え、やっと退院を許されたリーバーは溜め息をつきながら廊下を歩く。
あの時、守化褸に認められなかった者達は無惨に頭部を潰されて死んだ。
タップを始め、守化褸にされた者達は皆、灰になって死んでしまった。
「……っ」
思い出すだけで目頭が熱くなる。
そして、忘れられない恐怖。
自分もあと一歩のところで、その内の一人になっていたのだ。
部下達を守りたくて、敵の前に身を晒したのに。
アレンが駆けつけてくれなかったらと思うと、体の震えが止まらない。
リーバーは足を止めて壁に手をついた。
――ウォーカーの左目があるだろう……きっと、助けに来てくれる――
あの日を共に生き抜いたアジア支部長バク・チャンは、そう言って救援を信じた。
――助けて、、助けて、お願い……神様……っ!――
あの日共に生き抜いた班員は、命を絶たれた班員は、そう言って希望を繋いだ。
「(中央庁と、何が違うんだよ)」
日頃、自分達が並べ立てる言葉が、急に綺麗事に思えてくる。
科学班はサポート派の一つだが、探索部隊のように脅威を目の当たりにすることは少ない。
だから、言えたのだ。
彼らを道具にしたくないなんて言いながら、あの時は、それが頭から消えていた。
エクソシストは戦うことが仕事だと、言われればそれまでだけれど。
彼らは、望んでその役目に就いた訳ではないのに。
罅の入った壁から手を離して、リーバーは再び歩き出す。
いくつか病室の前を通り過ぎ、奥の部屋に目を向けた。
扉には立ち入り禁止の札。
「まだ、駄目か……そうだよな」
廊下を引き返して、今度こそ科学班へと歩みを進める。
思えば、仕事の無い状態で歩き回るなんてことは、久しくやっていなかった。
今だって、研究室に向かえば机には山積みの書類があるのだろうけれど。
人の減った仕事場に戻るのが辛くて、意味もなく吹き抜けを覗き込みながら階段を下りる。
悲しみの記憶はそこかしこに残ってしまった。
此処でも、あの絶望を鮮明に思い出せる。
砂になったタップを看取った直後、吹き抜けに響いた怒声。
――オレの、声が……っ、聞こえねェのか、なあっ!――
四肢を投げ出したと、屈み込んで彼の胸を押し続けるクロス。
常ならば最小限にしか周知されない彼の容態も、今回ばかりは公の知るところとなった。
持ち直したとは聞いたが、一時は心臓が止まっていたのだ。
元帥捜索任務での傷も癒えていない。
依然として、元帥や室長の急用でもなければ、見舞いも出来ないのだろう。
だけではない。
ノアと戦ったマリや、ミランダも、レベル4に強か痛め付けられたアレンも。
イノセンスも持たず戦闘に加わったラビも、神田でさえ。
元帥達も多かれ少なかれ傷を負って、医療班の世話になっている。
未曾有の事態だった。
けれど、敵にも大損失を与えたことはきっと間違いない。
「……立ち止まってる場合じゃ、ないんだ」
呟いて、科学班の研究室に足を踏み入れる。
半数近くの机が持ち主を失った、この部屋の中で。
残された班員達が、今日もせっせと働いていた。
いち早く振り返ったのは、リナリー。
「おかえりなさい、班長」
いつものようにトレイを持って微笑む姿が、堪えた筈の涙で滲んだ。
「……ただいま」
いつもとは反対の言葉で答えて、見計らったように渡されたコップを手にした。
「黒い靴の検査は、まだなんだっけ?」
「うん。班長がちゃんと復帰してからって、兄さんが」
「そっか、じゃあ今日か明日にでも始めるんだろうな」
通常の装備型とは異なる発動をしたリナリーの黒い靴。
今は、彼女の足首でリング状になり、留まっている。
リナリーが自分の足を見下ろして、表情を緩めた。
「……また使えるようになって、よかった」
リーバーは内心驚いて、彼女を見た。
エクソシストとしての活動を強いられることを、誰よりも嫌っていた彼女だ。
それが例え、兄や彼女の世界を守るためであっても。
リナリーが肩を竦め、苦笑する。
「泣いてるだけじゃ、何も変えられないから。……皆と一緒に生きるために、戦うの」
僅かに俯いた頭。
耐え難い苦悩があったことなんて、言われなくても分かる。
リーバーがそっと髪を撫でると、彼女は押し殺すように囁いた。
「長官はお兄ちゃんのことを、『あれが、エクソシストだ』なんて言ったけど」
でも私は、見習いたくなんかない。
決然と言い切ったリナリーが、憤りを表情に上らせる。
「お兄ちゃんって、自分勝手なのよ。私達の気持ちなんか、全然考えてくれない」
「そ、そうか?」
「自分でそう言ってたもん。お兄ちゃんはね、自分のために私達を守るんだって」
リーバーは手を止めた。
確かに、は仲間を、「家族」を守ることに躍起になっている節がある。
ともすれば、自分の命など真っ先に手放して。
けれど、それが「自分のため」だというのなら、彼の本当の思惑はどこにあるのか。
さっと血の気が引く。
「でも、それで自分を大事にしないなんて、私、絶対に許さない」
ぷくりと頬を膨らませ、リナリーが空になったトレイを抱いた。
「……許さないんだからっ」
むずかるように眉を寄せたが、ふ、と目を開ける。
クロスが身を乗り出すと、彼はゆっくり視線を動かした。
漆黒が間違いなく此方を見つめている。
「オレが分かるか?」
聞けば、肯定らしい瞬きが返ってきた。
ししょう、と動いた唇に小さく笑みを返して、金色を軽く撫でる。
「少し待ってろ」
立ち上がり、ドクターを呼びに行こうとしたところで、服を引かれた。
何だ、と言って振り返ると、が思い詰めた顔でクロスを見上げていた。
「……みんな、は……?」
掠れた声。
色を失う唇。
機械と噛み合わない呼吸。
「落ち着け、」
「また、……おれ、だけ……?」
零れる涙。
クロスは溜め息をついて、ぴしりと彼の額を叩いた。
「本当にオレが見えてんのか、オイ。生き残ったやつだって大勢いるに決まってんだろ」
泣き崩れそうなほどに息を荒らげて、が喘ぐ。
止まらない涙を指で拭い、彼の肩をそっと押さえた。
「焦らなくていい。……いつ弔っても、あいつらが救われるのに変わりはねェよ」
の肩から力が抜ける。
いつから居たのか、傍に来たドクターが微笑んだ。
「かえって苦しいでしょうから」
感情を堪えることこそ、彼にとっては最大の負担だ。
そう言って、ドクターは宛がっていたマスクをそっと外す。
嬉しかったのか、悲しかったのか、きっとどちらも綯い交ぜになっているのだ。
遂に体を震わせ声を上げて泣き出した金色を見て、思わず苦笑してしまう。
クロスは、咽ぶの肩を軽く叩いてやった。
「……クソガキ」
朦朧として、感情の抑えも利かなかったのだろう。
疲れて身体に異常を来すまで泣ききって、漸く彼の嗚咽は止んだ。
赤みを帯びた目を見て珍しいと笑っていたら、扉を叩く音がした。
今、この部屋に関わる人間は限られている。
程無くして扉は開かれ、コムイが顔を覗かせた。
「目が覚めたって、聞いたけど」
そう言いながらやって来たコムイは、何故か離れたところで立ち止まる。
「何してんだ、来いよ」
「いえ、その……」
彼が躊躇っている間に、ドクターがへコムイの来訪を告げた。
が僅かに首を巡らせる。
戻されたマスクから与えられる酸素の音が、泣き濡れた声を誤魔化した。
「コムイ」
名を呼ばれて、観念したようにコムイが帽子を外す。
側に寄り、ベッドへ手をついた。
迷いの抜けきらないコムイよりも先に、が口を開く。
「……ごめん」
何の話か、クロスには分からない。
けれど、コムイにはしっかり伝わったらしい。
唇を引き結び、すぐに首を振った。
迷いの消えた瞳が、を真っ直ぐ見つめている。
「こっちこそ、……リナリーを、大事にしてくれて、ありがとう」
そう言って微笑んだコムイを見て、の目元が緩む。
クロスは静かに息を吐いた。
――ずっと『妹』でいてくれて、ありがとう――
婦長の話によると、弟子はそう言って戦いに出たそうだ。
恐らくこの『世界』に対して、彼の『世界』に対して、ある種の諦めを持ってしまったのだろう。
だからああして、全てをなげうった、向こう見ずな戦い方が出来たのだ。
世界への拘りが薄れたことが良かったのか悪かったのかは、まだ分からない。
そして、あれほど長きに渡って心に根付いたものが、たった一晩で消える筈もない。
それでも、少しでも吹っ切れたのなら。
「(上出来だ)」
クロスはそっと目を細めた。
微睡む表情を見せたの髪をくしゃりと撫でる。
クロスの手の下で、弟子は安心したように瞼を下ろした。
まだ青白い顔色で、しかし珍しく穏やかに。
金色が眠りについたのを確認して、クロスはコムイに目を向けた。
「で? どうした」
多忙な室長がわざわざ足を運んだのには、何か訳があるのだろう。
そう思って問い掛けると、コムイは僅かに肩を竦めた。
「ルベリエ長官から連絡がありました。そろそろ話を伺いたい、と」
「耳が早いな、アイツも」
呆れ混じりに返し、そのままなし崩しで了承を伝える。
いつまでも遠ざけておくわけにはいかない問題だ。
取引という言葉が通用するうちに、妥協はしなければならない。
そう答えれば、変なものを見るような目で見られた。
「げ、元帥がこんなに素直に話を呑んでくれるなんて……」
「失礼な、オレはいつだって素直だ」
ふざけたやり取りのあと、日程だけを調整してクロスはコムイとは別に部屋を出た。
の元には婦長がついている。
あの熟睡ぶりなら当分は任せられそうだ。
それに、クロスには探し物があった。
「(まさか、捨てちゃあいねェだろうな)」
今回のことで、周囲に知れた事情は多い。
此処の団員達のことだ、を支えようと彼らなりに何かと気を回すことだろう。
素直に甘えられるなら良いのだが、彼の場合はそうはいかない。
それでも、本人が殻を破る決断をしたのだ。
その殻を作った要因の一つである自分も、少しくらい手を添えてやらなければ。
当てはある。
しかし確証は、ない。
階段を上がり、廊下を渡る。
自分の部屋のちょうど真下、の部屋の扉を開けた。
彼の部屋は、生活感が無いのが常だ。
変わりの無い部屋の中を、我が物顔で進む。
サイドテーブルに置かれたトランプは、彼が初めて賭けで稼いだ金で買った物だ。
手に取って感慨深く眺める。
流石に四隅が傷んでしまっているが、それでも随分と綺麗なものだ。
トランプを元に戻し、クロスは洋服箪笥の前に膝をついた。
自分が与えた立派な箪笥も、いつの間にか使い込まれた形跡がある。
「使いやすいとか何とか、一言くらい言えっつーの」
どこにどんな服が入っているか、流石にそこまではクロスも知らない。
けれど、これを与えた時、彼が最初に仕舞った物だけは。
その場所だけは正確に覚えている。
二つある小さな引き出しの、右側。
開けようとしたら、少しがたついた。
「……ちゃんと持ってたか」
あれから一度も、開けていないのだろう。
予想はしていた。
力を込めて引っ張る。
ぽつんと置かれた、ハンカチ。
それを開き、包まれていたものを手に取った。
「(モージス)」
まるで彼らを表すような黄金色のロケットは、僅かにくすんだ輝きにクロスを映す。
クロスは、固く握り締めた手を、額に押し当てた。
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