燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
鎖の制約に囚われても
想い十字架を負わされても
この身を代価に捧げてもいい
望む者全てに、愛と眠りを
Night.62 空へ――今、此処に在る世界を
突如降ってきた真っ赤な雨。
それは、彼が武器へ意識を回せなくなったことを意味していて。
「そん、な……馬鹿な……っ!」
ルベリエが呆然と声を漏らした。
遥か上空で、がレベル4に捕われている。
声も無く見上げたコムイの視界へ、黒い塊が落ちてきた。
床に弾み、音を立てるのは、赤に塗れた漆黒の銃。
まだ温もりの残るそれを、震える手で拾い上げる。
コムイは、再び頭上を見上げた。
「(……)」
追い返せばよかった。
何故、こうなっても尚、彼に縋ってしまったのか。
目の奥が熱い。
嗚呼、今、自分達は神を殺した。
この手が、神を殺した。
「(…………ッ)」
違う。
深い悲しみと絶望に囚われながらも望まれるまま神のように在り続けた、尊い青年を。
破裂しそうな痛みを隠して押し込めて、家族の為にと笑ってくれた一人の人間を。
この手で。
赦して
「――ッ!!」
唐突に、ヘブラスカが息を呑み、頭上を仰いだ。
「い、や、……だめ、だ……!」
「ヘブラスカ?」
「やめ、ろ……やめろ……!」
「どうしたんだね!?」
ルベリエの強い声。
「やめろ……! それ、だけは……!」
ヘブラスカの身体が輝く。
否、イノセンスの孔が浮かび上がり、輝いている。
彼女の体が脈打って、光を強めていく。
先日、目にしたばかりのその光景に、コムイはハッとして顔を上げた。
――まさか
輝きに目が眩んでも、見つけなければ。
彼に、この声を届けなければ。
だってそれは、本当に。
「駄目だ!! !!」
本当に、君を「神様」にしてしまう。
「枷が……っ、外れる……!」
落ちた赤が再び宙へ舞い上がり、目も眩むほどの光を放った。
「やめてくれ…………ッ!!」
ヘブラスカの鳴咽を遮る、声は。
「――聖典、開放――」
禁断の言葉を、唱えた。
応えるように、どくん、と。
胸の中で、弾けそうなほど、砕けそうなほど強く心臓が脈打った。
目映い光。
全ての赤が、黒に塗り替えられる。
レベル4が引き攣った顔をしたのが見えた。
「こいつ、っ!?」
振り払われ、向かいの壁まで吹き飛ばされる。
ちょうどそこにあった残骸を足場に、立ち上がった。
自分の周りを、小さな光が飛び交う。
「ゴホッ、」
競り上がるモノは、吐き出した瞬間に球体へ変わり、光の中に加わった。
「ふ、ふふ。あたらしいわざ、ですか?」
こちらを警戒しながら、レベル4が声を上げる。
は、その右手を横目で見た。
先程、血塗れた手で掴んだその場所には、べっとりと漆黒が痕を残している。
一呼吸。
す、と挙げた左手で、レベル4を指差した。
そのまま、人差し指を上へ向ける。
連動して、アクマの右手だけが上へ持ち上がった。
「な、に……!?」
終曲を示すように、手を軽く握った。
バキン、と鳴って。
「っ、う、ぎゃぁあああああああ!!」
アクマの右手が、砕け、落ちていく。
良かった、精度は昔と変わりない。
「……っ、は、」
咳き込み、吐き出した黒は、口の端に付かないまま宙へ漂った。
脈打つ度に、心臓の痛みは増している。
けれど、
「(もう、何も、失くさない)」
やっと悔いなく戦えるのだと、その安心感が、何より勝っていた。
「福、音……」
下に向けた右手を軽く振る。
遠く風を切る、ひゅっ、という音。
手に吸い付くように、漆黒の銃が還ってきた。
触れた瞬間に十字架が輝き、歯車が腕を囲む。
同時に、ヘブラスカの周囲へ「帳」の盾を張った。
「(……あ、)」
不意に感じた、師の、元帥達の存在。
ならばきっと、研究所内にはまだ生存者が居るのだ。
「(良かった)」
「きさま……ッ! きさまぁぁぁ!」
アクマの叫びに、目を向け、微笑むだけの余裕があった。
「おいで」
――みんな、赦してあげるから
舞い上がった赤い血は、一斉に輝きを放ち、漆黒へと色を変えた。
アクマの絶叫。
血塗れの銃が適合者の元へ、一直線に還っていく。
「きさま……ッ! きさまぁぁぁ!」
濁ったアクマの叫びに、天上の微笑みが返された。
「おいで」
レベル4がへ飛び掛かる。
刃のように研ぎ澄まされる空気。
一瞬。
瞬きの間に、の姿が消えた。
アクマの背後に集まる、黒の足場。
そこに降り立った影が、アクマへ銃を突き付けた。
異形の足が片方、勢いよく弾け飛ぶ。
「ぎゃああっ!」
コムイは呆然と、上空を見上げた。
「……! どうして……っ、もう……やめて、くれ……!」
ヘブラスカの叫びが虚しい。
ルベリエだけが、希望を秘めた握り拳で黄金の行方を見守っている。
「!?」
横から聞こえた、驚愕に満ちた声。
クロスが目を見張って上を見上げていた。
もう一体のアクマはまだ生きている。
しかしクロスの手によって、既に原型を留めてはいない。
「聖典」の、開放
聖典の副作用は、臨界点が契機だった。
だからこそ、それ以下の同調率を維持させていたのに。
その状態でも極限まで侵され、蝕まれていた肉体が、臨界点に耐えられる訳がない。
証拠に、呼吸の度に吐き出される黒。
彼の周りを漂う光が、だんだんと数を増していく。
「ああああああ!!」
リナリーとアレンが、もう一体のレベル4を完全に破壊した。
そのリナリーの黒い靴と比べても、黄金の動きは劣らず俊敏で。
上階で、ソカロとクラウドが身動きも出来ずに彼を見ているのが分かった。
「しにぞこないに、まけてたまるか!」
「お前に……っ、世界は、渡さない!」
戦いの中で、聞こえた言葉。
「しね!!」
アクマが口からキャノンを伸ばし、が両手で銃を構えた。
「福音――銀の弾丸!!」
光が光を飲み込み、打ち消す。
轟音、
ひび割れていくアクマ。
弾丸が命中した箇所から輝き、分裂していく。
女性の形に見える光の塊が、装甲を失った剥き身の魔導式ボディへ手を差し伸べた。
まさか、あれは。
「(喚んだ、人……?)」
光がボディの手をそっと握った。
瞬間、その光の塊から分離して数えきれない光が生まれ、人の形を成した。
対になるように、魔導式ボディからも光が浮かび上がる。
「(……喚ばれた人、なのか……?)」
コムイは息を飲む。
こんな単純なことを、すっかり失念していた。
――アクマは、愛し合う者達の悲劇の結晶なのだと。
ある光は、浮かんだ光を抱き止めて。
ある光は、浮かんだ光を優しく撫でて。
またある光は、浮かんだ光と手を取り合って。
抱き上げて。
口付けて。
抱き締めて。
喚んだ者と喚ばれた者が、輝きながら澄んだ音を響かせて、砕け散った。
差し込む朝陽が、宙に佇む一人の青年を、照らし出す。
凛とした黄金の輪郭は、煌めく漆黒を従えて。
空間の支配者たる「神」の姿が、そこに在った。
「――主よ、彼らに赦しを」
クロスの呼吸さえ止めた、余りにも神々しい情景。
けれど。
絵画のようなその風景は、刹那、真っ赤に塗り潰された。
全ての漆黒が赤へと色を変え、溶ける。
それに支えられていた彼の体が、ぐらりと傾いた。
「っ、!!」
馬鹿。
馬鹿。
馬鹿だ。
――貴方に聞けて、良かった――
あの微笑みは、
「(馬鹿野郎ッ!!)」
叫びたいが、声が出てこない。
良心を揺さぶり魔を破る、人の赦しのイノセンス。
「福音」が、適合者に先んじて床に転がった。
次いで落ちてくるの体を、クラウドのラウ・シーミンが掬い取った。
とにかく駆け寄り、抱き下ろす。
重く、ひやりと冷たい身体。
だらりと垂れ下がる腕。
力無く仰け反った喉。
色を失った唇の端に残る赤を見て、ぞっとした。
つい先日の、嫌な夢が蘇る。
背筋を汗が伝う。
気が急いて、手が震える。
「……おいっ、起きろ!」
床に寝かせても、声を掛けても、肩を揺すっても、頬を張っても。
されるがままで、何も反応が無い。
「!!」
胸座を掴んで怒鳴り付けたところで、横から手を払われる。
ルベリエが膝をついて、彼の顔に手をやった。
は振り払いもしない。
口の端から伝う生々しい血の跡を拭い、ルベリエがその首筋に触れた。
「生きていますよ、室長」
「っ、……後を、頼みます」
泣きそうな顔で、コムイが被害の状況を確認するために走り去る。
それを見送って、ルベリエは、胸元から白いハンカチを取り出した。
血塗れた彼の手首を締める。
ルベリエが俯いて、呟くように、しかし鋭く言った。
「……ヘブラスカ、診てくれ」
クロスの傍らを、輝く触手が擦り抜ける。
「脈が触れない」
ぎょっとして、ルベリエに目を遣った。
そこで初めて、彼が苦々しい表情を浮かべていることを知る。
ヘブラスカの手が、の胸元に沈められた。
それでも閉ざされた瞼は動かず、睫毛さえ震えない。
「……侵食、は……まだ、浅い……」
手を引き抜き、ヘブラスカがクロスへ顔を向けた。
「早く……医療班へ……早く……」
力無い体から息遣いは感じられない。
絶望が胸を埋め尽くす。
けれど、これから教団中が受けるであろう衝撃を思えば。
逸る鼓動を抑えて、立ち上がろうとするクロスを、背後からの声が引き止めた。
「私が呼んできましょう。元帥は此処で、蘇生を」
そうだ、一刻の猶予もないのだ。
我に返って、クロスは息をついた。
「(らしくねェぞ、オレが動揺してどうする)」
震える指で、彼の服のボタンを外す。
顎に手を添えても、鼻を押さえても、口をつけて息を送っても、されるがままだなんて。
もどかしく思いながら、血塗れた布に顔を顰めながら、冷たい胸に手を置いた。
「彼の安否の確認が取れたらすぐにでも、幹部を集めて会議を開きます」
思わず振り返る。
こちらもらしくない、猶予を持った言葉。
ルベリエが肩を竦めた。
「まだ、失うわけにはいかない」
早く。
ヘブラスカの声に、ルベリエが早足で立ち去った。
クロスは頷いて、ぐ、と彼の胸を押す。
投げ出された腕が、体の揺れに合わせて動く。
手首に巻かれたハンカチは、既に赤く染まっていた。
「(……やめてくれ)」
吹き抜けの上から、ざわめきが聞こえる。
「(やめてくれ、グロリア)」
啜り泣きは反響を繰り返し、まるでさざなみのように空気に染み渡る。
もう一度息を送り込み、胸を強く押す。
「(やめてくれ、モージス)」
降り注ぐ視線を感じる。
どよめきが聞こえる。
焦りが、脳を軋ませる。
「起きろ、」
空間を割り裂いた悲嘆が、悲鳴が、渦を巻いて襲い来る。
医療班は、まだか。
「オレの、声が……っ、聞こえねェのか、なあっ!」
ヘブラスカが何かを言っている。
それも上階からの嗚咽にかき消される。
医療班は、まだか。
「(、頼むから)」
手を止めて首筋に触れる。
冷たい頬を包む。
鼻の奥がつんと痛んだ。
彼に託された、彼から預かった大事な宝だ。
けれど、この掌にすっぽり収まっていた柔らかな頬は、もうこんなに大人びた。
クロスのもとで、こんなに大きくなったのだ。
「起きろよ……!!」
頼むからどうか、この手に返して。
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