燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
誰かの望みを叶えるには
ただ在るがままを信じるしか
術が、無いから
たとえ、何を偽られても
Night.57 唯一の教義
隣のベッドにかかっていたカーテンが、静かに開いた。
出てきた赤髪の男と、神田の視線がかち合う。
互いに無言のまま、クロス・マリアンが部屋を抜け出した。
斜め前で読書に耽っていた筈のラビが、むくりと起き上がった。
「流石に緊張すんな、あの人いると」
ち、と舌打ちだけを返して、神田は上着を手にとる。
同意をするのは癪だが、居心地が悪かったのも確かだ。
伸びをするラビを尻目にベッドを下りると、カーテンの向こうから掠れた声が聞こえた。
「……おじ、さん……?」
ラビが気まずそうに眉を顰める。
何も考えずにカーテンを引き開けた神田も、そのまま金色を見下ろして固まった。
今はどんな顔で会えばいいのか、気持ちの整理がついていない。
漆黒が、此方を見上げた。
知らぬ間に背後に寄ってきていたラビが、いつも通りの調子でに笑い掛ける。
「よ、」
が緩慢にラビへ視線を移した。
ぼんやりした声が、ラビ、と呟く。
緩い眼差しが神田を捉え、横に逸れた。
「元帥なら、多分会議さ」
視線の行方をいち早くラビが告げる。
思いの外すんなりと、納得したようにが頷いた。
ラビに助けられながら水を飲んで、一息ついた姿は想像よりずっと「いつも通り」だった。
「ちっ」
何で自分がこんなにもやもやと考えなければならないのか。
どことなく癪に障って舌打ちをすれば、金色は眉を下げて笑った。
「皆……無事、だった?」
「ああ、じじいもマリも、チャオジー達もな。クロちゃんもほら、腹の音が五月蝿いのなんのって」
記憶は、方舟の中で途切れているのだろう。
どことなく眠そうに、が目を動かす。
よかった、と唇が呟いた。
「アレンは、どこ?」
「ん? 向かいさ、ほら」
ラビが、正面のベッドを指差した。
こんもりと盛り上がった布団。
ああ、とが頷ききる前に、神田は口を挟む。
「モヤシならさっき出てったぞ」
「はれ? じゃああれ、何なんさ」
首を傾げながら、ラビがベッドへ近付いた。
アレンー? と呼びながら彼が捲った布団の中には、使用済み食器が積み重なっている。
「……食後かよ……」
ラビのげんなりした呟き。
カランと音を立てて落ちたスプーン。
「はは……」
が呆れたように笑う。
肩で息をして、ふ、と目を閉じた。
「ミランダも? ……リナリーも?」
「同じ部屋な訳ねぇだろ。……無事だ」
いつも通りぶっきらぼうに言えば、安堵の笑みを浮かべた彼が目を開ける。
「よかった」
神田は、ラビに視線を投げた。
ラビが此方を見ることなく、に声を向ける。
「は、平気さ?」
問われた金色が頷くように瞬きをした。
少し速く、浅い呼吸のまま、彼は笑った。
「大丈夫。……すぐ、慣れるから」
舌打ちを一つ落として、神田は顔を背けた。
そういうことを、言っているのではない。
彼だって、分からない訳ではないだろう。
ならばきっと、敢えて、話題を取り違えてみせたのだ。
こいつは。
「そっか」
ラビが、明るい声で応えた。
訪れた一瞬の沈黙を、ノックの音が破る。
三人が三人とも、逃げるように視線をそちらへ向けた。
「誰さ?」
よいせ、とラビが立ち上がる。
歩き出そうとする足を止めたのは、奥の扉が開く音。
「何を考えて……っ」
婦長が眉を吊り上げて、憤りながらつかつかと此方にやってくる。
ちらりと三人を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
「目が覚めたのね、」
よかった。
一言だけ残し、再び厳しい表情で前を向いた婦長が、扉を開いた。
「それが、『14番目』の意志だったのでは?
アレン・ウォーカーは、『14番目』が残した奏者の資格なのでしょう?」
一瞬驚きに身を任せてしまった。
何故、中央庁長官マルコム=C=ルベリエが「14番目のノア」のことを知っているのか。
教団幹部が不思議そうな顔をしているところを見ると、中央庁が独自に手に入れた情報なのだろう。
クロスは、無理矢理に笑みを作った。
「さぁ……何の事だか」
「思い当たりませんか? おかしいですねぇ」
追及を避ける為の笑顔だったのに、それを看破するようにルベリエが笑った。
「ですが、知らないのなら、仕方がない」
彼の横に居た青年が、静かに扉へ向かう。
「貴方の右腕に、聞くまでです」
重く開かれた扉。
流れ込む空気。
息を、呑んだ。
何故、
「…………?」
――まだ起き上がれないはずなのに
中央庁の役人に両腕を捕われ、後ろから押されるように、が会議室へ足を踏み入れる。
俯いた彼の顔は窺えないが、肩で息をしているのだけは分かった。
「ッ、コムイ!!」
「ボクも聞いてない! 長官、どういう事ですか!?」
バクとコムイの怒声が飛ぶ。
ティエドールとクラウドが腰を浮かせ、しかしソカロがそれを制した。
役人の腕が、彼から離れる。
金色はふらつき、しかし次の瞬間には胸元を握り締めて踏み止まった。
「彼は絶対安静だと……!」
「何も此処で戦えと言う訳では無いのですよ。やぁ『神様』、お久しぶりですね」
彼が、手を下ろして顔を上げる。
服の胸元には、皺が深く刻まれていた。
背筋を伸ばし、息をついて、が笑う。
「……こんにちは」
彼の我慢強さを持ってしても、流石に声にまで力を篭めることは出来なかったのか。
若干掠れたテノールが、弱々しく空気を渡る。
「、駄目だ。一緒に戻ろう」
「大丈夫」
立ち上がったコムイに、黄金が笑みを向けた。
「大丈夫だから」
声が、いつもの調子を取り戻している。
ルベリエが、テーブルの向こうで満足そうに微笑んだ。
「証人が彼である必要は無いんですよ。あの場には、リナリー・リーも居ましたから。
そうですよね? 」
コムイがはっとした顔でを見つめ、言葉を飲み込んだ。
病室には婦長も神田もラビも、彼を止められる人間が居た筈。
それでもが此処へ出てきたのは、「世界」を守りたいが為としか思えない。
ルベリエが彼を手招く。
「さぁ、こちらへ」
促されるままに、は歩き出した。
一歩ごとにその足取りは確かさを増していく。
クロスは、空席を挟んで横に立った弟子を見上げた。
「、」
ちらと向けられる視線。
力無い微笑。
大丈夫、と唇が動く。
「座らないのかね?」
「いいえ、このままで」
笑顔の会話の下で、の左手がテーブルの端を強く握った。
「よろしい。此処に呼ばれた理由は、キミならもう、分かっているのだろう?」
「さあ? 彼らは、俺を此処に連れてくるように、としか命じられていないそうですよ」
自分を連れて来た二人の役人を斜めに見上げ、が確認するように微笑んだ。
いつもよりは弱い空気が、室内を満たしていく。慌てて役人達が頷いた。
「キミを呼んだのは、アレン・ウォーカーと、そこのクロス・マリアンについてお聞きしたいことがあるからです」
「自慢の弟弟子と、師匠です。これ以外に何か?」
「他にも言うことがあるでしょう?」
「仰る意味が、よく分かりません」
は微笑みを崩さない。
「ウォーカーと出会ったのは、キミが十五の時だね?」
「ええ。弟弟子が出来たと」
「それから一年、二人と行動を共にした」
「その件に関しては、……、許可を頂いた筈ですが」
胸が浅く、速く動いている。
言葉の切れ目に小さく吐かれた息が、ひゅ、と嫌な音を立てていた。
「長官、もういいでしょう」
クロスは、へ手を伸ばした。
彼の漆黒が、横目にこちらを窺う。
「その一年の間、二人が何か不審なことをしていませんでしたか?」
クロスの言葉など聞こえなかったかのように、質問は続く。
漆黒が再び、強く前を見据えた。
「何も」
「キミを置いて、二人だけで行動したりは?」
「俺とアレンは、いつも一緒に行動していましたから」
「では、元帥が居なくなることは、あったんですね?」
「師の放浪僻を、ご存知ありませんか?」
目を瞑ってさえいれば、楽しそうに聞こえる彼の声。
目を開けても、微笑みはいつもとなんら変わりがない。
テーブルを掴んだ手が、堪え切れないほど震えていることを除けば。
「では……『14番目』という単語を、耳にしたことは?」
「……さぁ……」
は笑いながら、すっと目を細めた。
「どの『14番目』の話でしょう?」
いかにも何かを知っているかのような、しかし何も知らないかのような答え方。
彼は、微塵も真実を知らないのに。
コムイや各支部長、元帥達は、先程と同じ不思議そうな表情でを見ていた。
ハワード・リンク監察官が、ルベリエの後ろからを睨み上げる。
「はぐらかさないで下さい、・」
の漆黒が、緩慢に、しかし鋭く彼を睨めつける。
重さを増す空気。
びくりと体を震わせた自分の部下を、ルベリエが片手で制した。
「さあ、答えなさい。アレン・ウォーカーは敵側の人間なのかね?」
「な……っ! 彼はエクソシストだ!」
バクの声に隠れて、が再びこちらを見た。
「スーマン・ダークの件をお忘れですか?」
揺れる漆黒の深意が掴めない。
安心させようと頷けば、彼はまた顔を上げた。
「俺が」
ルベリエがに視線を戻す。
「……『俺』が弟だって、言うんだから、味方に決まってる」
「いくら『貴方』がそう言っても、駄目ですよ。キミが騙されている可能性が、否定出来ませんから」
「そんなことっ、ある筈が無い」
「神」の名を笠に着てまで強く見返した漆黒に、ルベリエが厳しい瞳を返す。
「良いかね、。黒の教団は、キミに魅入った神の軍なのですよ。
我々は、そしてキミは、邪と交わらない高潔な存在でなければならない」
「っ、」
「アレン・ウォーカーは、異端審問にかけます」
ルベリエの一言に、議場がざわめいた。
そこまでやるか、とクロスも内心舌を巻く。
「異端審問……!?」
凍り付いたコムイ。
その言葉を知らないだけが、訝しそうな、不安げな表情をしている。
ざわめきの中で、バクが青ざめてテーブルを叩いた。
「馬鹿な! 死刑確定の拷問裁判ではないか!」
驚きとともに、の左手がテーブルを離れる。
「え、――ッ、あ……!」
刹那、彼は顔を歪めて、胸元を握り締めた。
何とかテーブルに縋ろうとするものの、上手くいかずにうずくまってしまう。
「!!」
クロスは遂に椅子を押し退け、の横に膝をついて手を伸ばした。
その手を逃れ、彼はもう一度左手をテーブルに掛けた。
濡れた漆黒が、ルベリエを睨み上げる。
「っ……ふた、り、には……手を、出さないって……!」
ルベリエが、こちらを見下ろした。
「だから、キミが騙されている可能性を、否定出来ないんですよ」
「ふざ、け、な……っ……、はっ、ぁ、」
崩れる体を、片腕に包んだ。
「好きに調べろ、長官」
席を立って駆けてきたティエドールに、金色を預ける。
「ええ。一先ず、あなたとアレン・ウォーカーには、監査をつけさせていただきますよ」
「一先ずも何も、こいつに監査なんざ必要ねぇよ。求心力が無きゃ困るのは、そっちだろう」
「確かに『教団の神』は捨てがたい。しかし元帥、」
「クロス!」
ティエドールが切迫した声を上げた。
この場で必要なことは全て言った。
クロスは屈む。
同僚の腕の中、弟子の唇は蒼い。
「貴方のその言葉は、信じていいんですか?」
ルベリエの言葉には、振り返らない。
ボタンを二、三個、余計に開けてやる。
汗で張り付く襟を広げ、強張り、しかし震える首筋に触れた。
乱れ切った脈に、思わず舌打ちを零す。
「……ッ、う……ぁ……」
「しっかりしろ」
クロスはティエドールからを受け取り、その黄金を軽く撫でた。
誰よりも、自分へ言い聞かせるように、強く声を落とした。
「大丈夫だ、」
「…………」
悲劇の材料には決してさせないのだと、夢でさえ、家族を喚んだことなど、ないのに。
「世界」の名は、もうこんなにも近い。
「……」
腕に力を篭めて、彼を抱き抱える。
「もう少し、頑張れるな」
立ち上がるのと同時に、抱いた体から力が抜けた。
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