燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









掴んだアカは
受け入れた罪の証
零れ落ちるアカは
儀式が始まるその徴



Night.51 願いに手を掛ける









腕に抱えた黄金が、僅かに身動ぐ。

「(?)」

弟子の様子を窺おうと落としかけた視線を、リナリーの声が引き上げた。

「アレンくん!!」

は、と顔を上げる。
仮面。
白い道化が、憎しみで声を震わせながら、伯爵に斬りかかった。

「我輩の剣……!?」

その形態を初めて見たのだろう、伯爵が自身の剣で受け止めながら呟く。
アレンの左腕が変化したそれは、改めて見ると伯爵の持つ物とあまりに似ていた。
仲間を失った悲しみが、怒りが、憎しみが、アレンの銀灰色の瞳に溢れる。

「『憎悪』……イイ瞳だ、アレン・ウォーカァー!」
「ああああああ!!」

伯爵が、心底愉快そうに笑う。
アレンが叫びながら、力任せに剣を振るった。
崩壊が進む。

「落ちる! アレンくんっ」

リナリーの悲鳴が聞こえる。

「……ア、レン……」

小さな声が聞こえる。
気が付いたのか。
しかしクロスにも、声を掛ける余裕はなかった。
ここで『鍵』に消えられては、全ての苦労が水の泡だ。
アレンが、瓦礫の波に飲まれながら伯爵へと剣を振りかぶる。
クロスは唱えた。

「脳傀儡(カルテ・ガルテ)!!」

マリアの歌が響いた瞬間に、弟子の剣の切っ先は、まだ崩れていない地面へ向いた。
彼の意思とは関係なく、瓦礫へと剣を突き立ててアレンの体は落下を防ぐ。
間一髪、間に合った。

「やめろ。仲間に死なれて頭に血がのぼったか、馬鹿弟子」
「術を解いてください、師匠! 伯爵を!!」

涙を滲ませて叫ぶアレンを見下ろす。

「嫌でも這い上がってこい。憎しみで伯爵と戦うな」

言葉を飲み込んで、歯を食い縛り、アレンが俯いた。
瓦礫の中から喋る傘が飛び出し、伯爵に擦り寄る。
「快楽」のノアを抱えたまま、伯爵一行は落下を続け、派手な扉に吸い込まれていった。

「(新しい方舟に移ったか)」

此方の方舟は、完全に棄てていくのだろう。
リナリーが崖を覗き込み、アレンに手を貸そうとしている。
クロスは金色を軽く撫でて、その顔を上向かせた。
緩んだ漆黒が、ぼんやりと此方を見上げる。
呼吸が浅い。



――師匠、と。
途切れ途切れの声。
今にも落ちそうな瞼。
微笑みも無い。
空気を縛る力すら無い。
それでも。
クロスは、息を吐いた。









夢ではない。
紛れもなくクロス・マリアンが、の体を支えていた。
師に顎を取られ、何とかその顔を見上げる。
仮面に隠されていない目が、ぴくりと動いた。
クロスの唇が少し震えて、開く。

「もう少しだ」

与えられた言葉が、胸に落ち着いた。

――師匠が、いる

残っていた空気を吐き切って、目を閉じた。
ずるずると頭が落ちる。

「眠るなよ、いいな」

力を抜き、身を委ね、胸と腕に体を預けて、は一度だけ大きく頷いた。
何度か息をしながら、辺りに神経を巡らせる。
やはり、ラビとチャオジーの気配が無い。

「(……役立たず)」

自分だけおめおめと先を延ばされて。
肝心なときに、何も出来ない。

「立て、アレン。お前に手伝わせる為に、ノアから助けてやったんだ」
「てつだう……?」
「何をするんですか……?」
「任務だ」

は一度瞬いた。
先程朧げに聞こえた「14番目」といい「奏者」といい。

「(師匠は、何かを知ってる)」

それも、この「ノアの方舟」に関する何かを。
自分達の知らない何かを、この人が知っているのなら、活路はまだあるというのか。

「オレが何の為に来たか、知ってるだろうが」
「アクマの、『生成工場』の破壊……!」
「ここに生成工場があるんですか!?」
「部屋はまだ残っている。『生成工場』へ開けろ、ティム」

何故、ティムキャンピーが。
ちらと視線を上げると、大きな光の塊に包み込まれた。
眩しさに目を瞑る。
アレンの声を聞いて、はまた目を開けた。
新たな部屋には、同じような格好をした無数の骸骨が転がっている。
クロスが言うには、この死体は生成工場の番人達なのだそうだ。

「ここが、『生成工場』!?」
「アレンくん、うしろっ」

その向こうには、どくん、と息づく大きな玉が浮かんでいた。

「そのでかい玉が、伯爵が造ったアクマの魔導式ボディの『卵』だ」

――魔導式ボディのタマゴ

頭を金槌で殴られるように、ハッと意識が覚醒した。
つまり、あのタマゴが、あるために。
アクマ達は生み出されてしまった。
幾多の愛し合う魂が、弄ばれた。
教団の仲間達は家族を奪われた。
母は、父は、妹は。
妹は。
は。

「落ち着け、

自分を抱える腕が、軽く体を摩る。
我に返ると、自分がいつの間にか、喘ぐように呼吸をしていたことに気付いた。
ただでさえ足りない空気が、余計に薄い。
でも、あれが。
あんなものが、あるために。

「ブッこわしてぇんだが、結界が張られてて解除(ハガ)すのに時間が足りん」

クロスがアレンに説明しながら、変わらずの体を摩っている。
は、ふ、と息を継ぎながら、は目を瞑った。
力の入らない右手で、クロスの服を握った。

「ここが転送の最後の部屋だ。『卵』が転送された瞬間、オレ達もろとも方舟は消滅する」

瞼の裏の暗闇。
体が揺れる。
この最後の部屋にも、崩壊の時間が来たのだろう。
アレンが声を上げた。

「ど、どうするんですか、師匠!?」
「止めるしかねェだろ。要は『卵』を奪えればいい」

は目を開ける。
起動する、とは。

「方舟を起動させてこの転送を止めれば、『卵』は新しい方舟に届かない」
「こんな得体の知れない舟、どうやって!?」

伯爵の舟の動かし方を、知っているとでもいうのか。
この人が、何故。

「元帥……何か知ってるんですか? 方舟を動かせる方法を?」

リナリーが聞いた。
クロスが低い声で答える。

「オレじゃない。お前がやるんだ、アレン」

思わず、は目を上げた。

「(アレン?)」
「は?」

弟弟子は、全く寝耳に水といった様子で、固まってしまっている。
言われたことを、理解できている様子も無い。
クロスが魔術の呪文を唱えた。

「術で転送を邪魔して、若干だが進行を遅らせる。お前が舟を動かせ、アレン!」
「まってください、何言ってるのか全然分かりません! 師匠!!」
「とっておきの部屋を開ける。ティムに従え、そうすりゃ分かる」

もリナリーも、そして恐らくアレンにも、何が起きているのか分からないまま。

「どうして僕が……っ」

ティムキャンピーがまた激しく輝き、アレンを飲み込んでしまった。

「お前にしかできんからだ……馬鹿弟子」

クロスが呟く。
は呼吸の合間を縫って、一言投げ掛けた。

「……説、明……」
「後で話す」

それでいいだろ、とクロスが続ける。
がそれに頷いた時、また大きく部屋が揺れた。

「リナリー、こっちに来い。に掴まれ」
「は、はいっ」

ふ、と視界に影が出来る。
傍に温もりが立った。

「お兄ちゃん」

――お兄ちゃん――

この子は、妹ではない。
知っている。
ちゃんと、分かっている。
悲しいほどに、分かっている。
は腕を持ち上げて、彼女の背を軽く抱いた。
崩壊が、激しくなる。
クロスが大きく舌打ちをして、怒鳴った。

「馬っっ鹿弟子ぃぃぃ! とっとと転送を止めろオラァ!!」

リナリーがびくりと体を跳ねさせる。
小さな呟き。

「……無線?」

呻くアレンの声が、クロスが持っていたらしい無線から聞こえる。

「『部屋』に行けたのか!?」
「アレンくん大丈夫? 聞こえる?」
『リナリ? あっ、はい、大丈夫です』

畳み掛けて聞くリナリーに、アレンの声が柔らかく返した。
と、一転、叫ぶ。

『ってか、なんか二人の声近くないですか……師匠! リナリーに触らないで下さい!』

そんな心配が出来るくらいなのだ。
ならばアレンの飛ばされた「部屋」は、微塵も揺れていないに違いない。

「あーん? オレは触っちゃいねぇよ。お前、こっちが今、どんだけの床面積で頑張ってると」
「気にしなくていいから! アレンくん!」

また大きく、部屋が揺れる。
床が波打ち、崩れ始めた。
リナリーがの服を握り締める。
三人の、少し離れた場所に立つマリアの足元に、罅が入る。

「そこのピアノが船を動かす『心臓』だ、弾け! 楽譜はティムが持ってる」

姿勢を保てなくなったマリアが、遂に膝をついた。
クロスが頭上で息を吐く。
体を支える師の腕が、力んで震えている。
「卵」が消えかかっている。
術の反動が強いのか、手袋の端から血が滲み始めた。

「借金増えんのとどっちがいい。舟はお前の意のままに動かせる! 弾け、アレン……!」

罅が広がる。
リナリーが息を飲んだ。

「……もう、最後の『卵』が消える……っ!!」

は、リナリーの肩を強く抱き締めた。









一瞬の浮遊感。
直後に、揺れない足場の存在を感じた。
何だ、しかし都合がいい。
あと少しで、「卵」が消える。
クロスは歯を食い縛った。
この足場があったとしても、「卵」が消えてしまっては元も子もない。
力を込めて、目を瞑る。
その時、頼りない旋律が聞こえた。

「(きたか!)」
「ピアノ……!」

リナリーが顔を上げた。
クロスは無線に叫ぶ。

「お前の望みを込めて弾け! アレン!!」

――消えるな。僕の仲間を返せ

無線から、少年の叫び声が聞こえた。
鍵盤を叩いたようなピアノの音が、空間いっぱいに響き渡った。
クロスは「卵」を見上げる。
見る間に元に戻っていく。
転送は失敗、「卵」の奪取は成功した。
長く息を吐き出し、術を解く。
崩壊が止んだ。

「お兄ちゃん……お兄ちゃん、痛い……っ」

胸元からリナリーの小さな声が聞こえる。
ふと視線を下ろして、クロスは初めて「足場」の正体を知った。
真っ赤な半透明の膜が、マリアを含めた四人の足元に広がっている。
見覚えのない色だ。
けれどつい先程見た色だ。
そしてこれは、見覚えのある形状。

「(聖典……!)」

抱えた体は小刻みに震えて、異常に強張っている。

「お兄ちゃんっ」
、もういい」

クロスはリナリーに回された彼の腕を離した。
腕はだらりと垂れ下がる。
冷や汗で湿るの頬を、軽く叩いた。

「聞こえるか、。もういい、よくやった」
「……っ」

赤い「帳」がぱしゃん、と液体に姿を変えた。
リナリーを安心させるように頷き、クロスは彼を抱えながら座った。

「『卵』が元に戻ってる……」
「消滅プログラムも解除されたな。これで『生成工場』は伯爵の元に届かんだろう」

無線の向こうのアレンへも、よくやったという意味を込めて声を掛ける。
しかし答えはない。

「アレンくん? アレンくん、大丈夫?」

方舟の奏者が、正しく舟を操ったのだ、無事でない筈がない。
つまりは、無視。
流石に気持ちは分かるつもりだ。
全てを説明するつもりもないが、それにしても、余りにも唐突だった。
特に咎め立てたりせず、淡々と無線に声を向けた。

「お前のいる『部屋』に行くから、こっちにドアを出せ。お前が望めば開く」

ポン、とピアノの音。
答えるように、忽然と扉が現れた。
ぎょっとしたようなリナリーを促し、を抱いて立ち上がる。

「……アレン、は……」

掠れた声が、胸元から聞こえた。
見れば、漆黒が懸命に此方へ焦点を合わせている。
クロスははっきりと、低く言った。

「心配すんな、今会える」

の視線がす、と流れる。
扉の向こうには、小さな部屋。
長椅子が二脚、そしてピアノが一台置かれていた。

「アレン……くん?」
「リナリー、良かった、無事で」

戸惑ったままの彼女と言葉を交わし、アレンがクロスを睨み付けた。
長椅子の片方に腰を下ろし、を寝かせる。
クロスはアレンを見上げた。
膝の上からは、漆黒がクロスを射抜いている。

「お前が何を言いたいのか、分かってる。コワイ顔すんなよ」
「どうして……っ、あの、楽譜は……」

この場で、言ってしまっていいのか。
本当に、今がその時機か。
リナリーを巻き込んでいいのか。
を、巻き込んでいいのか。
言い募ろうとするアレン、眉を顰めたクロス、待ち続ける、不安げなリナリー。



『ごはんですよーッッ!!』



全員の動きを、何処からか響く大声が遮った。
アレンの瞳が、真っ先に剣呑さを失う。

「なんだっ?」
『ラ、ラビさん。そんな、犬じゃねーんスから……』
『いーから、みてろよチャオジー。飢えたアレンならスッ飛んでくっから』

リナリーが息を飲み、が目を瞠った。
方舟の何処からか聞こえる音声だと判断し、クロスは背凭れに体を預ける。
部屋の壁に、大きな映像が映った。
ブックマンの弟子、そして彼と共に崩壊に飲まれた青年が、画面いっぱいに映り込む。
二人とも、消えた時と変わらない姿のまま。
背景の街も、そっくりそのまま、戻ってきている。

『ごはんだぞ、アレン!! ごぉーはぁーんんんーッッ!!』
「ラビ……ッ、チャオジー!」
「生きてる……っ」

方舟は、次元の狭間に吸収されただけで、取り戻しさえすれば、消えはしないのだと。
明かせば、アレンはクロスへの文句もそこそこに、ラビ達と通信しようとあたふたし始めた。
映像には新たに、神田と、意識の無い様子のクロウリーが映る。
気が抜けたようにリナリーが座り込み、ティムキャンピーが慌ててその周りを旋回した。
クロスは膝の上、腕の中を見下ろした。

「ったく……落ち着けっつってんだろうが、お前は」

笑っているのか、泣いているのか、苦しんでいるのか。
綯い交ぜになった表情で、が胸を押さえた。

「……っ、よかった……」

掛けられる以上の期待に応えようとする、彼のことだ。
狂ったように家族の命を重んじる、彼のことだ。
また一人、気を張っていたことくらい、聞かなくても分かる。
クロスはふ、と微笑んで、不規則に喘ぐ彼の肩をゆっくりと摩った。









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