燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









宝箱は、知っていた
この豪奢な蓋を開けられたなら、遂に
目映い輝きを放つその御宝は
神の掌の上で、愛でられるのだと



Night.56 此岸に遺されて









暗い暗い空間で、少年は一人、蹲る。









何故だか、怖くて顔を上げられない。
近くから遠くから、声とも言えない声が聞こえるのだ。
ただの音のようにも、聞こえる。
これは風の音? 草の音? 木々の囁き?
鳥の囀り? 扉が開く音? 土を駆ける音?
響くのは、鐘の音?
それらが、何か怖いもののように思える。
せっつくように、ぐわんぐわんと反響している、音の洪水。

「う……っ、……ひっ、く……」

――僕、何か悪いこと、した?

答えは返ってこない。
否、自分はよく分かっている。
だって、母さんを困らせた。
外で遊んでもいいのよって。
きっとの面倒をちゃんと見てあげられなかったから、言われたんだ。
僕じゃ駄目だったんだ。
心配させたから、迷惑かけたから、だから、死んじゃったんだ。

――心配を、迷惑をかけたら、人は死んでしまうんだ

だから父さんも、僕たちのために母さんを喚んだから。
僕がちゃんとしてなかったから、……が。

「ふ、ぇ……うっ……」

ごめんなさい、ごめんなさい。
ごめんなさい。
責め立てる言葉に、ひたすら謝り続ける。
耳を塞ぐには申し訳なさすぎて。
膝の間に顔を埋めたまま、零れ落ちる涙に、ただ罪悪感を覚えた。

――――

ひとつ。
泣き濡れた顔を上げる。
たったひとつ、たしかにきこえた、こえ。
それは――









平熱から比べればまだ十分高いが、それでも、やっとの熱が引いてきた。
呼吸も、大分穏やかになった。
クロスは息をついて天井を仰ぎ見た。
今日は、自分も落ち着いて眠れそうだ。

「入るよ」

カーテンの外から軽い声。
クロスの返事を待たずに、ティエドールが顔を出した。

「まだ、目は覚めない?」
「ああ」

彼は体を滑り込ませての様子を窺う。
すぐに広がる微笑み。

「あ、でも随分良くなったみたいだね」
「……まあな」
「ちょっと寝てきたら? 看ててあげるから」

笑いながら言われ、肩を竦める。
いつもなら素っ気なく返すところだが、つられて苦笑してしまった。

「あれ、コムイさん?」
「よ、コムイ。どーしたー?」

アレンとラビの声。
ティエドールと顔を見合わせ、振り返る。
ちょうど立っていたティエドールがカーテンを開けた。
どうせ、これくらいでは起きたりしない。

「……まだ眠ってますか?」

ひどく硬い声で、コムイが問う。

「ああ。何だ?」
「イノセンスの、検査結果が出ました」

部屋が急に静まり返る。
嫌な静寂だ。
良い報せでは無いのだろうと、簡単に予想がついた。

「医療班は、呼ばなくていいのかい?」
「先に伝えてあります」
「おい、アレン外出てろ」

クロスの言葉さえ、コムイは遮った。

「いえ……エクソシストは此処に残って」

チャオジーの傍に居たキエとマオサが立ち上がり、足早に出ていく。
扉が閉まり、コムイが細く溜め息をつき、眼鏡に触れた。
毅然と上げられた顔。
研ぎ澄まされる、空気。

「『聖典』が、変異を起こしました」
「……どういうことだ」

歯切れが悪い。
少し苛立ちながら聞くと、コムイは表情を変えずに答えた。

「寄生型は、人体とイノセンスが細胞レベルで同化しています。
今までの心臓では、イノセンスが細胞の役割を兼ねていた」

クロスには分かり切ったことだ。
けれどわざわざ噛み砕いて言っているのは、歳若いエクソシスト達の為だろう。
しかし、改めて認識させられてふと思う。

――これが、何らかの変化を起こしたら?

顎に手を当てたティエドールが、顔色を変える。

「……変異……?」

コムイが固く目を瞑り、言い切った。

「イノセンスが細胞としての役割を失い始めた。……原型に、戻ろうとしています」
「え、と……」
「おい、ラビ」

アレンと神田の問いに、答えるのはラビ。

「つまり、の心臓は、イコール、イノセンスだったんだけど……」

話しながら、ラビが次第に青ざめる。

「心臓としては動かなくなって、イノセンスそのものになるって……ことさ?」

コムイが頷いた。

「もう、一部はその機能を失っている」

目を瞠ったアレンが、喉をひくりと動かした。
ちっ、と舌打ちを溢して首を振った神田が、瞳を怒りで燃やし顔を上げる。

「それで? テメェはこいつに、どうやって生きろって言うつもりなんだよ!」
「……神田、落ち着け」

絞り出すようなマリの声を遠くに聞きながら、クロスは茫然と手を組んだ。
膝に肘を乗せ、額を組んだ手に当てれば、脳裏を、あの家族が埋め尽くす。



――お待ちしてました――

花が咲くように

――いっしょにあそぼ!――

陽の光を集めて

――それならうちに来いよ――

風を掠いながら

――こんにちは、おじさんっ――

空気を虜にする



「…………」

何物にも勝る、黄金の笑顔。
守りたかった、この世の至宝。

「……し……しょ、う……」

肩越しに振り返る。
虚ろにこちらを見上げる、深い瞳。

「――っ!」

クロスは顔を背けて立ち上がり、コムイを押し退け、部屋の外へ出た。
扉を閉め、壁に凭れかかる。
焼き付いて離れない、深淵。
右手を振り上げ、壁に叩きつけた。

「……クソッ!!」

冥闇から覗いたのは、彼か。
それとも。

「(赦してくれ)」

届かない、懺悔。

「(赦してくれ)」

胸の中心が、引き絞られるように痛い。
食い縛った歯の後ろで、行き場をなくした声が、喉を掠めて競り上がった。









ティエドールは屈んでの前髪を軽く退けた。
精一杯の笑顔で笑いかける。
他の人間は、今、誰も役に立たない。
けれど自分が正しく笑えている自信も、どこにも無かった。

「おはよう。私が誰だか、分かるかな?」

昨日は熱と夢にうなされて、混乱していたと聞いた。
今日は此処から始めなければ。
が、ぼんやりとティエドールを見上げる。

「……ィエ、ドー、ル……元、帥……」
「うん。具合はどう? どこか痛いところ」
「師、匠……は……?」

答えられず、言葉に詰まった。
が、ゆっくりコムイに視線を移す。
部屋の中の沈黙は、そのまま伝わってしまっただろう。
は静かに目を閉じ、再び開けたときには苦笑を浮かべていた。
ティエドールは踵を返す。
扉を開けると、横の壁に凭れるクロスをすぐに見つけられた。
俯いた顔は窺えず、赤い髪だけが薄暗がりに存在を示していた。

「呼んでる」
「……行けるかよ」
「行くんだよ」

強く言って扉を開ける。
自分の後ろを、クロスが辿ってくるのが分かった。
はまた目を閉じていたが、やがて重たく瞼を上げた。
瞳に捉えられて、クロスがボソッと言葉を零す。

「具合は」
「平、気」
「嘘つけ。……苦しいのか」

躊躇っていたくせに、本人を前にしたら急に不安になったらしい。
ティエドールは眉を下げる。
見れば、も微かに苦笑していた。

「……すこし」

でも、だいじょうぶ。
続くのは掠れた声で、見るからに「大丈夫」では無いのに、彼に微笑まれるとそう思えてくるから不思議だ。
けれどクロスは師だけあって、苦々しく顔をしかめた。
症状を和らげることさえ出来ればどんなにか良いだろうに。

「なぁ、」

の瞳がまた少し虚ろになる。
けれどクロスの服をしっかり握って、彼は呟くように言った。

「『聖典』は?」

クロスが口を噤む。
神田は目を瞑って自分のベッドに腰掛けた。
凍り付いたようにアレンは立ち尽くし、ラビはゆっくり背を向ける。
チャオジーは拳を握ったマリを見上げた。
ティエドールがそこまで周囲を把握したとき、コムイが大きく息を吸った。

「細胞が、イノセンスの役割しか果たさなくなってきていた」
「……それで……」
「……心臓は機能を失って、イノセンスの原石に戻る」

しばらくコムイを見上げて、は表情を変えなかった。
やがてゆらりと笑い、クロスの服から手を離した。

「……ははっ」
?」

笑い出した彼を、クロスが訝った。
どうしたと彼が尋ねる前に、が再び師の服を掴んだ。
その手には、今にも服から滑り落ちてしまいそうなほど、力が無かった。
誰とも視線を合わせない。
ただただ疲れたように、どこか安堵したようにが微笑んだ。

「良かった……俺、まだ……使えるね」
「……そんな言い方するな」

抑えた声で、クロスが言った。
弟子の手を片手で包むように握り、首を横に振る。

「モージスとグロリアが泣くぞ」
「……みんな、俺が、殺したのに」

微笑みを貼り付けたまま、彼が呟いた。

「父さんも、母さんも、おばあ、ちゃんも……も……みんな、僕が……」
「違う、」
「だからっ……、僕は……」

いつもの微笑みが、柔らかく、優しく、穏やかに。
クロスとコムイを、静かに見上げた。

「壊れるまで、使って」
「……
「もっと、頑張るから」
「ごめん……ごめん、
「大丈夫、だから……コムイ、」

は、自分の心が泣いていることに気付いていないだろう。
「彼」を、彼は遠い昔へ置き去りにしてしまった。
でなければ、どうして。

「顔を、上げて」

人に安らぎを与える為だけに、笑うことが出来るのだ。

「(……、)」

君にだって、嘆く権利があるんだ。
が顔を僅かに歪めた。

「使って……俺、やらなきゃ……」
「分かった」

クロスが強く頷いた。
コムイが驚いたように赤髪を見下ろす。
けれど師と呼ばれる男は、笑みさえ浮かべて弟子の額を撫でた。

「そうだな、お前は大丈夫だ」
「元帥?」
「分かってる。ほら、もう少し寝てろ」

分かってるから。
クロスが繰り返す。
まるで、にその先を言わせたくないかのように。
呪文のように、言葉を封じる。
漆黒が、ぼんやりと師を見上げた。
包まれた指先が、大きな手を緩く握り返す。

「……僕には……無いんだ……」

吐息で呟いて、す、と吸い込まれるようにが目を閉じた。
時間が、空気が、停まる。
コムイが被っていた帽子をくしゃりと握り潰し、床に叩きつけた。
そのまま拳を震わせる彼を、弟子達が見ている。
ティエドールは皺になった帽子を拾った。

「……馬鹿野郎」

クロスが枯れた声で呟いた。

「どうして、分からねぇんだ」









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