燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









かえりたいと願うのは
いつだって
愛しい僕の黄金と
遠い弔いの鐘のもと



Night.52 おかえり、ただいま









新たな扉を作ったアレンが、仲間を迎えに部屋を出た。
座り込んだリナリーは、画面を見て笑う。
目尻に残る涙を、指先で拭った。
本当に、もう二度と会えないのではないかと。
本当にそう思っていた。
小さく鼻を啜る。
ティムキャンピーがまた目の前で羽ばたいた。

「もう大丈夫だよ、ティム。ありがと」

それでも未だ気遣わしげに飛ぶゴーレムを優しく撫でる。
ティムキャンピーは、ひゅんとクロスの肩の上へ飛んでいった。
肘掛けに凭れたクロスが、を抱き直す。
片腕に彼の頭を乗せて、組んだ腿の上に上半身を寄り掛からせた。
切れ切れの呼吸が聞こえる。
リナリーが声を掛けようか逡巡している間に、の漆黒が覗いた。
息苦しいのか、痛むのか。
しかし眉根を寄せている割には、彼の表情は穏やかに凪いでいる。
扉の方から複数の足音が聞こえた。
漆黒が緩慢に流れる。
リナリーもその視線を追った。
話し声。
思わず膝立ちになって身を乗り出す。

「だからー、悪かったって、アレン。ついな」
「ついじゃないですよ! 全く!」

僕はモヤシじゃない! アレンがぷりぷりと怒りながら帰ってきた。
その後ろから、ラビが、チャオジーが。
神田が、彼に担ぎ上げられたクロウリーが。
引っ込んだ筈の涙が、視界に膜を張る。
ラビがぎょっとした顔で駆けてきた。

「えっ、リナリー!?」
「リナリーさん!? えっと、」

チャオジーまでもがおろおろと屈むので、リナリーは唇を引き結んで涙を拭った。
二人の手を掴む。

「……あったかい……」

夢ではない、生きている温度が伝わる。
上から小さく笑う声がする。
ラビが緩く頭を撫でてくれた。
されるがまま、リナリーは神田を見る。
空いている長椅子にクロウリーを寝かせて振り返った彼の団服は、酷い有り様だ。
上半身には殆ど布も残っていない。
結い上げていた筈の髪も、さらりとほどけてしまっている。
神田がぐるりと部屋を見渡し、アレンからは目を背けた。
そして向かい側の長椅子を見下ろす。
はっ、と嘲るような笑みを、口の端に乗せた。

「ひでぇ様だな」

応えて、金色が小さく笑う。

「うるさい……露出狂」
「ああ? んだと、」
「変態……」
「叩っ斬るぞ、テメェ」
「……六幻は?」

う、と押し黙る神田に、がまた笑った。
暫く目を瞑って息を整えた彼は、幸せを噛み締めるようにゆっくり目を開ける。
柔らかく微笑みながら神田を見上げた。

「……ありがとう、ユウ」

神田がゆっくり瞬きをして、掠めるようにちらりと笑みを返した。









方舟の中に、まだ敵が残っている可能性は捨て切れない。
そう言って少年達は見回りに行った。
全員に休めと念を押されたは、腕の中で大人しく目を閉じている。
呼吸の不安定さは変わらぬまま。
痛みがあるのだろう、時折息を詰めては、体を強張らせる。
ラビに上着を借りたリナリーが、向かいの長椅子に屈み込んだ。
クロウリーは眠り続けている。
神田に劣らぬ襤褸のような団服。
余程激しい戦闘をしたと見える。
しかし、あの薔薇が齎したイノセンスが、上手いこと彼の命を繋ぎ止めてくれた。
クロウリーの手をとって、リナリーが涙を滲ませる。

「ごめんね、クロウリー……」

先程から見ていて気付いたことだが、以前に比べ、随分と自然に感情を出せるようになっている。
美人になったなと言えば、年頃の少女は頬を染めて首を振った。

「元帥は、一体いつから方舟に?」
「城下でお前達が戦っていた時な、オレもあの場にいた」

聖母ノ柩の能力で方舟に紛れ込むには、あのタイミングが最善だった。
結果、彼らは死闘を演じた。
その事に悔いはない。
覚悟して来いと伝えた。必ず追い付けと、命じた。
しかし、微塵も心が痛まないと言えば、嘘にはなる。
クロスは笑ってリナリーの髪に手を伸ばした。

「こんな美人がいるなら、もっと早く出てくればよかったかな?」

揃えられていない、すっかり短くなってしまった黒髪。
間違いなく、江戸へ至るこの戦いで失ったのだと分かった。

「髪は惜しい、綺麗だったのに」

ただそう言っただけなのに、彼女はまた瞳を潤ませた。
懐かしそうに微笑む。

「アニタさんも。こうして、同じことを言ってくれました」

クロスは言葉を失った。
自分を追って、日本へ来たのだ。
確かに、通る道だ。
否、間違いなくあの国を経ただろう。
まさか、この子達は。
この子達を、此処へ繋いだのは。

「……無事で、」

掠れた声が、腕の中から聞こえる。

「無事、で、……よかった、って……」

微かな息に微笑みを乗せ、がクロスを見上げた。

「アニタ、さん、が……」
「……そうか」

二人の優しい眼差しが、彼女を彷彿させる。
あの船で、此処まで来たのか。
彼女が、力を貸したのか。
そしてもう。

――クロス様――

もう、この世には。
胸が詰まり、思いがけず目頭が熱くなった。

「……何があっても、跡を追うなと言ったのに。いい女ってのは、一途すぎるよな……」
「元帥……」

心配そうなリナリーの呟き。
クロスは一度目を瞑り、唾を飲み込んだ。
忘れるには鮮烈すぎるほど焼き付いている、彼女の微笑みを、記憶の隅へ仕舞う。
短く息を吐きながら目を開ければ、包み込むような柔らかな瞳が自分を見上げていた。

「……おかえり、なさい……師匠……」

そんな気力は、もう残っていないだろうに。
師弟の関係も取り払って、旧知の間柄をも超えて。
クロスを癒すためだけに、彼が「教団の神」の空気を纏う。
肌で感じたそれが、余りにも懐かしくて。
記憶の中の彼女にも、赦されたような気がして。
自分を無条件に肯定し、全て受け入れてくれる存在を、此処に感じて。
再び込み上げて来た熱を押し止め、クロスはの額をそっと撫でた。

「……ああ」

金色は目を細めて笑う。
その笑顔が、刹那、消えた。

「――ッ」

ひゅっ、
空気が嫌な音を立てた。
彼の視線が揺れる。
胸を押さえていた手だけが、固く団服を握り締める。
僅かに眉を寄せ、酸素を求めるように開けられた彼の唇が、頼りなく動いた。
喉の奥から絞り出すような、言葉にならない呻きが聞こえる。

「……おい、、」

クロスは、腕の中を見下ろす。
一体、どうしたというのだ。
寝不足でも、笑い続けようとする筈だ。
貧血でも、息苦しくても、何処かが痛んでいてもまさか、周りに一目で悟らせてしまうなんて。
リナリーの前で、強がろうとしないなんて。
否、強がろうとしてこの様なら、尚更。
先程からどうにもおかしい。
記憶も予想も遥かに超えている。
こんな苦しみがあるなんて、知らない。

「お兄ちゃん!」

彼の「世界」が伸ばした手へ、は見向きもしない。
何処を見つめているのか、焦点の結ばれていない漆黒が、微かに潤み、瞼に隠された。

「リナリー、これは……」

自分で出したくない答えを、無垢な少女へ、求めた。

「多分、聖典が……っ、でも何で、血が赤いの……!?」

混乱しながらも、リナリーが答える。
お兄ちゃん、お兄ちゃん……!
宙に残される、呼び声。
傍を離れるべきでは、なかった。
この手から離しては、いけなかった。
例え、どんなに心を引き裂くような出来事が待っていようとも。

「、ハ……、ぁ……ッ、」

――頼むよ、クロス――

クロスは、腕に力を篭めた。

「……、寝るなよ」

掛かる重みが増していく。

「一緒に帰ってやる。もうすぐホームだ、なあ、

上から包むように、彼の手に自分の手を重ねる。
記憶よりも大きくなった、記憶よりも痩せてしまった手を握る。

――――
――、――

縋るように何度も何度も、彼の唇が震えた。
後悔が心を塗り潰す。
君を守ると、決めたのに。
君に、守ると誓ったのに。

「…………!」









痛い。
苦しい。
ただそれだけで占められた思考の只中に、師の声が割り込む。
分かっている、眠ったりしない。
逃げたりしない。
贖う時が来たのだから。
世界と世界を秤に掛けた罪を、今。
クロスが居るのなら、もう誰の心配も要らない。
自分の罪と罰だけを抱いて、立ち止まってもいい筈だ。

「(苦しい)」

握った服の下、硬い何かに触れる。
鍵だ。
嗚呼、もう返せない。
だって、――仲間の手に、手を重ねる気なんか、無かった。
否、本部へと、帰る気は無かった。
帰れなくても構わないと、思っていた。
皆を無事に帰すことが出来れば、それで良いと思っていた。
痛い。
苦しい。
これは、罰だ。
だけど、がこんなことを望んだ訳じゃない。
あの子を、穢したりしない。
痛い。
苦しい。
これは、罰だ。
だけど優しい家族が、
こんなことを望む訳がない。
彼らを穢したりはしない。
誰のせいにもしない。
自分で下した罰だ。
この痛みと苦しみは、自分が望んだ、自分だけの責任。
だからこの責任を果たさなくてはならない。
そうすれば。

――きっと、会える

その先できっと、皆が待ってる。
きっと皆に謝れる。
きっと皆に会える。
きっと、に。
、きっと、きっと、

――きっと









アレンを呼び戻し、方舟の江戸接続を解除させる。
江戸に残された仲間達が、安堵した様子で乗り込み、一様に息を飲んだ。
ジレーアによく似た女性が、何事かを叫んだ。
アジア支部へ、そして本部へと、方舟の扉が空間を繋ぐ。
クロスはどこか違う世界の話を見聞きするように、状況を眺めた。

「(頼む、……モージス……)」

あの教団へ、こんなに帰りたいと望むのは、初めてだった。









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