燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









愛する我が子を屠るのは
自分が作った蝋の羽根



Night.50 無力な人間の嘆き









その体を持ち上げた時、ラビは正直、手遅れだと思った。
体が冷え切っていたからかもしれない。
彼が赤に染まったのを、初めて目にしたからかもしれない。
支柱が、掻き消える。
場を照らす光が、心の在り処が消える。
けれど、彼の心臓は、そのものがイノセンス。
神が彼を愛しているというのなら、それが人間に力を貸してくれるという意味ならば。
きっと望みはあるはずだ。
そう、信じたいから。

「連れ、て……帰るさ……」

――何としても、皆が待つ、ホームへ

意識が体に戻ってくる。
崩れた最後の部屋。
風景はまるで変わって、あちこちに瓦礫が散乱している。
リナリーに預けたの行方は知れず。
しかし顔を少し動かせば、彼女の後方に投げ出されているのが見えた。
上から落ちて来たのだろう石の天井を、チャオジーが支えている。

「(腕が光ってる……イノセンスか?)」

もしもそうだとしても、まだコントロールは出来ないだろう。
ティキに攻撃されるのも、天井が落ちるのも、時間の問題だ。
気がついたらしいアレンと目を見交わす。
手元で槌に力を込める。
同時に跳ね起きて、チャオジーの両側から各々の武器を突き出した。
すぐさま弾き飛ばされる。
ラビからは少し離れた場所、のすぐ傍に、アレンが飛ばされた。
少年が立ち上がり、リナリーを狙うティキを道化ノ帯で捕らえた。

「間違えるな……あなたの相手は、こっちだ……」
「アレンっ」

絞り出されたその声からは、幼さが消えていた。
まっすぐにティキへ対峙する。

「言ってたでしょ、確か……僕を、殺したいんじゃなかったんですか……?」
「アレンくんッ」
「来い……っ」

足許の兄弟子へと目を向け、そして向けた視線を自分から断ち切って。
何処から湧いてくるのか、なけなしの力を振り絞って。

「ここからもう……生きて出られないとしても、命が尽きるまで戦ってやる……っ」

マナとの約束だ……!! アレンが唸るように叫んだその時、地面が輝いた。
彼らを囲むように、眩い紋章が浮かび上がる。
輝きには何らかの力があるのか。
ティキだけが吹き飛ばされた。
地面が、消える。

「うわあああっ」

アレンとが、穴に落ちていく。
ラビは思わず叫んだ。

「アレン!」
「お兄ちゃん!」

アレンの叫びが、唐突に止んだ。
穴の中から浮かび上がる骸骨面の人影。
鎖を巻き付けた大きな柩に乗って、右手にを抱え、左手にアレンの足首を捕まえている。

「なんだこの汚ねェガキは。少しは見れるようになったかと思ったが……」

低い声が、アレンへ向けられた。
逆さまに吊られながら、アレンが骸骨を呆然と見上げている。

「いや、汚ねェ。拾った時と全然変わらんな、馬鹿弟子」

「これは、対アクマ武器『聖母ノ柩(グレイヴ・オブ・マリア)』……! って、ことは、」

アレンの顔色が、見る間に悪くなる。
極端に気まずそうな表情で、彼は言った。

「お……おひさし……ぶり……です」

骸骨の顔が、溶けるように消えていく。
その面の下から、にやりと意地悪く笑う赤髪の男が現れた。

「なんだ、その嬉しそうな顔は。おとそうか?」









「マジ?」
「誰っスか」
「クロス、元帥……」

離れたところから、リナリー達の声が聞こえる。
クロスはちらと辺りを見回した。
江戸での彼らの戦いに乗じて方舟に侵入したクロスは、真っ直ぐ任務に着手していた。
方舟内に設置された、AKUMA生成工場(プラント)破壊の任務である。
その下準備を済ませ、いよいよ方舟が崩壊を迎えるという時に、此方の騒動に気付いたのだ。
大体の様子は、江戸戦を窺った時に知っている。
リナリーの艶やかな黒髪が、すっかり短くなってしまっていること。
何人かの非戦闘員がその場にいたこと。
ブックマン師弟や見覚えのないエクソシストが、何とか持ちこたえようとしていたこと。
ティエドール部隊の合流。
アレンが方舟から現れたこと。
そしてが、とうに限界を超えて戦っていたこと。

「(馬鹿野郎)」

馬鹿は、どちらか。
心の中で自問する。
地面に降り立ち、掴んでいたアレンの足首を放した。

「あいたっ」

右腕を窺う。
首に触れると、乱れた脈を微かに感じた。
恐らくアレンの修行前に起こった、聖典の最初の副作用と似た状態なのだろう。
違うのは、血の色。
聖典の発現からこちら、彼の血液は黒く色を変えていた筈だが、今は違う。
他の人間と同じ、赤い血を流している。

「(……モージス、)」

今か、もしくは以前からこうなのか。
力を無くしたのか、まさか、そんな事がある筈は無い。
そうであったら、どんなに良いだろう。

「(悪かった)」

外套を脱ぎ、に被せた。
彼の瞼がほんの一瞬、震える。
それを認めたクロスは、弟子を外套ごと片腕で抱えた。

「(手放して、悪かった)」









クロスは傍に座り込むアレンを見下ろした。
左腕は伯爵が持つ剣と酷似した形に変形し、肩の継ぎ目も、違和感なく体と融合している。
やっと、まともに発動出来るようになったのだろう。
とはいえ、未だノアへ対抗するには力が足りない。
クロスはアレンへと、空いた手を差し伸べた。

「それにしてもボロボロだな……ホラ」

「へ? あっ、は、はいっ、すみません?」

ぎょっとしたように、けれど素直にアレンが手を伸ばす。
それをむんずと掴んで、リナリーがいる方向へと力一杯放り投げた。

「うわぁっ」
「えっ……きゃあっ!?」

弟子の悲鳴と、可愛らしい少女の叫び。

「汚ねェんだよ馬鹿弟子がッ」

クロスは吐き捨てて、ラビへと目を向ける。

「オラ、貴様もあっちいけ。美しいもんは傍においてやるが、汚ねェのはオレに近づくな」
「酷い言われようさ……」

抱えたままの金色を、アレンの元へ遣るべきか、否か。
赤いままの血を見て、乱れたままの鼓動を感じて、クロスは顔を上げた。

「エ……グソ……ジズ……ド……」

既に正気ではないその唸り声を聞き、を抱える腕に力を込める。

「ノアにのまれたか。一族の名が泣くぜ?」

傍らの柩に手を掛け、禁術の呪文と共に鎖を解き放った。

「導式解印(オン・ガタル)! 『聖母ノ柩』限定――解除!」

柩が開く。
漆黒のドレスを纏う寄生型イノセンスの女性の屍が、姿を現す。

「聖母ノ加護(マグダラ・カーテン)!」

クロスの命令に、彼女が応えた。
喉元に手を当て、高らかに歌い出す。
対峙するノアが慌てたように左右を見回した。
クロスはそれを鼻で笑い、服の裾を払う。

「ガキ共にはご退席してもらったぜ。いいだろ、別に。なぁ?」

聖母ノ加護は、敵の脳から視覚に幻術をかけて、対象を守護する技である。
これで、ノアはアレン達を認識することが出来なくなった。
戸惑うノアへ皮肉な笑みを向け、脚のホルダーから抜いた大振りな銃を構える。
自身の対アクマ銃「断罪者(ジャッジメント)」、その引鉄を四回、引いた。
鋭い弾丸が、ノアを吹き飛ばす。
クロスは聖職者ぶって唱えた。

「アーメン」

弾倉を替えて弾丸を放ち続ける。
ノアが奇声をあげて、その軌道を逸らした。

「弾丸の軌道をはずすのが精一杯か? でも、どうだろうな……?」

瓦礫にめり込んだ弾丸が、ズン、と震えて軋む音を立てる。

「断罪者(オレ)の弾丸はターゲットにブチ込まれるまで止まらない」
「!!」

一方的な攻撃。
武器に戦いを委ね、ちらと腕の中へ視線を走らせる。
ち、と舌打ちをしかけたその時、ぐらりと地面が揺れた。

「時刻(じかん)か」
「師匠ぉー!!」

アレンがリナリーを支えながら叫んだ。
を抱え直し、クロスは目を眇める。

「……急がないと間に合わねェな」

こんなところで油を売っている暇は無い。
クロスの「任務」は未だ途中だ。
早いところでけりをつけようと断罪者を構え直すと、ノアのいた場所に突如、閃光が走った。
地面が大きく罅割れ、傾ぐ。
重心を落として、バランスを取る。
アレンは、リナリーは無事だ。
しかし残る二人の姿が見当たらない。
弟子の叫びが聞こえる。
瓦礫が壊れ、崩れる。

「(警戒しろ)」

自分は、弟子達とは違う。
アクマを見抜く目も、空気を支配する力も持ち合わせない。
ただ経験と技量だけで、いつだって切り抜けてきた。
地面が、破片が浮かび上がる。
クロスは思わずは、と息を吐き、口の端を上げた。

「……これはまた」

粉塵の向こうに、ノアを肩へ担いだ、千年伯爵の姿があった。

「こんばんワ」
「よぉ。相変わらずパンパンだな、このデブ」

よりにもよって、今、出会すことになるとは。
タイミングの悪さに、悪態を吐きたくなる。

「会うのは何年ぶりでしょうかネェ」
「さぁな。デブと会った日なんていちいち日記に記してない」

クロスがぞんざいに言葉を切り捨てると、伯爵は茶化すように笑った。

「マ。その言い方はー、我輩とよく会ってるように聞こえますネェ。隠れんぼーのクロスちゃぁーン」

ゆったりと、変に抑揚をつけた言葉。
言葉に合わせて、伯爵が体を揺らす。

「そこのご婦人の小賢しい能力は、我輩達の目から貴方を消してしまいますからねェ。
借金取りからもそうやって逃げてるんでしょウ?」
「はっはっは」

崩壊は、ますます激しくなる。
時間の無駄だ。
クロスは笑いながら断罪者を構え、引鉄を引いた。

「貴様のトロいしゃべりに付き合う気分じゃない。冷やかしならでていけ」









――嗅ぎ慣れた香りがする

真っ黒に塗り潰された意識の底を叩く、武器の音。

「(苦しい)」

聞き慣れた心音を感じる。
覚えのある、力強さ。
いつだって眠ることを許してくれた、温もり。
いつだって、を渦の中から掬い上げてくれた温もり。
繰り返し試みて、やっと吸えた空気から、嗅ぎ慣れた煙草の香りがする。
瞼が重い。
僅かな視界に、誰かの腕が見える。

「冷やかしならでていけ」

懐かしい声が聞こえる。
燃えるような赤が、見える。
間違いない。
間違える筈が無い。

「(……おじさん……)」

顔を上げるだけの力が出ない。
落ちてしまいそうな瞼をなんとか開き続ける。

「『でていけ』? これはこれは! ここは我輩の方舟ですガ」
「捨てたんだろ」

記憶に残る嫌な声が聞こえた。
まさか、偽者ではないのか。
本物の千年伯爵が、この場に居るのか。
顔を上げられない。
力が入らない。
苦しい。
クロスの声が、続けた。

「この方舟は江戸から飛び立つ翼を奪われたアヒル舟。……『14番目』、」

空気の感覚が、体に戻ってくる。
伯爵の纏う空気が、がらりと色を変えた。

「ノアを裏切った男の呪いがかかった日からな」

研ぎ澄まされた刃のような、鋭く禍々しい空気が荒れ狂う。

「やはり……貴方でしたカ。あの男、『14番目』に資格を与えられた『奏者』ハ」
「(……14、番目……奏者……)」

何の話だ、聞いたこともない。
クロスが何を知っているのか、何を知っていたのか、分からない。
ラビとチャオジーの気配が無い。
どうして、ここまで来たのに。
瞼が重い。
苦しい。

「(くるしい)」









「奏者……?」
「伯爵……っ」

リナリーとアレンの声が聞こえる。
伯爵が表情を変えぬまま、首を傾げた。

「何をしに来たのです? この舟を奪いに来たのなら、遅すぎましたネェ。
貴方の忠実な神様はそのざま。そしてこの舟の『心臓』は既に、新しい方舟に渡りましタ」

かっと頭に血が上る。
誰のせいだと思ってやがる。
クロスは言い返しそうになり、けれど思い直して、表には出さず踏みとどまった。

「手足をもがれては、ただの人間に為す術はない。
『心臓』がなくては舟を操れない。奏者であっても何もできませン」

愚かですねェ、クロス。
機嫌よく伯爵が笑う。

「この方舟は、最後にエクソシストの血を吸う柩となるのですヨ。ホッホッホッホッ」

悪魔の哄笑が響く。
腕の中の金色が僅かに身動いだ。









   BACK      NEXT      MAIN



130714