燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
Night.60 いもうと
坂の下の大きな木は、いつもの遊び場。
花を摘んできゃあきゃあ笑い合うと、友人のサーシャ。
は木の上に立ち、遠くを見つめた。
「、ま、待っててね! 揺らさないでね!」
息を切らせて木をよじ登ったトーマスが、幹にしがみついて座り込み、息をつく。
「なに見てるの?」
「んー? あの雲。うさぎみたいだなーって思って」
空に一つ、ぷかりと浮く雲をは指差した。
トーマスが空を見上げる。
「そうかなぁ、アヒルっぽく見えるけど?」
「え、うさぎだよ。ほら、あれがしっぽでしょ?」
「違うよ、絶対アヒルだって。くちばしがあるもん」
違う違うと互いに言い合った二人はもう一度空を見た。
「あれは、うさぎ」
「ううん。アヒル」
はため息をついてトーマスを見下ろす。
「なら、池に行こうよ。ほんとのアヒル見たら、絶対ちがうって分かるよ」
「いいよ。でも、そしたら絶対も、うさぎだなんて思わないからね」
「そんなことないよー、だ。先下りるねっ」
「ええっ!? あっ、待って!」
待ってってばー! と聞こえてくる悲鳴を置き去りにして、は木から飛び下りた。
作りかけの花冠を握りしめて、が駆け寄ってくる。
「どこいくの? お兄ちゃん!」
「ちょっと池まで。アヒル見にいくんだ」
「あっ、あたしも行きたいなー。いい?」
サーシャがその場に花冠を置いて立ち上がった。
ぱんぱんと土を払って、可愛らしく首を傾げる。
「うん、いいよ」
答えると、が跳び跳ねて手を挙げた。
「もっ! も行くー!」
「分かってるよ、いっしょに行こう」
妹と手を繋いで、は走った。
サーシャがくすくす笑いながら、木の下でトーマスを待っている。
走りながら振り返ると、地上まであと一歩というところで、トーマスが叫んだ。
「うさぎでもアヒルでも何でもいいから、待ってってばー!」
四人は笑い合う。
陽射しは暖かくて、通り過ぎる大人達は穏やかで、向けられる眼差しも優しくて。
――遠くからそれを見て、は立ち尽くした
もう、二度と手に入らないと知っている、夢を見ていた。
引き裂かれると知っている、幸せな夢を見ていた。
きっともう、悲しみの涙も、悔しさの涙も、怒りの涙も、全て枯れ果てたのだ。
は乾いた心で夢を眺めて、ふと目を覚ました。
「(……暗い……)」
部屋は異様に暗く、騒がしい。
音だけではない。
教団中の空気が乱れている。
襲撃、ノア、科学班、エクソシスト、リナリーの泣き声、婦長の言葉。
断片的な情報から、事態を把握し、起き上がった。
「(行かなきゃ)」
は掛け布団を握り締めた。
手が、震えた。
――行ったら、俺は
この一歩を踏み出したら、きっともう、二度と引き返せない。
唾を飲み込み、奥歯をきつく噛み締める。
『第五研究室壊滅!』
――それでも、俺は
震える息を必死で押さえつけ、は福音を手にした。
ベッドを下りて、靴を履き、閉ざされた扉へ向かう。
たったこれだけの距離が、遠い。
息が苦しい。
でも、この苦しさはきっと、イノセンスによるものだけではない。
「(何を、甘えているんだ)」
目眩を押し込めて手に力を込める。
この命は、とうに捧げた筈だ。
赦されない罪を贖うための命だ。
この世界を守る。
それ以外は全部全部、「余計なこと」だ。
は銃を振り上げ、扉を殴り付けた。
「(早く、早く、……早く)」
迷ってしまわないうちに。
身の程を弁えぬ想いに、飲み込まれないうちに。
一刻も早く。
願ったのに扉は開かず、代わりに後ろから腕を掴まれた。
驚き、勢いに負けて体勢が崩れる。
振り返って膝をつくと、泣き腫らした顔のリナリーがを見上げていた。
「行かないで……っ」
「離して、リナリー」
「絶対に嫌っ! どうして戦えるの!? ねぇ、おかしいよ、お兄ちゃん……!」
「(やめてくれ)」
けれどは、しがみつく彼女を少しも振り払えなかった。
「死んじゃうって、知ってるんでしょ!? ずっと、知ってたんでしょう……!?」
使わないって、言ったじゃない。
割れた声で、リナリーが叫ぶ。
俯いて、は唇に力を入れた。
「……リナリーが思ってるような理由で、戦う訳じゃないよ」
皆はきっと、誤解している。
そんな、聖人君子のような理由で命を投げ出せるほど、は「神」に染まってはいない。
結局いつだって、自分のことで手一杯なのだから。
「俺は自分のことしか、考えてないんだ」
「嘘よ、そんなの! お願いだから、行かないで、傍にいて……!」
願われて、それに応えたいと思うけれど。
「分かって、リナリー。俺は、」
大好きなこの世界で生きていられたら、どれほど嬉しいか。
そう思うけれど。
「皆が生きていてくれさえすれば、他に何も要らないんだ」
「全然、分かんないよ……っ!」
叫び声の度に、心臓の鼓動が聞こえる。
「お兄ちゃんもいてくれなきゃ、生き残れても意味がないの!」
押し潰されるように、胸が痛んだ。
「(俺だって、一緒に生きたい)」
愛するこの世界で、生きていたい。
生きていきたい。
けれどこの世界は、余りにも彼岸との距離が近くて。
余りにも無慈悲で。生き残る道を選べば、また目の前で「家族」が死んでいくのだ。
「……お願いよ」
婦長が静かに言った。
叶えられるなら、叶えたい。
生きたい。
一緒に生きたい。
けれどには、その資格が無いのだ。
生きてはいけない。
だって一体何人の「家族」を死に追いやったというのだ。
生きてはいけない。
生きたいなんて、願う資格はとうに失くした。
「此処に、此処に居てちょうだい。どうか、一人で行こうとなんて、しないで」
は、雫を溢さないようにそっと目を伏せた。
生きたい。
けれど、伸ばした手の先で、手を伸ばせない寂しい場所で。
「家族」が死ぬ光景だけは。
それだけはもう、二度と、見たくないのだ。
もう二度と、「家族」を失った世界を生きたくない。
は目を開けた。
生きたい。
生きてはいけない。
失いたくない。
ならば、選ぶ道はもう、一つしかない。
間違いなく本心から、自分の為だけに、言える。
「皆の気持ちなんて、知ったことじゃない。生きていてくれれば、それでいい」
どうか皆は、死なないで。
生きていてくれさえすれば、きっとその後の未来を切り開けると思うから。
丁度自分が、この「世界」を見つけたように。
「言ったろ。俺は、自分のことしか考えてないんだ」
投げ捨てるように、醜い気持ちを吐き出した。
リナリーがを見上げて目を瞠る。
嗚呼、なんて愛おしい。
愛しい、愛しい、「過ぎた世界の形代」。
この子が居たから、もう一度、大切なものを作ろうと思えた。
もう一度、世界を愛そうと思えた。
君達と、ずっと一緒にいたいと思えた。
「(これが、罰だというのなら)」
これが、「幸せな世界」を壊した罰だというのなら。
こんなに相応しいものも、無いだろう。
『皆、一度しか言わないのでよく聞いてくれ。この本部から、撤退する!』
張り詰めたコムイの声が、無線から聞こえる。
涙はとうに引いた。
そうだ、言える。
命が潰えるとしても、自分の未来が潰えるとしても。
「皆が生きていてくれるなら、」
何度でも、本心から言える。
「……俺は他に、何も要らない」
「――ッ! お兄ちゃん!!」
背後で、バン、と扉が開く音がした。
差し込む光。
流れ込む風。
は微笑んだ。
「リナリー」
あの日、たった一言の呼び声に、世界を見つけた。
向けられる想いを、知らぬふりで蔑ろにした日々もあった。
想いを押し付けていることに、きっと気付いていただろうに。
彼女は、応えてくれた。
それにが、どれほど救われたか。
今なら、言ってあげられる。
「ずっと『妹』でいてくれて、ありがとう」
彼女の濡れた頬を片手で拭って。
逸らしていた目をきちんと合わせて、は笑った。
「――ありがとう」
声が震えなくて、良かった。
温もりから手を離し、立ち上がる。
振り返り、扉を開けてくれたその人に問う。
「レベル4は、何処に?」
ルベリエが躊躇うように喉仏を動かし、言った。
「……室長を、狙っている。ヘブラスカの間に向かうつもりだ」
「そうですか。……長官、」
踏み出した一歩に、後悔はない。
彼の横を通り抜け、笑みさえ浮かべられた。
「扉、ありがとうございます」
今度こそ守るんだ、と前を見据えて。
廊下を走る。
腕を振って、駆け抜ける。
一瞬だけ、俯いた。
振り上げた右手の甲を、目に押し当てる。
――お兄ちゃん――
二つの声音。
――お兄ちゃん――
唇を、噛んだ。
――お兄ちゃん――
顔を上げる。
俺は、誰だ?
・。
違う。
俺は、エクソシスト。
今はそれだけでいい。
これからも、それだけでいい。
黒の教団の、エクソシスト。
イノセンスの適合者、神の兵器。
神の寵児、神に魅入られた者。
常に前を向かなければ。
皆に背中を見せ続ける存在で居なければ。
この身が、矛。
この身が、盾。
重たい仮面を、幾つも重ねた。
――お兄ちゃん――
二つの声音。
「ごめんね」
――
たったひとりの、ぼくのいもうと
イノセンスを全て持ち去り、ヘブラスカを囮にしてアジア支部へ逃げ込む。
厳しい決断を下したコムイを守るため、神田は探索部隊達と共に昇降機に乗り込んだ。
最高のスピードで昇降機が下りていく。
結界装置が破られた音。
「(来たか)」
与えられていた、十秒の猶予が尽きた音。
神田は腰を落とし、備品の刀を構えた。
イノセンスでもないこれで一体どれくらい持ちこたえられるだろう。
いざとなったら、この体そのものをコムイの盾にするしかない。
余裕の笑みを浮かべたレベル4が二体とも、羽を広げて飛んでくる。
「ヘブラスカ!!」
コムイが叫ぶ。
神田は呼吸を整えて、上を見上げ――割り込んできたものに目を奪われた。
途中の階から、吹き抜けに身を投げたのは。
「チッ!」
金色は背中から落ちて、レベル4達と向かい合っている。
飛び散る赤。
――聖典――
神田は刀を手放した。
上空に小さな赤い盾が出来るのと、レベル4の攻撃がその盾に直撃するのは、ほぼ同時だった。
防ぎきれなかった爆風が彼の体を落とし、昇降機すら傾かせる。
腕の中に一人分の重みが落ちた。
神田はそれを抱えて、落下の衝撃に耐えた。
「兄さん!!」
ヘブラスカのいる方向から、リナリーの悲鳴が聞こえた。
腕の中のが呻く。
神田は身を起こして怒鳴った。
「何してんだテメェは!」
「あはは……いや、ユウなら、受け止めて、くれるかなって……」
「ッ、の馬鹿!」
いつも通りの他愛ないやりとりが、緊張を和らげる。
痛めた肩を押さえて、言葉を失ったようにコムイが此方を見ていた。
助けもなしに立ち上がり、が二人の探索部隊に微笑む。
神田も自然と視線を吸い寄せられた。
「よく、堪えてくれたね」
探索部隊が呆然と唇を開く。
「、様……っ」
彼らにとっては、一連の絶望にようやく射した、希望の光に見えただろう。
安堵にうち震えながらを見つめている。
それににこりと笑みを返し、が表情を引き締めた。
「もう、大丈夫。後は任せて、先に逃げてくれ」
二人は決然と頷き、物陰へ逃げていった。
「コムイ! ! と、ユウか!?」
入れ替わりに、ラビが駆けてくる。
柵の上にはリナリーの他にルベリエも佇んでいる。
「……来ちゃったのか」
「逆効果、だったかもしんねぇさ」
苦笑するの肩を、ラビが叩く。
「おやおや? 『しつちょう』」
「おいかけっこは、もうおしまいですか?」
神田は刀を拾って立ち上がった。
コムイを守るように、レベル4へ向かって構えをとる。
二人が横に並んだのが分かった。
「リナリーのとこ、行ってやってよ。コムイ」
が笑った。
「俺じゃ、駄目だ。……『兄さん』じゃなきゃ」
感情を、身体を引き絞られるような苦しい空気に、場が満たされる。
神田はちらと金色を見遣り、視線を戻した。
「おいラビ、下がってたっていいんだぜ」
「またまたー」
廊下に立てられていた旗を槍のように構え、ラビが肩を竦める。
レベル4が笑いながら、その言葉をそっくり真似した。
「またまたぁ」
「ごじょうだんを」
滑るように二体が下りてくる。
宙に飛び散っていた赤い血液が、金色の元に集まる。
「一体はオレらが何とかするさ! !」
「チッ、仕方ねぇな」
「配分おかしいだろ」
三人はほぼ同時に言い合った。
呆れたような笑みと共に、彼が神田とラビの間を駆け抜ける。
煌めく黄金色の残滓。
「そっちは任せる」
赤い盾を足場に、が宙を駆け上がる。
それを最後まで見ることなく、神託を胸に、神田とラビは残る一体に飛び掛かった。
生きたいと、願った
償いたいと、願った
守りたいと、願った
叶わないと、いうのなら
せめて、僕を神にして
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