燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









神の楽園が本当にあるのなら
何度だって叫ぶのに
見ているか、聞こえるか
いつになったら
この後悔を、君に届けられるんだ



Night.54 信者の不幸









彼らが帰ってきたのだと、アジア支部からの通信を受けて、科学班は歓喜した。
敵の移動手段「ノアの方舟」で此方に帰還するという。
班員は我先にとポイントへ向かった。
リーバーだって、例外ではない。
訃報の相次いだ中、年若きエクソシスト達が死線を越えたのだ。
迎える前から、鼻の奥がつんと痛んだ。
仲間と共に夢中になっていたから、コムイが一人、通信を続けていることには気付かなかった。

「やった! よかった! 皆、無事なんだ!」

同じように感極まって、ジョニーがタップと抱き合う。

「ああ! ほんとにっ……よかった、よかった……!」
「泣くなよ、二人とも。笑顔で迎えてやろう。なっ」

やり取りが聞こえて、リーバーは目に涙を滲ませながら笑った。

「ロブ、お前も泣いてるって」

コムイがやって来た。
明るい、けれどどこか陰のある顔で、部屋を見回し一点を指差す。

「もうすぐ、来るよ」

入り口の方からは、医療班の足音。
そして前方には、光輝くゲート。
班員達のどよめきのあとに、その光の中から白髪の少年が焦ったように姿を現した。

「あっ、リーバーさん……」

ボロボロの団服で、傷だらけになって、何かを言いかけたアレンに。
リーバーは出来る限り最大級の笑顔を向けた。

「おかえり、アレン」

ジョニーが、タップが、彼の周りを囲む。
張り詰めたアレンの表情が、ほろりと解けた。

「……ただいまっ!」

続いて、新しいエクソシストを担いだ神田と、マリが。
光の中から、ミランダに支えられたリナリーが出てきた。
リーバーは息を呑んだ。

「兄さん!」
「リナリー……!」

リー兄妹が涙を浮かべて抱き合う。
その妹の、艶やかだった長い髪が、嘘のように短くなってしまっていた。
班員達は掛ける言葉を失ってしまっているが、コムイだけは違う。
ひしと抱き合って、必死に涙を堪えている。
傍らで、ミランダが鼻を啜った。
リーバーは彼女の肩に触れた。

「おかえり、ミランダ。無事でよかった」

此方を見上げる瞳から、みるみる涙が溢れた。
彼女が俯く。

「ミランダ?」

俯いたままで、ミランダが大きくしゃくり上げた。
帰ってきたことに対する安堵の涙とは違う。
肩を震わせ、不安に揺れる瞳で、リーバーを見た。

「リーバーさん……っ」

方舟のゲートから、今度はティエドールが背後を気にしながら現れる。
その後ろから、久しく見なかった赤い髪の男が足早に出てきた。

「クロス、元帥?」

誰かが呟いた。
リーバーは、思わず一歩、足を踏み出した。
いつも、いつでも飄々としているあの人が、強張った表情をしている。
その違和感に彼の全身を眺めて、やっと、腕に抱えられた布に気付いた。
否、それは布ではない。
リナリーの肩に手を置き、コムイが真剣な表情でクロスに向き合う。

「医務室へ。私もすぐ向かいます。神田くん、悪いけどクロウリーを連れていって」

クロスはちらとコムイを見遣り、すぐさま部屋を出ていった。
まだ見ぬ「クロウリー」を背負った神田に、ティエドールが声を掛ける。
二、三話してクロウリーを引き取り、クロスを追って素早く部屋を後にした。
ゲートから三人のアジア人が、最後に、ブックマン師弟が現れる。

「ミランダ、発動を止めて」

刻盤を抱き締めた彼女が、コムイの言葉に首を振った。

「嫌です……せめて、二人が医務室に着くまで……」

続くやり取りが、耳に入って来ない。
リーバーはロブと顔を見合わせた。
あの腕に抱えられていたのは。
外套から覗く血の気を失ったあの顔は、見紛う筈もなく。
あの、「赤い」血に塗れた金色は。

「…………?」

ぞわり、と。
鳥肌が立った。









近頃は、悲しい報せばかりだった。
食堂にやって来る誰も彼もが、一様に暗い顔のまま、呟くようにメニューを口にした。
表情が変わったのは、二人の元帥が帰還した時だ。
それから数日は、以前の日々が嘘のように、皆が明るい顔をしていた。
けれど、三日経っても、五日経っても、残りのエクソシスト達の消息が聞こえてこない。
再び団員達の表情が陰った頃、その知らせは舞い込んだ。
アレン・ウォーカーが、一度失った筈のイノセンスを復活させたらしい。
クロス部隊を追って、アジア支部から江戸へ向かうという。
の元へ。
これなら、きっと。
そう信じて、ずっと、待っていた。

「(……無傷で帰ってくるだなんて、流石に思いはしなかったけれど)」

ジェリーは、小さく溜め息をついた。
ティエドール部隊とクロス部隊は、元帥と共に突然帰還した。
あまりに唐突で、待ち侘びていた団員達の中でも、出迎えに行けた者は少ない。
ジェリーにも、当然そんな暇は無かった。



「――帰ってきたって!」
「初めて見た……」
「新しいエクソシストがいる」
「二人も!?」
「リナリーさんの髪が――」
「――無事だそうだ」
「本当によかった」
「そんなこと当然じゃないか」
「元帥が揃ったんだ」
「教団の神がついているんだ!」



探索班が、総合管理班が、警備班が。
サポート派はこぞって噂し、この数日間を過ごしている。

「ジェリーさん! Aセット、あ、デザートにプリンもつけて!」
「オッケー! まっかせてー!」

嬉しそうな彼らの注文に応え、捌きながら、ジェリーはもう一度溜め息をついた。

――科学班員の様子がおかしい

あの時、エクソシスト達を出迎えた彼らは、敵の使っていた「移動手段」の解析で忙しいのだろう。
けれど、何日も徹夜するくらい、彼らは慣れっこの筈だ。
今更音を上げてしまうような柔な連中ではない。

「(どうして)」

そんなに晴れない顔で、食堂に来るのだろう。
どうして、周りの団員と同じように喜ばないのだろう。

「(どうして、)」

どうして、医務室から送られる食事のリストに、あの金色の名前が無いのだろう。

「ジェリーさん?」
「えっ? あ、あははー、ごめんね、すぐ作るから!」

大丈夫、きっと大丈夫。
自分に言い含めて、ジェリーは鍋を振った。









カーテンの向こうからは、クロウリーの腹の音が聞こえる。
斜向かいからは、うるさいうるさいと唸るラビの寝言。
向かいと隣のベッドが軋む。
神田も、いかにアレンでも、この騒音には耐えられないのだろう。
マリもチャオジーも、この部屋の患者は総じて寝不足気味だ。
ただ一つ、カーテンで仕切られたこのベッドだけ、なにもかも外界と切り離されている。
は依然、目を覚まさない。



上体を軽く起こさせるこの体勢すら、功を奏した様子が無い、拙い息遣い。
先刻乗せた筈のタオルが、もう温かくなっている。
クロスはそれを外し、そのままの汗を拭った。
焼けるような熱さ。

「(まだ、生きてる)」

帰還直後のような生気の無い体温より、余程マシだと思うことにする。
けれどこれはこれで、「まだ」生きている、という表現を使うほかない。
氷水にタオルを浸す。
この水も変えてこなければ。
クロスは桶を持って立ち上がり、溜め息をついた。
帰還してから、まだ一度も寝ていなかった。
これは、自分の弱さが作り出した状況だ。
振り返り、を見下ろす。

「(……モージス……)」

もう、何度彼に謝ったか、知れない。

「元帥」

カーテンの外から、そっと声が掛けられる。

「……何だ」

音を立てないようにするりとカーテンを開けるコムイ。
クロスの手元の桶を見ると、ボクが、と言って持ち去ってしまった。
仕方なく椅子に座り直す。
やはりが気がつく様子は無く、一層顔を赤くして微かな息を漏らしていた。
否、先程よりも若干呼吸が荒い。

「、っ……」
?」

久しぶりに聞く、この小さすぎる悲鳴。
よくない予感がする。
が顔を顰めた。

「……ぁ、や、……やだ……」
、起きろ」

も、クロスも、全身に緊張が走る。
彼の手が掛け布団を掴む。

「元帥? どうか」
「……ひ、ぁ……っ」

右耳からはコムイの声。
左耳からは息を飲む音。

「っあ、あああぁあぁぁあああああ!!」

桶が落ちる音、アレンと神田、マリが跳ね起きる音、婦長が飛び出してくる気配。
いくつもの現象が同時に起こる。

「あああぁぁ! 嫌! いやだ……ぁあああっ」
「え…………!?」

困惑するコムイに、今は気を払っては居られない。

――過去に、彼を渡してなるものか

クロスはの肩を揺する。
もう叫ぶ力は無いようで、彼は「嫌だ」と繰り返しうわごとを呟きながら、首を横に振っていた。

!? し、室長、何が」
「それが、ボクにも……!」

このベッドだけを仕切っていたカーテンは既に開け放たれているのに。
婦長とコムイの応酬は、どこか遠くから聞こえた。

「あ、あぁ、やだっ、やめて……や、め……て……!」

ますます狂っていく呼吸。
彼を腕に抱え、上下する肩に手を置く。

「目を開けろ、

怖くない。
そう囁くと、固く閉ざされていた瞼が、ゆっくり持ち上がった。
たまたま目に映ったのだろう、ぼんやりコムイを見上げている。

?」

困り顔で視線を合わせたコムイ。
荒く引き攣るような息をして、が掠れた声で呟いた。

「……だ、れ……」

コムイが目を瞠り、此方を見る。

「…………っ、……」

アレンや神田が自分を見ているのも、クロスの視界には入っていた。
クロスはの視線を自分に合わせる。
熱のせいか、別の要因か。
恐らく、両方だろう。
漆黒から涙が零れた。


「お、じ……さ……」
「……お兄さんだって言ってるだろ」

彼の目を、そっと掌で覆う。

「おやすみ」

腕の中の重量が、いきなり増す。
ぐったりと意識を無くした身体を、横たえた。
布団をかけ直す。
震える熱い手を、そっと握った。

「元帥……」
「ああ、」

クロスは一度に目をやった。
少しの逡巡。

「……九歳の、クリスマス・イブのことだ。こいつの居た村がアクマに襲われた」
「プレイベル、ですね?」

コムイが鋭い目でこちらを見る。

「何だ、見つけたのか」

肩を竦め、クロスは続けた。

「村人は全滅。妹を殺されて、は……父親の皮を被った、母親を壊した」

もしも、この懺悔を聞いているのなら。
モージス。
もう一度、謝らせてくれ。









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