燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
Night.63 彼のしあわせ
こびりついた血液を拭い、手入れし終えた「福音」を、サイドテーブルにそっと置く。
今は、枕元に置いてやる気には、なれなかった。
クロスはベッドへ視線を移す。
薬で眠る、生気の抜けた顔。
体には、微塵も力が入っていない。
規則的に与えられる空気。
不規則な鼓動を、無機質な波形と機械音が表している。
「()」
――生きるのは、疲れたか?
滲んだ視界の中で、熱い熱い視界の中で、人形のように揺れる体。
上階からそれを見て、絶叫に似た悲鳴を迸らせた者がいた。
真っ青になって駆け付け、腰を抜かし、泣き崩れる者がいた。
後を追うと言って、自分の命を絶とうとした者がいた。
ほんの僅か、震えながらも怒号を飛ばし、必死に職分を思い出してくれた者達がいた。
そして、再び止まろうとする鼓動を何度も繋いで、再び朝日が昇ろうとする、今朝。
ようやく、血に汚れた服を脱がしてやる余裕が生まれた。
「お前は、」
指先も、眉も、瞼も、喉すら動かさない彼がどんな夢を見ているかは、全く分からない。
また、いつもの悪夢に囚われているのか、それとも。
クロスは、ぐっと拳を握り締める。
宙を飛び交う黒い粒を見たあの時に、全て悟った。
・は、未来を捧げてしまったのだと。
「……それで、良かったのか」
扉をノックする音。
全く反応を返さない彼を見ていたら、そっと扉が開かれた。
僅かに顔を上げ、肩越しに振り返る。
途中目にした窓の外には、銀の月。
もうそんな時間か、と思いながら視線を移せば、コムイが入口で俯いていた。
「容態は……どうですか」
クロスは、再び彼を見下ろした。
「今は落ち着いてる」
噛み締められる歯。
鳴らされた喉。
そんな小さな反応すら、今のには望めない。
上掛けの中でクロスの手に包まれたその手には、微塵も意思が感じられないのだ。
再び意思を持つのか、それすらも分からないのだ。
もう何度目だろうか、目の奥が熱く、鼻の通りが悪くなった。
喉が、重い。
「……申し訳、ありません」
「何の話だ」
「私が、引き留めておけば……」
「お前に、こいつを止められるのか」
コムイが言い澱む。
彼が決め、誓い、覚悟してしまったなら、誰も止めることなど出来ないだろう。
――おじさん――
彼の笑顔が記憶を占める。
それは、本当の笑顔だったのか。
――ししょう――
俯いた笑みは、目を伏せた微笑みは、それは本当に、笑顔だっただろうか。
――師匠――
クロスは、知っていた。
が、家族への想いに殉ずるつもりだと。
幾重にも塗り固めた罪を、その身で贖うつもりだと。
長年の思いを、遂げるつもりだと。
――そんな必要は、何処にもないのに
お前も、赦されていいんだ。
心を雁字搦めにする罪の意識から、解き放たれていいのだと、何度も示してきたのに。
今になって、それが正しかったのかと迷う自分もいる。
失った家族の分も、生きてくれと望んだ。
彼らの分も、長く、長く、健やかに。
生きることは幸せなのだと信じていた。
けれど、それは本当に正しかったのか。
先に伸びる道を歩むことは、彼にとって幸せなことなのか。
――には、会えたのか?
――会いたいか?
――この世界を、捨てるのか?
知っていたのだ。
彼の思いの裏側に、置いていかれた寂しさが、悲しさが潜んでいたことくらい。
「(生きたい、なんて)」
口許に宛てがわれた酸素マスクへ、何度も手を伸ばした。
静かに上下する胸元へ、何度も銃口を向けた。
その度に、手が震えた。
その度に、胸が塞いだ。
「(お前は、言ったことも無いのに)」
ただの一度だって。
他人には、あれほど生きろと言うくせに。
「……許せよ」
君は望まないかもしれない。
それでも、目を開けて欲しいと、願ってしまうんだ。
瞼の裏で、橙色のワンピースが翻る。
「ねぇ、くん」
ジレーアの声に促され、目を開けた。
眩しい。
二、三度瞬けば、目の前には大きな木。
広がるのは花畑。
澄んだ白、優しい桃色。
緑が萌えて、空は、何処までも青い。
「(……ここ、知ってる)」
は、震える息をそのままに俯いた。
「(ここ、知ってる……)」
どうして。
此処は――
「」
村長さんの声。
「」
駅長さんの声。
「!」
トーマスが、呼んでいる。
は顔を上げた。
広がる故郷の花畑の中に、懐かしい顔が揃っていた。
否、懐かしいものか。
毎夜、夢で見ていた顔が、そこにあった。
「と、ます」
名前を呟けば、親友が満面の笑みを浮かべる。
「、お夕飯は何がいい?」
アンナが微笑む。
は、奥歯を噛み締めた。
――嗚呼、
熱い雫が頬を伝うのが分かった。
皆が、いる。
皆が、変わらない姿で。
モージスが笑いながら肩を竦めた。
「ったく、何泣いてんだ」
熱い身体に、優しい声が聞こえる。
「お帰り、」
「お、かあ、さ、……」
壊してしまったはずの、世界が、其処にある。
黄金色のツインテールが、軽やかに揺れる。
輝く笑顔が、向けられる。
「お兄ちゃん!」
「……っ、……」
涙が視界を塞いだ。
喉に込み上げる熱が、息をかき乱した。
「どうして……どうして、みんな」
――怒っていないの?
謝ろうと、思っていたのに。
どんな言葉も、受け入れるつもりだった。
どんな罵りも、謗りも、受け入れるつもりだった。
どんな言葉でも良かった。
もう一度、彼らから声を掛けてもらえるなら。
もう一度、彼らの声が聞けるなら、何だって。
そう、思っていたのに。
どうして。
僕は何も、出来なかったのに。
「何で、怒らないの……?」
どうして、そんなに優しい言葉を掛けてくれるの。
どうして、そんなに優しく微笑んでくれるの。
そんな風に呼ばれたら、僕は、罪を忘れてしまう。
「(……会いたかった……ずっと会いたかった、会いたかった、会いたかった)」
会いたかった。
が伸ばす小さな手に、自分の手を重ねたくなる。
右手を動かしかけて、ふと振り返ると、住み慣れた建物が見えた。
恐らく、食堂。
黒服と白服の入り交じる空間。
「(みんな、笑ってる)」
「お兄ちゃん! そんなところで何してるの?」
リナリーが笑顔で手を振っている。
科学班の皆が呼ぶ声。
神田がふんと顔を背ける。
それをからかうラビと、山盛りのみたらし団子を平らげるアレン。
微笑むミランダ。
クロスが、こちらに手を伸ばす。
「」
絶対的な、その声音。
は故郷を振り返った。
会いたかった世界。
生きたかった世界。
恋しい世界。
愛しい世界。
笑顔に挟まれて、思わず俯く。
「(選べないよ)」
――だって、どっちも大好きなんだ
――だけどどちらにも、赦されてはいけないんだ
溢れる涙に従って、伸ばしかけた手を下ろす。
忘れてはいけない。
忘れては、いけない。
目を瞑って、顔を背けて、自分に何度も何度も言い聞かせる。
忘れてはいけない。
その時、握り締めた手を、後ろから引っ張られた。
「え、」
振り返っても、何も無い。
ただ、ぐいと強く腕を引かれる。
抗えない、痛いくらいの力。
先に広がる暗い暗い空間へ、はぽつりと呟いた。
「……かみさま?」
確証があった訳ではない。
呟いてみただけのこと。
しかし途端に体ごと、空間に引き摺り込まれた。
故郷が、食堂が遠くなる。
「あっ……や、やだ、……いやだ!」
誰にも、赦してもらえなくていい。
「放せ! やめっ、嫌だ!!」
もう二度と、誰にも会えなくていい。
あなたのもとにだけは、いきたくない。
「……いやだ……っ」
キ、と小さな音がして、奥の扉が開いた。
婦長が、苦笑しながら会釈を寄越す。
そのままそっとベッドに歩み寄った。
「変わりは、ありませんか?」
「ああ」
手に持っていた桶を脇へ下ろし、タオルを固く絞る。
優しい手付きで、の顔を、首を拭いていった。
「無理ばっかりして……」
そう言いながら、婦長はの額を撫でる。
彼女が小さく鼻を啜ったのが聞こえた。
目の形が変わって見えるほど、瞼が腫れている。
「婦長、少し休んで」
「室長こそ。怪我をなさっているんですから」
勿論、元帥もですよ。
微笑まれ、しかしクロスは頷くことなど出来なかった。
拭われたばかりのその頬を、伝う涙。
「(……涙?)」
思わず、腰を浮かせた。
機械が拍動の乱れを知らせる。
それを遮るように、クロスは呼んだ。
「ッ」
コムイの指示で、婦長が再び奥の部屋へ駆け戻る。
マスクの中で、色の無い唇が微かに動いた。
――いやだ――
「、どうした」
「、しっかり……!」
うっすらと開いた瞼。
ほろほろと、涙が零れていく。
「……か、み……さ……ま……」
小さく漏れた言葉は、クロス以外の者に、どう聞こえたのだろう。
コムイが声を震わせた。
「まだ苦しいかな 、。大丈夫、すぐ楽になるからね」
「(違う、)」
彼は、神に助けを求めたりしない。
飛んできたドクターが、聴診器を宛てる。
「、落ち着いて。ゆっくり休んでいいんだよ」
宙を見たまま、濡れた視線は動かない。
クロスは冷たい手を強く握った。
耳元へ顔を寄せる。
「お前を、神に渡したりなんかしない」
コムイが、ドクターが、婦長が。
部屋中が怪訝そうにクロスを見た。
けれどそんな視線より、微かに握り返された手の方が、クロスを映した漆黒の方が大切だった。
「心配するな。オレが、此処に居てやる」
「……、」
宛がわれた注射器。
ゆっくりと、瞳が瞼に隠される。
「も、……あ、え……な……」
零れ落ちる涙が、再び頬を濡らした。
機械からは、先程よりも僅かに規則正しい音が聞こえる。
「大丈夫ですよ、元帥」
自分自身に言い聞かせるように、コムイが、疲れた顔で微笑んだ。
「きっと良くなります」
「……ああ」
身体の具合は、僅かでも快方に向かうのだろう。
けれど心は、厚い氷に包まれている彼の心は。
――に、もう、会えない――
心は、溶かされることの無いまま、凍り付いていく。
「よかった……もう、もう声も、聞けないかと……っ」
上掛けを戻してやりながら、ドクターが涙ぐんだ。
教団中が絶望と恐怖に囚われたあの時、一番に動き、治療の指揮をとっていた。
張りつめた糸も、やっと緩んだに違いない。
コムイが柔らかく笑って頷き、涙を溢す彼の肩を抱いた。
「ありがとう、ドクター」
吉報はすぐに、皆の知るところとなるだろう。
流石は「神の寵児」、最大限の加護があったのだと。
流石は「教団の神」、まだ我々には希望があるのだと。
――こんな姿を前にしても、なお
自分達は、彼を祀り上げる。
このまま。
きっといつまでも、変わらない。
そして彼が杭打たれた十字架は、再び、矢面に掲げられる。
――もう、外に出ることは、無いと思うんだ――
クロスがマダム・ボウエンから伝え聞いたこの言葉を。
もし、諦めから告げたのなら。
――嫌だ、神様――
けれどまだ、願うものが、あるのなら。
「(死なせはしない)」
今度こそ守る。
だからもっと、もっと欲張ってみせてくれ。
皆に会えるのだと
やっと謝れるのだと、思っていた
だからどんな決断も、耐えられた
でも、もう、会えない
――たすけて
神様が、呼んでる
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