燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









Night.53 弔いの鐘――世界が壊れた日









呼ばれた声に、違和感を覚えた。
最後に呼ばれたのはいつだったか、克明に記憶しているのに。
その声に、違和感を覚えた。
視線の先に映る筈のものが、見えない。
目を凝らしても、愛しい金色が見えない。
君は誰、どうして其処に。

――ああ、

靄が晴れた。
目が熱い。
胸が、沸騰しそうに熱い。
みんなの声が聞こえる。
いいや、聞こえない。
聞こえないのだ。

――ああ、そうだ

「世界」は壊れたと、知っていた。









マダム・ボウエンから連絡を受け、その後は酷く目まぐるしく時間が過ぎた。
大通りから聞こえる阿鼻叫喚。
小路に落ちていた橙色のワンピース。
黒い血を流し、倒れる黄金。
優先すべきは何よりもアクマの殲滅で、次いで生き残った弟子を保護する。
得体の知れない「黒」を目にして、クロスが向かうべき場所は一つしかなかった。
ついに、この場所へ帰ってきてしまった。
クロスは溜め息をついたが、考えてみれば黒の教団は、大分居心地の良い場所に様変わりしていた。
やはり前室長が居なくなり、新しい室長がやってきたことが最大の転機だったのだろう。
ジレーアやボウエンの言っていた通りだ。

「(……ジレーア……)」

彼女が自分を好いていたことは知っていた。
けれど、が彼女に心を許していたのも知っていた。
それは恋慕には遠く、思慕では言い表せない感情。
眠る顔の蒼白は、ただ失血のせいだけではない。
扉が開いた。

「クロス元帥」

黒髪巻き毛にベレー帽。
先程混乱の中で初めて会った、新しい室長だ。

「何だ。……コムイ、だったか」

コムイが頷く。
そしてちらとに目を遣った。

「彼の情報をいただいても?」
。男。歳は……十二だか、十三だか」
「……他には?」
「そこの銃がイノセンスだ。それと、恐らく血か何かも」
「他には?」

眼鏡の奥から鋭い目が覗いていた。
それもそうだろう、今クロスが示した情報は全て、会った時に一度言ったものだ。

「他に? 何も言えることはねぇよ」
「出身は?」
「ああ、英国籍」
「血液型は」
「A」
「誕生日は」
「十一月」
「いつ、彼を見つけたんです?」
「言う必要が無い」

矢継ぎ早の質問と、おざなりな回答。
痺れを切らしたようにコムイがクロスを睨んだ。
彼の手にあるボードには、まだ大部分が白いままのファイルがある。

「聞く必要があります」
「聞かせるつもりは無い」

二人は睨み合い、やがてクロスは小さく溜め息をついた。
埒があかない。
否、クロスが敢えてややこしくしているだけなのだが、それにしても。
規則はいつも、クロスを阻む。

「オレからは、言えない」
「何故ですか」
「こいつが思い出すのを拒むからだ」

怪訝そうに眉を顰めたコムイを、クロスは見つめた。
多分、この室長になら言っても構わないと、この室長なら傷を刔ったりしないと、分かっていた。
けれど思い出させることそれ自体が、傷を刔るのと同義だということも、分かっていた。
細い糸で辛うじて保っている正気は、脆くも一言で瓦解する。

「……分かりました」

溜め息の後に、コムイが、そう言った。

「いいのか?」

逆に驚いて、クロスは彼に目を遣った。
肩を竦めた若き室長は、苦笑する。

「子供を苦しませたくは、ないので」

思えば、コムイの妹がエクソシストなのだと、聞いたばかりだった。

「……そうか」
「代わりに、長く消息を絶った罰も含めて、貴方には暫く本部に留まって頂きます」

それくらいで、形見に傷を付けずに済むのなら。

「はっ……仕方ねぇな」

笑えるくらい、容易いことだ。

「……っ、はぁ……」

弟子が顔を顰める。
いつもの悪夢の兆しが来た。
クロスはコムイから視線を外し、の頬を撫でた。
顔色に合わず、熱い頬。
傷が熱を持ったのだろう。

、起きろ」

その一言で、彼が目を開けた。
普段は気がつくまで、もっと時間を要するのに。
彷徨う視線。
無表情な漆黒がコムイを素通りし、クロスを見つけて揺らいだ。

「……な、さ」

何を言おうとしたか、分かってしまった。
怪我をしていない方の肩にそっと手を置き、クロスは首を横に振る。

「お前のせいじゃない」
「……ごめ、……なさ、い……」
「お前のせいじゃないんだ、

――ごめんなさい、ごめんなさい――

呟き続ける彼が、不憫でならなかった。









――ごめんなさい、ごめんなさい――

再び瞼を下ろすまで、彼は、何度も何度も、そう繰り返していた。

「こんにちは、

あれから二日。
日に三度は訪れている病室。
再び目覚めた彼の瞳は虚空を見つめたまま、眠ることも、食事も、クロスに応えることさえしない。
コムイでは尚更、彼をこちらへ引き戻すことなど出来ないだろう。
けれど彼も、これから自分達が犠牲にしていく子供の一人なのだ。

「お腹、すいたでしょ? 料理長の作るご飯は、ホントに美味しいんだよ」
「料理長も代わったのか」

横からクロスが口を挟んだ。
コムイは片手間に頷く。

「彼女以上の料理人は居ません」
「ほう、女か」
「ええ。ジェリーという名の男です」
「……何?」

クロスをからかいながら、コムイはまたへ視線を戻す。
ベッドの上で身を起こしたまま、微動だにしていない。

「好きな料理は何? 作ってきてもらおうか?」

そう聞いたとき、背後で扉が開いたのが分かった。
慌てて振り返る。
怯えた瞳がこちらを見ていた。

「……リナリー?」

戸惑いつつクロスを窺えば、赤髪の男は小さく顎を引いた。
妹を手招く。

「おいで」

クロスを不安げに見上げながら、少女はたどたどしくコムイに抱き着いた。

「どうしたの?」
「……ひとりは、嫌……」

きゅ、としがみつく手。
背を撫でて落ち着かせる。
暫くの静寂。
コムイは、軽くリナリーの背を叩いた。

「そうだね、もう大丈夫だよ。……リナリー、この人はクロス・マリアン元帥っていうんだ」

さっとコムイの影に隠れたリナリーが、でんと踏ん反り返った男を見上げる。
クロスがそっと片手を伸ばした。

「リナリー、か」
「……うん」

大きな手が包むように、小さな頭を撫でた。
予想外に優しい手つき。

「いい女になれよ」
「……なんか妙に優しくありません?」

眉を顰めて見上げると、クロスが鼻で笑った。

「見込みのある女には優しくするもんだ」
「リナリー、やっぱ近付いちゃダメだよ」

妹はきょとんと困ったようにコムイを見上げる。
二、三度瞬いて、彼女はベッドへ目を移した。
視線の先には、黄金色の少年。

「この子もね、これから一緒にお家に住むんだ」

リナリーがハッとコムイを見た。
期待も、悲哀も、複雑に入り組む大きな瞳を、憐憫と慈愛を篭めて見つめ返す。

くん。リナリーよりも、お兄ちゃんだよ」

少女は少年を見上げ、恐る恐る呟いた。

「お、にい……ちゃん……?」



輝く金髪が、動いた。



漆黒を瞠って、がリナリーを見つめた。
凍り付いたようなその表情。
事実、空気が一瞬、凍り付いた。
そしてその一瞬の後、唐突な目眩を覚えた。

――違う

酷く重く、悲しい気持ちに囚われる。
コムイは、痛いほど切ない胸に手を遣った。
息が上がる。
何が自分を動揺させているのか、分からない。

――違う

自分のものではない感情が、自分の戸惑いさえも食い尽くす。
何が、「違う」のか。
分からないままで、を見た。
震える唇。
盛り上がる、涙。

「……ッ」

が、ベッドから手を伸ばし、リナリーを抱き締めた。
肩口に顔を埋めた彼が、微かに鳴咽を漏らす。
そっとクロスを見れば、その手は膝の上で強く握り締められていた。

「ぅ……ふ、えっ……」

もらい泣きだろうか。
部屋の空気に捕われたリナリーの、泣き声が聞こえる。
手を伸ばそうかと躊躇うコムイの前で、金色が先に身を起こした。
俯いて唇を噛み締め、一度肩を上下させて。
そして少年は、毅然と顔を上げた。
光が宿った彼の漆黒に、妹の姿が映る。
リナリーの頬を撫でる、限りなく優しい手つき。
誘われるように濡れた顔を上げたリナリーに、彼はふわりと、温かく微笑んだ。

「怖がらせてごめんね、」

ほんの僅か、声が震える。

「――リナリー」

柔らかく笑うの頬を、雫が伝い、落ちた。
コムイの視界を、赤が横切る。
少年が俯き、少女が男を見上げた。
リナリーの頭を優しく撫で、クロスがベッドに腰掛ける。
そしてそれ以上に優しく、弟子を胸に抱き込んだ。



まるで、彼自身が泣いているかのように。

、」

クロスは固く目を瞑り、囁いた。

「……我慢すんな、クソガキ」









「……、ひっ……うぅ、ああっ、ぁぁああっ、ああああっ! ああぁあぁぁっ!」









堰を切ったような、心が引き裂かれるような。
悲鳴にも似た慟哭が、部屋を満たした。









「世界」は壊れたと、知っていた。
「世界」は壊れたと、今、確かに思い知らされた。
「世界」は、二度、壊れるのだ。









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