燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
何故、自分なのだろうと
考えるたびに、思うのだ
僕はまた
世界を失うつもりなのか、と
Night.59 何度でも立ち上がれる
「アレン・ウォーカーが、敵の手先かもしれないって話、聞いたか?」
「中央庁が出張って、色々と嗅ぎ回ってるって噂だぞ」
「まさか! あんな子供が、ノアだっていうのか?」
「イノセンスが伯爵の武器と酷似していたらしいが……」
「クロス元帥も疑われて、師弟揃って監視がついてるんだと」
恐怖と悪意を孕み、食堂中で交わされる、噂話。
幹部会議の結果だけではない。
中国で、味方を裏切り咎落ちしたスーマン・ダークを助けたことも、話を助長しているらしい。
昨日まで、エクソシストと崇め信じていたのに、この掌の返し様だ。
ジョニーは堪らなくなって、テーブルをバシンと叩き、叫んだ。
「アレンはいい奴だよ!!」
一瞬しんと静まり返った団員達は、暫くしてまた囁きのうねりを起こす。
上げた腰を椅子に下ろして、ジョニーは震えながら唇を噛み締めた。
いい奴か、そうでないかは、今は問題ではないのだ。
分かっている。
けれど、アレンの人間性はせめて、疑ってほしくない。
「ウォーカーとクロス元帥といえば……彼は、どうなんだ」
「馬鹿言え! 疑うなんて、お前、正気か? 恩を忘れたのか!?」
「そもそも、帰還されてからお姿を見かけないが、まだ医務室に?」
「うちの隊長が見舞いに行ったら、婦長に断られたらしいぞ」
「そんな……おい、これから……大丈夫なのか……?」
だんだんと逸れていく話にも、悔しさが募った。
スプーンを取り、がつがつとオムライスを掻き込む。
沸騰しそうな頭と、滲む視界。
「(皆、ひどいよ)」
心配している風で、その実、「神」の不在を気にしている。
そうして向けられる期待に応え、満身創痍になった結果、休む暇すら許されないなんて。
「(二人とも、オレよりも年下なんだ。アレンなんて、まだ、ほんの子供なのに)」
辛くない筈がない。
まるで対極に在って、同じように贄とされた、二人は。
辛くない訳がない。
ジョニーは喉に詰まりそうなほど、食べ物を詰め込んだ。
――ならば、貴方の代わりにリナリー・リーかアレン・ウォーカーを連れていきます――
役人から放たれたこの一言で、は身を起こしたのだという。
「お兄ちゃん……」
「黒い靴」をヘブラスカに預け、リナリーは自室のベッドに座り込み、枕を抱えた。
自身のイノセンスが、寄生型に進化する可能性があるという。
初めて聞かされた事実もあった。
「(寄生型は、寿命が短い)」
アレンも、クロウリーも、そうだなんて。
リナリーは、全く知らなかった。
を見て、薄々気付いてはいたけれど、誰も教えてはくれなかった。
「聖典」の副作用は、いわばそういうことなのだ。
「お兄ちゃん……っ」
大丈夫なんじゃ、なかったの。
あの人が、知らなかった筈がない。
兄はきっと、彼には全て話していただろうから。
「そう」なら使ったりしないと、言ったのに。
知っていて、何故。
何故あんなにも躊躇いなく戦えるのか。
ぶつけてやりたい言葉を、熱くなる瞳に託す。
締め付けられるような胸の痛みに、枕をかき抱いた。
「(きっと、私だけが知らなかった)」
何故真実から遠ざけられたかなんて、分かっている。
自分は「妹」だ。
隣に並ぶ「仲間」にも、共に歩む「恋人」にも、なれない。
そんなの、とっくの昔に気付いていた。
気付いてからは、「妹」でもいいのだと、自分を納得させた筈だったのに。
隣に並べなくても、構わないから。
「……教えて、欲しかったよ……」
せめて、打ち明けて欲しかった。
思われているのと同じくらい、貴方を思っているのに。
貴方だって他の誰とも変わらない、大切な世界の一部なのに。
――どうして、戦えるの――
怒鳴りつけてしまうかもしれない。
――どうか、ずっと私の世界にいて――
顔を見たらまた泣いてしまうかもしれない。
それでも。
この涙が収まったら、病室を訪ねよう。
固く心に決めて、リナリーは枕をぎゅ、と目に押し当てた。
その時。
『敵襲!!』
ゴーレムが凶報を告げた。
――「卵」がある第五研究室にノアが出現
――班員達が多数取り残されている
――エクソシスト二名が交戦中
――各元帥、マリ、ミランダは至急方舟の元へ
矢継ぎ早の報せが、扉の外で恐慌を引き起こしている。
泣いている場合ではない。
リナリーは枕を放り投げて立ち上がった。
私の世界を、侵させやしない。
そのための覚悟なら、いつでも出来ている。
「(……イノセンスを、体内に)」
昔に見た、使徒を作る実験。
数多の咎落ちを生んだ、あの実験。
でも、適合者の自分なら同調できる可能性は高い筈だ。
微かな希望に背中を押されて、リナリーは部屋を飛び出した。
黒い靴を履かない素足は、嘘のように軽い。
こんな自由は、きっと、もう二度と来ないだろう。
――私は、兄さんや皆を守るためなら……!――
――死んでもいい、って?――
此処にいてくれ、と。
扉の向こう側、引き絞るような声でコムイが言った。
眠るクロウリーや、非戦闘員と共に、結界により隔離された病室。
照明も落ちた部屋の中、リナリーが胸元で泣いている。
同じように閉じ込められたラビが、傍らで俯いた。
婦長は、リナリーを抱き締めた。
「此処にいましょう、リナリー。室長の気持ちも、分かっているでしょう……?」
世界は、この子達に厳しすぎる。
怪我には無頓着で、痛みにも慣れきって、尊厳が冒されることにさえ諦めを学ばせて。
「私、兄さんを悲しませるつもりなんてなかった……でも、皆と生きるためには、」
そんな少女の嘆きすら、神は聞き届けてくれない。
婦長は唇を噛み締める。
自分には、こうして思いを抱き止めてあげることしか出来ないのだ。
「私は、戦うしかないから……、兄さんを悲しませたくなんか、ないのにっ」
払いのけられた嘆きを、願いを、拾い上げてくれた「神」にだって、今、誰が縋れるだろう。
彼の未来すら刈り取って。
「イノセンスなんて、大っきらい!
どうしてこんなに苦しまなくちゃならないの! どうして、兄さんを苦しめるの!!」
この世界は、厳しすぎる。
『第五研究室壊滅! アクマ、科学班フロアに侵攻しました!』
ブザーと共にもたらされた報せに、誰もが息を飲んだ。
「レベル、4……!?」
ブックマンの弟子であるラビが、驚愕を露にしている。
研究室内のエクソシストの安否は不明だと言うが、今動ける者は皆その場にいた筈だ。
ならば残されたサポート派に、武器の無いエクソシストに、一体何が出来るというのか。
「(もうやめて、どうか……神様……っ)」
――ぞわり、と。
風が、肌を嘗めた。
思わず、呼吸が止まった。
「(違うの)」
弁解をしたいのに、言葉にはならなくて。
「(貴方を……貴方を呼んだんじゃ、ないのよ)」
ただ呆然と、傍らを擦り抜ける黄金を見上げた。
右手に厳めしい銃を携えて、彼はゆっくりと歩いていく。
「…………」
恐ろしいくらい研ぎ澄まされた空気。
驚く程鋭い瞳に、ぎらつくような光を宿して、扉に辿り着いた彼は徐に右手を振り上げた。
ガン、銃と扉がぶつかり合う硬い音が、部屋の静寂を割り裂いた。
「誰か、そこにいるんだろう?」
低い、けれど明瞭な声が、扉の外に問い掛ける。
「此処を開けて。俺が、行くから」
扉の向こうからは、困惑しきった警備班員の声が聞こえた。
何があっても彼を出すなと、きつくコムイに言われていたからだ。
理性を遥かに超えた神の言葉の誘惑に、彼らは瀬戸際で踏みとどまった。
「し、しかし、様……!」
反論を赦さないとでもいうように、がもう一度腕を振り上げ、扉を殴り付ける。
婦長は、余りにも乱暴なその音に肩を震わせた。
息を切らせて、それでも黄金は言い募った。
「開けてくれないなら、今すぐそこを退いてくれ」
福音が、光を放って形を変えた。
扉を破壊する気だ。
すぐに気付いたのに、抱き締めて引き留めたいと思うのに、凍りついたように体が動かない。
ラビが目を瞠ってを凝視している。
婦長の腕の中で、リナリーが動いた。
彼の腕を、強引に引っ張る。
勢いに負けて体勢を崩したが、膝をついてリナリーをただ見つめ返す。
ひゅ、と鋭く息を吸い込んで、リナリーが言った。
「行かないで……っ」
「離して、リナリー」
「絶対に嫌っ! どうして戦えるの!? ねぇ、おかしいよ、お兄ちゃん……!」
首を振って腕にしがみついた彼女の声は、泣き濡れて、割れていた。
「死んじゃうって、知ってるんでしょ!? ずっと、知ってたんでしょう……!?」
使わないって、言ったじゃない。
しゃくりあげて泣き喚くリナリーを見下ろし、腕を解かないまま、彼が小さく呟いた。
「……リナリーが思ってるような理由で、戦う訳じゃないよ」
俯いた表情は、乾いた笑みの形を作っていた。
「俺は自分のことしか、考えてないんだ」
「嘘よ、そんなの! お願いだから、行かないで、傍にいて……!」
「分かって、リナリー。俺は、」
リナリーの腕に手をかけて、は誰とも目を合わせずに微笑んだ。
「皆が生きていてくれさえすれば、他に何も要らないんだ」
「全然、分かんないよ……っ!」
少女の叫び声だけが、部屋に谺する。
「お兄ちゃんもいてくれなきゃ、生き残れても意味がないの!」
先刻のコムイも、きっと同じ気持ちだっただろう。
リナリーもきっと、思い知っているのだろう。
我々は皆、血の繋がりがない家族。
自分の代わりに死ね、なんて誰が言えるものか。
皆で。
「皆」で未来を掴みたいのだ。
其処には、誰も欠けてはならないのだ。
「……お願いよ」
婦長は絞り出した。
「此処に、此処に居てちょうだい。どうか、一人で行こうとなんて、しないで」
叶えて。
私達の願いをどうか汲み上げて、叶えて。
婦長は、俯いた漆黒を必死に見つめた。
一瞬は、焦れったいほどに長かった。
がそっと目を伏せる。
唇を引き結んで、彼は、目を開けた。
「皆の気持ちなんて、知ったことじゃない。生きていてくれれば、それでいい」
瞼の下の溢れそうな雫を、一筋も溢さないままで。
冷たい声が、告げた。
「言ったろ。俺は、自分のことしか考えてないんだ」
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