燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









何故、自分なのだろうと
考えるたびに、思うのだ
代わりの誰に
十字架を背負わせるのか、と



Night.58 両の手を伸ばしても









「止めました。止めましたわ! 当たり前です! なのに、リナリーの名前を出されて……っ」









アレン・ウォーカーには、中央庁からの監視役ハワード・リンクが。
クロス・マリアンには「世話役」という名の監視が、それぞれつくことになった。
本来、十三人である筈のノアの一族。
その、異分子である「十四番目」のノアが、クロスに何かを託したらしい。
そして、それがアレンにも深く関係している。
初めて聞かされる事ばかりだ。
中央庁はこれを、クロスへ生成工場破壊任務を通達した時から把握していたという。

「……っ」

コムイは手を止めて、目を固く瞑った。
考えなければならない案件が、山のようにある。
伯爵側から奪取したノアの方舟が安全に使えるのか、調べなければならない。
方舟と共に獲得した、アクマの卵も分析を急がせなければ。
彼方が体勢を立て直してしまう、その前に。
けれど、室長の仮面を塗り潰して、一個人としての激しい後悔が気怠くのし掛かる。
今なら、分かる。
彼が声を上げて泣いた理由も、任務の肩代わりを申し出てくれた理由も。
いつだってコムイの妹を優先して守ってくれた理由も。

――今度は、守りたいんだ――

どんなに苦しかったろう。
どんなに羨ましかったろう。
どんなに、妬ましかっただろう。
それでも、そんなことはおくびにも出さずに。
今まで、今なお、リナリーを守ろうとしてくれた。
知らせてくれなかったから、何も知らなかった。
事実だ、されど言い訳だ。
装うこともできず、痛みに顔を歪めながら彼が呻いた名前は。

――――

もう二度と届かない、の「世界」。

「室長? ……どうしたんすか?」
「ああ、うん……何でもない、大丈夫」

リーバーに声を返しながらも、コムイのペン先は所在なく書類の上を彷徨った。
妹を救えなかった力によって此処に縛られた彼の、その立場におかれたなら、自分は。
仮に妹を失ってなお、この位置に立つことを求められたなら。
伯爵への憎しみに駆られずいられるだろうか。
残ったエクソシスト達に理不尽な怒りや妬みをぶつけず、いられるだろうか。
すぐ側にいる「兄と妹」を、直視出来るだろうか。

「()」

どうして今まで、その場所で耐えてこられたんだ。









「妹、だったのか」

それがお前の、失くした世界か。
ぽつりと呟いて、バクは彼の額に手を伸ばした。
乱れた前髪を整える。
、と。
呻きながらが繰り返すたびに、クロスは一層医務室への足を速めていた。
その赤髪も、今は居ない。
様子が落ち着いたのを見計らい、休息を取りに行った。
間もなく戻る頃だろう。

「謝り倒されては、お前も怒れないだろうに……アイツは、そればかりだったな」

バクは苦笑を交えて声を掛ける。
会議の後、コムイはベッドに縋りつくようにして謝っていた。
治療の邪魔だと諌めるドクターも、中央庁のことで憤慨しきりのナース達のことも意に介さず。
クロスに力づくで引き剥がされるまで、延々と声を絞り出していた。
恋い焦がれる訳でもない、ただの一人の少女に、何故あれほど思い入れたのか。
蓋を開ければ、これほど分かりやすい理由もなかった。
これほど固い決意も、当然のものだった。
無自覚であれ、その決意を頼り、利用した、と。
利用して、彼を深く傷付けたのだと悔いる、コムイの気持ちはよく分かる。
バクだってとうに、比較にならない過ちを犯しているのだ。

――僕が「神様」だなんて言わなければ、君はもっと楽に生きられたのか?

謝っても、怒りをぶつけてくれと頼んでも、バクの気持ちしか収まらないのなら。
バクはいっそ、自分だけは二度とそれに触れないと、縋らないと決めた。
蒔いた種を回収出来ないのなら、自分だけは、その恩恵に与るまいと、決めた。

「(いつ、コムイは気付くだろう)」

祀りあげた我々には、等しく背負う責任があるのだと。
がチャ、とドアノブが鳴った。
バクは笑い掛ける。

「ほら、帰ってきたぞ、









扉の前で、ミランダは立ち止まった。
訪ねようか、それとも。
睡眠不足を解消したミランダは、先程までリナリーやアレン達と共に食事をしていた。
アレンに中央庁の監視役がつくと聞いたのも、つい先刻。
ならば、同じ「クロスの弟子」は。
は、どうなるのだろう、と。
未だ病室から出られないとは聞いている。
でも、聞いているだけだ。
帰還してから、ミランダはに一度も会っていなかった。
同じ部屋で眠り続けるクロウリーの具合も気になる。

「(ク、クロス元帥が、いるのよね……)」

躊躇してしまう最大の原因が、クロス・マリアンだ。
師のことをとんでもなく恐れているアレンの話を聞く限り、側には近寄りたくない人物である。
が行った、クロス直伝の修業も恐ろしかった。
しかし、師と合流する話を聞いたときのは、言葉と裏腹に安堵の表情をしていた。
もしかしたら、それほど悪い人ではないのかもしれない。
ここは勇気を出すべき時だと、自分に言い聞かせる。
震える手を挙げ、扉を叩く準備をした。
何度も深呼吸をして、いざ。

「しっ……失礼、します……」

声を裏返して、ミランダは部屋に入った。
二つ並んだベッドの手前に、金色が眠っている。
奥には、クロウリーの姿。
凄まじい腹の音が聞こえるが、どうやらそれは奥の彼が音源らしい。
ラビが嘆いていたのはきっとこのことだ。
ならばいっそうのこと、思ったより元気そうで良かった。
ミランダはほ、と息をつき、敢えて視線を避けていたその相手へ、遂に目を向けた。

「……ミランダ、っつったか」
「は、はい! その……っ、くんのおみっ、お見舞い、に……」

呆けたように此方を見ていたクロスが、答えを聞いて吹き出す。

「そう堅くなんなよ」

吃驚するくらいの声量で、クロスが笑う。
傍らの彼が起きやしないかと、ミランダの方がはらはらしてしまった。
勧められた椅子にかけ、そっとを窺う。
帰還した後にも無茶をしたらしいと聞いた。
「聖典」の変質についても、発覚したその日の内に聞いている。
少し速い呼吸も、青みがかって見える顔色も、全部が、嘘なのでは。
そう思えるほど、眠るの表情は穏やかだった。

「よかった……」

ミランダは思わず微笑んだ。
もっとよく顔を見ようと身を乗り出して初めて、クロスが自分を見つめていることに気付いた。

「ごごっごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」

反射的に、謝りながら飛び退く。
クロスが肩を竦めて苦笑した。

「つい見惚れちまった、悪かったな」

女癖は極めて悪いのだと、アレンは言っていたけれど。
今の言葉はそれに起因するものではないと、ミランダは思った。

「(私に、そんな魅力がある訳が……)」

ならば、この人に見つめられる理由は。

「……くんから、お話、聞きました。似た人が居た、って」

クロスが目を瞠る。
へ視線を走らせ、言った。

「そうか」

まるで、慈しむような眼差しで。









目を覚ましたが、早速顔を顰める。

「……ミランダ、変なこと、されてない?」
「えっ? え、う、ううん、何も」
「本当……? 遠慮しないで。言っていいんだよ」

微睡みの抜けきらない声で辛辣な言葉を吐いた弟子の額を、クロスは軽く叩いた。

「まだ何もやってねぇよ」
「『まだ』、なんですか」

呆れた表情のを宥めるように、ミランダが慌てて身を乗り出した。

「あああの、あのね、リナリーちゃんも元気よ。怪我も治ってきてて」
「そっか、よかった」

クロスにとっては、事ある毎に怯えがちなミランダの、頼りない言葉。
それが弟子にとっては、随分確信の持てる言葉に聞こえるらしい。
先程など、クロスは心底驚いたのだ。
まさかが、他人の前で自分から過去に触れたなんて。

「そうだ、ミランダ、鍵を……あれ? どこだ……」

もぞもぞと胸元を探る金色に、クロスは枕元を指差した。
視線が指先をなぞる。

「それか?」
「あ、うん、そう」

外してやったときには、不思議なものを首に下げていると思ったものだ。
借り物だったのかと、ようやく得心した。
鍵をぎゅ、と握り締めて、それから、は握った手をミランダへ伸べた。

「これ……ありがとう」
「どういたしまして」

ミランダが微笑んで、鍵を受け取る。
対照的に、が僅かに目を伏せて、呟いた。

「でも、ごめん」

首を傾げた彼女からはっきりと目を逸らす。

「俺、……約束、破った」

逸らした漆黒は、クロスの眼差しとも交わらずに、自身の手を見つめていた。
その手に、どんな約束を握っていたのか、クロスは知らない。
しかしこの弟子が破る約束が、どんな類のものかは想像がつく。
クロスは顔を顰めた。
けれどきっとミランダは、大人しく引き下がって、優しく許してしまうのだろう。
そう思っていたから、彼女が返した言葉は、少し予想外だった。

「……そうね」

クロスは、ミランダへちらと視線を移す。
唇を噛んで目を伏せた彼女は、金色が握った拳をそっと手で包んだ。

「でも、いいの」

姉のように優しく微笑んで、ミランダは言った。

「いいの。くんは今、生きてくれているから」

が、ぱっと視線を上げた。
目を瞠って、ミランダを見つめる。
クロスは、弟子につられて止めてしまった息を、一拍遅れて吐き出した。

「(だから、か)」

ミランダはきっと、「神」としてのを求めていない。
自分と同じ人間として、同じく限りある生命として。
向けられる想いに、自身は戸惑うばかりなのだろうけれど。
彼の無意識は、有らん限りの信頼を彼女に寄せている。だから。

「……ミランダ、俺は」

だから、自覚できない虚しさが、彼を途方に暮れさせる。
彼の思考の枠を越えたところで、感情が溢れているのだろう。
息を詰めたままのの胸元に手を当ててやる。

「だって、……俺、は……」

切れ切れの呼吸。
じわりと滲む漆黒が、答えを求めるようにクロスを見上げた。
クロスは何も言わずに見下ろした。

「(少しは、思い知れ)」

「武器」で在ろうと。
「使徒」で在ろうと。
「神」で在ろう、と。
思い詰めて作り上げた堅い鎧を、突き崩そうとする衝動が、まだ残っていたのなら。
どうか少しでも感じて欲しい。
たとえ、理解出来ないとしても。
結局辿り着く場所が、変わらないとしても。
が、クロスから目を逸らした。
息を弾ませ、瞼の下に煌めきすら押し込めて。
言葉を飲み込んだ彼は、僅かに視線を上げて微笑んでみせた。

「……ありがとう、ミランダ」

――嗚呼、やはり

クロスは立ち上がり、二人を残して奥の部屋へ入った。
婦長が振り返る。

「どうされました? 何か……」
「何でもねぇ」

八つ当たりをするように吐き捨てて、扉に背を凭れた。









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