燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









此処は、生きたかった世界ではない
此処は、守りたい世界だ
過ぎた世界の形代よ
どうか、君達は、



Night.61 二度と届かない









神田とラビに下方の一体を任せ、は上方のレベル4と睨み合った。
進化が進むほど、個体ごとの差異が少なくなるように思える。
腹の膨らんだ赤ん坊の形をしたアクマ達が、背中に生やした羽で縦横無尽に宙を駆る。
餓鬼のような外見でありながら、皮肉にもその頭上には天使の如き光輪が窺えた。

「きんぱつ、ぴすとる……? あなた、もしや『』ですか?」

放たれる光線から、身を躱す。

「それが、どうした」

宙に浮かばせた「帳」へ足を着けてアクマを見遣れば、相手はにんまりと笑って頬を抑えた。

「あはっ! しっています、しっていますよ、『かみさま』!」

笑いながら、滑るように飛んでくるアクマ。
その笑みの気味悪さに、驚異的なスピードに、ぞくり、と悪寒が走る。

「(速い!)」

は「帳」を霧散させて重力に身を任せた。
上方へ銃を向け、歯車を回す。

――連射弾――

当たっているのか、いないのか。
恐らく後者だ。
笑い声は全く乱れない。

「ぼくね、ずぅっと、あってみたい、って。ころしたい、って、おもっていたんです」

落ち過ぎれば、下からも狙われる。
落ち過ぎれば、下を狙わせてしまう。
軽口を叩く余裕なんて無い。
再び足場を作り、横に跳ぶ。
元の「帳」を崩して、着地点に新たな盾を張る。
螺旋状に吹き抜けを駆け上がり、背後の追撃を避けていく。

「あははっ! かみさまがいなくなったら、せかいは、どうなるのかなぁ!?」

一歩踏みつける度に、胸が軋んだ。
鳥肌も、滲む涙も気付かない振りをして、はまた跳ぶ。

「(囮でも、何でもいい)」

イノセンスを取り込むつもりの、愛しいあの子が、地獄に片足を踏み入れる前に。
全てに片をつけたいと、思っていたけれど。
が足を置いた盾が、光線に貫かれる。

「ぐ、ッあ……!」

食い縛った歯の裏に押し込めた悲鳴は、腹を蹴られて呆気なく外に漏れた。
壁に打ち付けられ、噎せ、喘ぎながら、アクマの影から逃れる為に宙へ転がり落ちる。

「(今までのアクマとは、全然違う)」

霞む視界、ラビがもう一体によって床へ叩きつけられた。
飛び掛かる神田が、羽虫のように振り払われ、壁に突っ込む。
コムイが、呆然と自分達を見上げている。

「っ、の、やろ……」

せめて、愛しいあの子が、妨げられずに同調出来るまで。
皆が逃げ切れるまで。
囮になるしか、自分達には出来ないだろう。
そんな予感が消えない。
けれど。
タイミングを計って盾を作り出す。
それを足場に、レベル4を見上げた。

「(それでも、俺は、信じなきゃ)」

自分だけは、勝てるのだと信じていなければ。
空気が、気持ちを伝播させてしまうから。
息の整わないまま、はまた宙を駆けた。
雪冕弾を使えば、きっと建物が崩れてしまう。
拘束弾は既に何度も避けられた。
足場が無ければ動けない。
けれど足場があると霧も使えない。
心臓の鼓動が五月蝿い。
心臓の鼓動が気持ち悪い。
心臓の鼓動が、痛い。
火炎弾を放つ、その衝撃が切れ切れの呼吸を掻き乱す。
殆ど何も考えないままアクマと撃ち合い、また攻撃を避けるために身を投げ出した。
ボロボロの神田が、胸座を掴まれて放り捨てられた。
ラビが居ない。
盾の上に着地してさっと下方を見渡せば、瓦礫の山から身を起こすのが見えた。
逃げるでもなく、昇降機が落ちたあの場から一歩も動いていないコムイ。
そして、ヘブラスカの腕に捕らわれた、リナリー。
アクマの手が、今まさにイノセンスを渡そうとするヘブラスカへ向けられた。

「っ、ヘブラスカ!」

盾は間に合わない。
叫びには力など無く、直撃を受けてヘブラスカが倒れた。
リナリーが投げ出される。

「リナ……ッ」
「よそみを、しないで」

は振り返る。
銃を構える前に、また向かいの壁まで蹴り飛ばされた。
咳き込み、吐き出した赤が礫の末席に素早く加わる。
突っ込んでくるアクマを避けて、入れ違いに宙へ躍り出た。

「雪冕弾!」

体を反転させ、考え無しに引鉄を引く。
弾幕を擦り抜けるように、レベル4が飛んでくる。

「ぼくをみてくださいよ、かみさま。せっかく、あえたのに」

は二、三歩駆け、強い踏み切りで高く跳んだ。
くるりと回転しながら、盾を消し、腕を振る。

――磔!――

赤い釘がアクマに襲い掛かる。
その背後から連射弾を仕掛けて、足元に盾を戻した。
リナリーを踏みつけていた下方のアクマが、突如現れたアレンに吹き飛ばされる。
リナリーはまだ、イノセンスと同調しようとしている。
それなのに、何故。

「どうして……!」

どうしてコムイは、全て見ているだけなのか。
絶望して。
失望して。
憤慨して。
悔しくて、悔しくて悔しくて。
焦燥に駆られながら。

「行けよ!!」

神田とラビに叱責されても未だ動かない、白服へ向かって。
は、堪らず怒鳴った。

「行けよ! コムイ!」
……」

どうして、傍に行ってやらないんだ。
どうして、支えてやらないんだ。
どうして、こんなに近くにいるのに。
教団だとか、室長だとか、エクソシストだとか、余計な事は考えなくていい。
同じ思いをさせたくないんだ。
なのにどうして。

「失くしてからじゃ、遅いんだ!」

其処にいるのに。
妹が其処にいるのに!
俺には、もう叶わぬ夢だけれど。
傍に居たいとどれほど願っても、俺達にはもう、叶わないけれど。

――貴方達は、まだ、

視界に迫り来るアクマの姿は、熱い涙でぼやけた。

「行け!! アンタの手はまだ、あの子に届くだろッ!!」

声が割れるほど、怒鳴った。









胸を食い破られそうな苦しい空気に包まれて。
思いの丈が込められた悲しい言葉の弾丸を受けて。
コムイは、立ち上がった。

――彼の手は、もう届かないのだ

自分達はまだ、それを赦されているのだ。

「リナリー!」
「兄さん……」

座り込んだ妹は、睫毛に涙の粒を乗せて、微笑んだ。

「『いってきます』」

液体に姿を変えたイノセンスを、飲み込む。
コムイは慌てて駆け寄った。
イノセンスが適合者を殺す。
その過程を目の当たりにしている今、とても見逃せない行為だった。
程なくして、リナリーの足首から、血が吹き出した。

「ぅ、あ……っ」

胸を押さえて呻く妹の肩を抱き、唇を噛み締める。

「血が、止まらない……!」

何も出来ない。
何も、してやれない。

「ヘブラスカ! リナリーを診るんだ!」

ルベリエが叫んだ。
ヘブラスカが腕を伸ばしてリナリーの脚を探る。
体内にイノセンスが無いと分かったその時、足元の血溜まりが急速に固まった。
羽の生えた女性の彫刻のような「それ」を見て、リナリーが微笑んだ。

「私の覚悟……受け取って、くれた?」

顔の無い「それ」が、妹の脚に口付けるように腰を折る。
そして厳めしい漆黒のブーツへと、見る間に形を変化させた。
立ち上がったリナリーが、瞳を怒りに燃やして吹き抜けを見上げる。
コムイは彼女を、エクソシスト達を、見上げた。
イノセンスを持たない神田とラビは、既に満身創痍の状態で。
アレンは、第五研究室で負った傷も癒えないまま、体をイノセンスで無理に動かして。
はその遥か上空で、躊躇いなく「聖典」を操って。
リナリーが一歩、踏み出した。

「……いってきます」

言い置いて、彼女は跳ぶ。

――嗚呼、

彼らは、「神の使徒」なのだ。
イノセンスを与えられたからではない。
あの勇気と決意を、きっとそう呼ぶのだ。

「これなら……!」

ルベリエが傍らで拳を握った。
アレンを抱えて舞い上がったリナリーが、レベル4と交戦している。
一度上空を見上げたアレンは、振り切るように下方のレベル4へ向き直った。
神ノ道化を操って、リナリーを援護する。

「(本当に、勝てるのか?)」

リナリーは得体の知れない同調をしたばかり。
アレンは、動いているのが不思議なくらいの重傷だ。
瓦礫に叩き付けられた神田とラビも、もう無理は出来ないだろう。
「教団の神」でさえ、劣勢に追い込まれているように見える。
本当に、これで勝てるのか。
疑いと不安を、突如無線から聞こえたノイズが掻き消した。

『撤退は中止だ、コムイよ』

壁が乱暴に破壊される音。
視線を動かせば、煤だらけのクロスが此方を見下ろしていた。









もう、腕が動かない。
もう、脚が動かない。
もう、誰がどこにいるかなんて見えない。
どこが痛むのかも、自分が何を考えているのかも、もう分からない。
朦朧とする意識の只中に、ただ「家族を守る」その意志だけが明確だった。

――お兄ちゃん――

妹の声に従って跳び出せば、自分がいた筈の場所が深く抉られた。

「(…………)」

その声に怯えた日は数知れず、幻聴だと分かっているのに。
それでも、の呼び声に縋っている自分が浅ましい。
コムイを怒鳴りつけた直後から、反撃らしい反撃は出来ていない。
思えばその時から再び、の声が聞こえ始めた気もする。

――お兄ちゃん――

もう、いいのか。
もう、其処へ行ってもいいのか。
もう、君達の元へ参じていいのか。
甘美な誘惑を、もう一人の自分が払い除ける。
この世界はどうする。
家族が死んでもいいのか。
守りたいんじゃなかったのか。
何も守れずに死んでいいのか。

――駄目だ

何の為に、今まで多くの家族を見殺しにしてきたのだ。
何の為に、今まで多くの家族は、見殺しにされてきたのだ。

――お兄ちゃん――

落ちゆく体を目掛けて、敵が飛んでくる。

「あ……っ、……、」

首を易々と片手で掴まれた。

「ふふふっ……つかまえましたよ、『かみさま』」

宙にあった赤が、力を失って地面へ落ちていく。

――駄目だ

残っていた僅かな空気が、肺から出ていく感覚。
血に赤く染まった左手を必死に持ち上げて、レベル4の手に触れた。

「もう、にげるのは、やめにしましょう?」

アクマの声が囁く。
悪魔の声が囁く。
右手から、親しい重みが消えた。

――駄目、だ……

世界が、壊される。









「――お兄ちゃん――」









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