燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
Night.55 弔いの鐘――ふたり
身を切るような寒さの中、クロスはロンドンの駅に一人立っていた。
傍らのティムキャンピーは、今日は大人しく肩に乗っている。
組んだ腕の上で、とんとん、と指を跳ねさせる。
時計を見上げると、予定の時刻はもう片手ほどの時間に迫っていた。
「……ったく」
いつまで待たせる気だ、クロスはまた苛々と指を跳ねさせた。
プレイベルへ向かう最終の汽車は、これだというのに。
――モージスが、来ない。
折角見送ろうと思えば、この始末。
苛立ちもあるが、何より心配が先立つ。
今日の最終便なのではない。
あの汽車は、今年最後の便なのだ。
汽笛が鳴り響いた。
はっとして振り返ったクロスの前で、バタバタと扉が閉められていく。
「そこの人! 乗るのかい!?」
車掌に呼び止められ、首を横に振る。
「いや」
「じゃあ離れてくれ!」
ゆっくりと汽車が動き出す。
風が、一歩下がったクロスの髪を揺らした。
「(何やってんだ、あの馬鹿)」
すっかり人が変わってしまったモージスだが、それでも昨日は、あんなに楽しそうに話をしたのに。
「普通」に笑っていたのに。
――俺に何かあったら――
こんな不吉なことを言われた翌日に。
「……くそっ」
不安にならない訳がない。
クロスは踵を返し、駅を出た。
確か彼の家は、この線路沿いにあったはず。
ただの二日酔いなら、文句は言うまい。
固く心に誓い、ひたすら歩く。
全く人通りの無い、暗い道。
ここだけがまるで夜のよう。
不意に、ティムキャンピーが肩から離れた。
「ティム?」
道の先に立つ、人影。
僅かな光さえ輝かしく受け止める、黄金色の髪。
それを纏めた紅のリボンが風に揺れている。
「モージス!」
クロスはほっとしながら名を呼んだ。
彼は、こちらを向かない。
「ったくお前は……何やってんだ、汽車はも、」
クロスは、言葉を切った。
ガシャン、揺らぐ人影。
天を仰いだ彼の「皮」が剥ける。
バラバラに折れ曲がった手足から、新たに形作られる球体。
宙に浮かぶ、――AKUMA。
「……モー、ジス……」
言ってやりたいことが、頭の中に渦を巻いていて。
結局クロスは、彼の名を呟いた。
驚くことはしなかった。
いつかは、こうなる気がしていた。
あんなにも哀しみにくれる人間を、伯爵が見逃すはずがなかった。
クロスに気付かないまま、兵器はもう一体のアクマに先導され、空を滑って飛んでいく。
真っ直ぐ線路の上を行く二体は、これではまるで、先行く汽車を追うようで。
「……、はっ」
口許に嘲笑が浮かぶ。
目の前のアクマを撃つことも出来ずに、何がエクソシストか。
例えそれが、大切な友の成れの果てだとしても。
大切な友の、最愛の妻が宿った兵器だとしても。
壊す義務が、クロスにはあったのだ。
ティムキャンピーが擦り寄ってくる。
彼らを思わせるその黄金を目に入れたくなくて、クロスは俯いた。
「……馬鹿ヤロ……っ」
呟き、顔を上げて前を見据える。
アクマが向かった先はきっと、遠い祈りの鐘のもと。
金色の子供達が待つ、彼らの故郷。
そこに辿り着く前に。
せめて、愛した者を、彼と彼女が手に掛けてしまう、その前に。
「壊してやる」
この手で、オレが。
行商から馬を拝借し、線路に沿ってひたすら駆ける。
視界が橙色の夕焼けに染まった。
汽車は、本来ならもうプレイベルへ着く頃だ。
きっと、そこへ向かう乗客は、彼以外にいない。
ならば、そろそろ引き返して来る筈。
彼は、彼女は――あのアクマは、どれほどのスピードで汽車を追ったのだろう。
「ティム」
もう半日は馬を走らせたままだ。
馬を一度も休ませずに来られたのは、「聖母ノ柩」の力に因るところが大きい。
流石に、クロスの息も切れる。
「先、行け」
――記録しろ
言外の意を読み取ったか。
ティムキャンピーは頷くように体を動かし、刹那、矢のように飛び去った。
黄金が、遠い。
――俺の自慢の子供達だ。な? かっわいいだろ?――
ああ、確かに可愛いよ。
だから、
「……馬鹿、野郎ッ」
自分で壊すような真似、するな。
陽が沈みゆく。
前方から、汽車が帰ってきた。
奥歯を噛み締める。
絶望的な予測しか浮かばない。
どんなに遅く飛んでも、アクマは疾うに村へ着いてしまっただろう。
「()」
生き残るとしたら、きっと黄金色の兄妹だけ。
「()」
否、クロスが手段を渡してしまった、あの少年だけ。
「(……赦してくれ)」
彼を止められなかったことを。
君の「世界」を壊してしまうことを。
君に、手を下させてしまうことを。
――出会わなければ、
息を切らせて、馬から下りる。
「聖母ノ柩」の術を解いた。
背後で馬が倒れたのが、分かった。
吐く息は白く、雪に彩られた村は明るい。
各家の玄関のランプには明かりが燈っている。
しかし、何の音もしない。
クロスと馬の荒い呼吸音以外、何も聞こえない。
「……、……」
家は、村の奥の方にある。
歩き慣れた道とはいえ、疲れた体で坂を上るのは辛かった。
途中に佇む家々からは、やはり音がしない。
いくらミサの最中でも、どこかから大砲の音が聞こえたら騒ぎになるのではないか。
ましてや、その発生源が、家ならば。
人を惹きつけてやまない、あの家族の居場所から聞こえたならば。
村中の騒ぎになっていても、おかしくはない。
クロスは坂の上まで走った。
見えてくる、半壊した家屋。
「!! !!」
倒れたテーブル、吹き飛ばされた壁。
壊れた機械の塊。
瓦礫に引っ掛かっている、小さなワンピース。
「……っ」
喪失感に襲われながら、残る一人の痕跡を捜す。
友人だったモノには、無数の穴が開けられている。
それはクロスの持つ武器の跡に、よく似ていた。
「……!」
強がりな「彼」が、こんな所業に堪えられる訳が無い。
「何処だ、返事をしろ!」
食器棚は不自然に扉が開いたままになっている。
あの銃はここに仕舞っていたのだろう。
も死んだのか?
いや、ならば銃が無いのはおかしい。
グロリアの墓か、村の端にある崖か。
俯いて、そう考えたとき。
「――ッ!!」
壊れた壁の上から、村の中心に目をやる。
ある筈の物が、無い。
教会が、そこに存在しなかった。
そうだ。
もう一体の、アクマは。
クロスは走る。
走りながら、この道で間違いないと確信した。
「ごめんなさい」と泣く少年の姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。
クロスの目の前を、雪景色を、小さな背中が駆けていく。
幻だと分かっているのに、その黄金を追いかけた。
ゴーン、ゴーン……、ゼンマイ仕掛けの鐘が、空虚な響きを奏でる。
祈りの鐘。
――果たして、本当にそうだろうか。
遠い争いの死者を、この悲劇の犠牲者達を、弔う為の鐘では無いのか。
ゴーン、ゴーン……、鐘が鳴る。
視界の端に踊る、金色のゴーレム。
その傍らに、雪に囲まれ膝を抱えて座り込む、影。
生きていたのか。
生きてしまっていたのか、嗚呼、
「……ッ!!」
息が切れて、掠れた声で名を呼ぶ。
彼が背にする教会は、原型を留めていない。
十字架すら、跡形もない。
「」
冷え切った肩に手を置いた。
「……、」
小さな体が震え、身じろぐ。
こちらを見上げる顔の色は真っ青。
虚ろに向けられた瞳には、まるで表情が無かった。
「……っ」
力無い体を、思わず抱きしめる。
彼の右手には、不釣り合いなほど大きい銃が握られていた。
片手で、銃ごと手を包む。
凍り付いたように冷たい手を温め、握りこむように、そこから離した。
銃を自分の脚のベルトに挟む。
団服を脱いで、少年の肩に掛けた。
「……一緒に行こう、」
立たせようと腕を引くが、彼は人形のように宙を見つめたまま動かない。
何も見ていないのかもしれない。
クロスは、少年を抱き上げた。
教会に背を向け、家へ向かう。
もう一度彼をあの場に戻すのは、正直、忍びない。
しかしこの寒空の下、コートも無しに子供を連れ回すような事は出来ない。
一人で走った道を、二人で引き返す。
ランプの油が切れ始めたのか、ぽつぽつと、村の明かりが少なくなっていく。
胸に抱いたは、コートの中で体勢を変えようともしない。
壊れかけた家に着いても、彼は表情を変えなかった。
唇を噛みながら、子供部屋へ向かおうと、リビングを横切る。
カン、と
何かが足に当たる音がした。
見れば、金色のロケット。
が、びくりと体を震わせる。
瞳に戻る光。
床に下ろすと、彼はそれを拾い上げ、頬に擦り寄せた。
暫くそのままで大丈夫だろう。
そう考えて、ティムキャンピーを残し、クロスは子供部屋に入る。
防寒具だけを手にリビングへ戻ると、が床に座り込んでいた。
「どうした?」
「……ない……」
「?」
「ピアス……お母さんの、ピアス……」
持ってて、と渡されたのは、ロケットと黒いピアスの片一方。
どちらもグロリアの形見だったもので、が身につけていた。
「あれ、無いと……泣いちゃう、から…………」
呟きながら床の上を捜す、その背中が、哀しい。
ワンピースが壁まで飛ばされるほどの風が吹いたとしたら。
このピアスが片側だけでも残っていたのが、既に奇跡だ。
もう一方は、何処かへ飛ばされてしまっているだろう。
それが分かっていて、尚、クロスは彼に声を掛けることが出来なかった。
「無い……ない…………無い……」
床中を捜し回っても、は呟く。
クロスは後ろから、彼の肩に手を置いた。
「……、」
「ない……なんで、どこ……どこ……」
「」
ふらふら彷徨う視線を、気に留めないよう努める。
「行くぞ、」
「……ない……ない……なんで……」
「、ほら」
預かっていたロケットとピアスを見せると、は引ったくるようにそれを手に取った。
「返せ!!」
「……分かった、もう取らねぇよ。行こう」
「、だって、が泣いちゃ、泣いちゃうよっ……、が、」
持ってきたコートを被せて、抱き上げる。
「っ、離して!!」
「ダメだ、行くぞ」
「やだ! だって、が! が、しん……っ、僕、何が、何で……!!」
悲鳴のような声が、胸に突き刺さる。
「何で、守れな……っいやだ、はなして!
下ろしてっ!! 僕も此処にいる!! ! ! !!」
ここまで叫んでなお、彼は、涙を流すことすら出来ない。
「空気」が思考を捕らえ、心を切り裂き、体を縛る。
それでもクロスは、一層強くを抱いた。
彼の空気に抗ってでも、今は前へ進むべき時だと、思った。
「はなして!! ぼく、ほくは……ぁああっ、ああああ!! おかあさん!! おとうさん!!」
「(……モージス、)」
出会わなければ、
「!!」
出会わなければ、よかったな
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