燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









大切なものが あるんだ
もどかしいほどに 愚かで
呆れるほどに 不条理で
それでいて狂おしいほどに
優しくて 愛おしい
大切なものを 見つけたんだ



君が想いを 叫んだならば
願いを 叫んだならば
君が望みを 呟いたならば



どうか



――風が 心の扉を閉ざす――



鎖の制約に囚われても
重い十字架を負わされても
この身を代価に捧げてもいい



どうか



――堅く堅く、扉を閉ざす――



望む者全てに 愛と眠りを



Night.49 空へ――贖罪









崩壊の音が近付く。
神田とクロウリーを瞼の裏に描きながら、は扉に凭れて荒く息をついた。
休み休み、その調子でよく間に合ったものだ。
扉の中の戦闘は終わっているだろうか。
もし、一人も、この中に居なかったら。
この中で生きていなかったら。

「……っ、まさか」

自分が信じなくてどうする。
まだ息の整わないまま、引き攣るような胸の痛みを抱えたまま、全身で扉を押し開けた。



広がるのは、焼け跡の燻る部屋。



その中に、騒ぐ二人と、それを止めようとする二人の姿があった。
騒いでいた朱い髪が揺れて、此方を振り返る。

「っ、!」
「兄さん!」
「お兄ちゃん!」
様!」

跳ぶように駆けてくるラビに、続く大きな声に。

――生きている

安堵した途端、身体中の力が抜けた。
すぐに正面から支えられて、焦げた団服に気付く。

「……お前、なんで、焦げてんの……」
「ちょ、第一声がそれかよ」

変わらないやり取りに、自然と笑みが零れた。
ラビの団服を、握った。

「生きててくれて、ありがとう」
「そりゃこっちの台詞さ、……良かった、

笑みを交わして、は断らずに彼の肩を借りる。
感じる体温に、じんわりと目が熱くなった。

「お兄ちゃん……! 良かった、また、会えて……!」

涙を溜めるリナリーの頭に、軽く手を置く。

「リナリーも。アレンも、チャオジーも、……みんな無事で、本当に良かった」

優しく手を弾ませて、大きな瓦礫に寄り掛かるように腰を下ろした。
福音をホルダーに納める。
チャオジーが傍らに座り込んだ。

様、お怪我は、」

そう聞く彼こそ、背中に傷を作っている。

「大丈夫、大したこと無いよ」
「ミザンは、もう……?」

アレンの問いに頷き、は辺りを見回した。
向こうの壁際に、座り込むティキの姿が見える。
レロが、燕尾服に顔を擦り付けるように泣いている。

「ティキ一人、だったのか?」
「ロードも居た。けどまぁ一応、倒したさ」
「その時にラビがこんな風にしちゃったんですよ」
「し、仕方ねェだろ!」

今確かめてくるっつーの!
慌てたようにラビが言って、槌で上階へ向かった。

「……そっか、扉は上か」

部屋の崩壊が、始まった。
ぼんやりとラビを目で追って呟けば、アレンが頷く。

「ええ。壊れてないといいんですけど」
「そうだな」

小さく笑った。
応えて笑うアレンの団服を、リナリーが摘まんだ。

「アレンくん、お兄ちゃん」

俯いてぽつりと、彼女は呟くように言う。

「扉があっても、自分達だけ入らない気でいる?」

チャオジーが気まずそうに此方を見た。
きょとんと目を瞠ったアレンが、頬を掻く。

「さすが……」
「さすが、じゃない!」
「ぐふっ」

言った直後に拳で頬を殴られながらも、アレンは起き上がり、苦笑した。

「この中では、僕が一番、まだ動ける。だから」

は先を制すように、首を振った。

「駄目だ」
「兄さん?」
「確かに、……お前が一番、消耗が少ない」

思考に靄がかかる。
けれど何とかして、この弟弟子を説き伏せなければ。
は瓦礫に凭れていた身を、僅かに起こした。

「だけどもし、敵が全員残っていたら、お前、一人で戦い切れるのか」
「それは……、っ、その言い方じゃ、兄さん、」
「もしもの話だ。第一、クロウリー担いでユウの援護なんて、出来ないだろ」

最悪を想定するなら、二人は負けたか、崩壊に飲まれてしまっていると考えるべきだ。
が階段を上っていたとき、既に辿ってきた道は半ばで途切れていたのだから。
助けに戻ろうにも、彼らのいた場所は無くなっているかもしれない。
それでも、全員で本部へ帰還したいと願うなら。

「……皆で、帰りたいだろ」
「当たり前です!」
「うん……っ」
「はい!」

は頷いて、俺もだ、と微笑んだ。
願っているからこそ、採るべき道は決まっている。
今の自分達は、終わりが見えたから明るく振る舞えているだけだ。
戦力の分散だけは、決して出来ない。
外の仲間と手を取り合って、体制を立て直した上で一気に叩く。
そのために。

「だからまず、俺達が此処を出るんだ」

チャオジーとリナリーが頷く。

「まだあったぞー!」

上階から、ラビの声が響いた。
アレンが遅れて、渋々頷いた。

「引き上げっから掴まれ……いや、待てよ……アレン!」

何人、連れてこれる?
ラビが問い掛ける。
アレンがう、と返答に詰まった。
怪我をしたリナリーとチャオジーならまだしも、も自力で上がれないと見なされている。
そのラビの言葉を、チャオジーが訝りもせず受け入れている。

「(そんなに、頼りなく見えるのか)」
「片手にリナリー、反対にチャオジー、背中に……ううん、背中にリナリー……」

眉根を寄せるアレンに、は苦笑を向けた。

「俺は後でいいよ。二人を先に」
「うーん……そうします、すいません。リナリー、チャオジー、行きましょう」

頷き返して、二人をアレンの方へ促す。
此方を窺うリナリーに、大丈夫と笑い掛けた。
二人を抱えたアレンが、槌の柄を掴む。

「すぐ下りて来ますから!」
「悪い、頼むな」

アレン達が引き上げられるのを、笑みを貼り付けてぼう、と見上げた。
ようやく周りに人が居なくなり、ふと気が抜ける。
もう、満足に息が出来ていなかった。
胸の辺りに、重苦しいものが競り上がってくる。

「(血、流しすぎたかな……)」

手の先は冷たくかじかんで、足の感覚は既に無い。
頭が痛い、目が霞む。
そして何より、酷く、眠い。

――お兄ちゃん――

呼ぶ声に、その愛おしさに、瞼を下ろした。

「…………」

――お兄ちゃん――
――お兄ちゃん――



――お兄ちゃん――



張り巡らした空気に「何か」が触れた。

「はっ、はぁっ……」

「聖典」が勝手に発動状態へ移行する。
心臓を茨で縛りつけられたような痛みが、飛びかけた意識を引き戻した。

「……ん、だよ……っ」

――このまま、醒めない眠りに就けたなら

そう思っても、あと少しだと皆が力を奮っているこの場で、不安にさせる訳にもいかない。
アレンが再び下りて来る前に、何とかこの痛みを鎮めなければ。
けれど躍起になればなるほど、感覚はより鋭敏に研ぎ澄まされるのだ。

「……っ、ん、」



――おにいちゃん――



「く……、っ……?」

聞こえるのは自分の鼓動と息の音。
見えたのは渦を巻く空気と、そこから伸びる黒い物体。
禍々しい気の中心に一人立つ、

「……ティ、キ……?」
「ふわわわわわっ!」

茫然と見つめていると、レロが叫びながら飛んできた。

「レロ、あれは……」
「分かんないレロ! 分かんないレロォ! た、助けて!!」

黒く細長い、羽の骨格のようなものが、空気を鞭打ち、切り裂いた。
レロの側を掠めていく。

「っ、隠れてろ!」

柄を引っ掴み、瓦礫の中に放り投げながら言い放つ。
彼の行く先を見る余裕は無い。
胸の痛みが意識を繋ぐ。
未知の危険に、極限まで集中が高まる。

「ティキ……っ」

返って来たのは、不気味な笑み。
一気に迫りくる殺気。
同時に上階から触れる、新たな空気。
ハッとして、身体中で怒鳴った。

「来るなッ!! アレン!!」

四方にうねる羽。
その一つに、正面から打ち払われた。









「……さ、ん……」

耳元が五月蝿い。

「……い、さん……にいさんっ……」

聞こえてるよ。
声に出した筈だった。
けれど動いたのは重い瞼だけ。
ぼやけた視界に、見慣れた白が映った。

「兄さん! 兄さんっ!」
「……ア……レ、ン……」
「良かった……!」

アレンが泣きそうな顔で、の身を起こした。
上階から引きずり下ろされて頭を打ったのか、彼の額から頬にかけて血が伝っている。

「ティキ、は……」
「やっぱりあれは、ティキ、ですよね」

言われて見遣る。

「……そうとしか、思えない」
「でも、……っ、ノアの力は、ボクが破壊した筈なのに」

アレンが「神ノ道化」を発動させて、声を上げた。

「血が、黒い……!?」

振り返る弟弟子。
もティキの腕に目を遣る。
滴ったのは、自分のものと似た漆黒の血。

「力が……力に、飲まれたのか?」
「がっあぁあぁああぁああああぁああぁああ」

呻きと共に、羽のような、その骨格を模した鞭のようなあの物体が、彼の全身に巻き付いた。
今まで見たノアと、今まで見てきたティキ・ミックと、明らかに異なる姿。
西洋兜を被り、マントのようなものを靡かせている。
何故、いや、何なんだ。
神田やクロウリーを助けるなんて、絵空事だ。
この禍々しい気を、力を、防ぎきる余力が誰に残っているのだ。
一刻も早くこの場を離れなければ。
一刻も早く、こいつの前から立ち去らなければ。
ティキがこちらに襲い掛かる。
止める間もなく、アレンが走り出して応じた。

「待……ッ! ア、レン……!」

疼く心臓が、憎い。

――やめろ

吹き飛ばされて、それでも立ち上がろうとするアレンを、ティキは何度も執拗に追い詰める。
二人の間にあるのは、圧倒的な力の差。

――やめろ

弟が、襤褸の砂袋のように扱われている。
何で、どうして体が動かない。
どうしていつも、守りたい人が居るときに限って。

「……ふ、ざ、けんな……ッ」

――動け

アレンが体勢を崩す。

――もう一度

ティキの力が、膨れあがる。

――もう一度!









まだ覚えているだろう
あの日、誓った言葉を
この身で以て、贖罪を為すのだと









「兄さん!?」

振り絞った感情で、身体に火を点ける。
は二人の間に飛び込んだ。
肩で息をするアレンを背にして、ティキと顔を合わせる。
敵の口の端が、ニタリと持ち上がった。
背筋を這う悪寒。
負けじと空気を意識に入れる。

「『帳』!!」

漆黒が聳え立つ。
ティキの力との盾がぶつかりあった。
場を震わせる衝撃。
開いている傷口から、新たに血が零れる。
身体が冷たく、怠くなるのにつれて、血の盾はよりいっそう強固に塗り固められていく。
敵前逃亡は、今出来る最良の選択だ。
一瞬でも早く、逃げなければ。
一瞬でも長く、生きる道を。
せめて、

「兄さん!」
「上、行け」

せめて、アレンだけでも、上へ。

「でもっ、」
「行け!!」

その為に、自分が退く訳には、いかない。
肩には願いが懸かっている。
未来はとうに秤に掛けた。

――嗚呼、

退く訳にはいかない。
力が足りないなら、鍵を開けるしかない。
この身は、贖罪。

――寒い

「聖、典、――っ、」



禁句を口に上らせようとしたその時、身体の中心から、硬質な音が聞こえた。



今までと明らかに違う感覚。
競り上がる血の臭い。

「が、はッ」

口の端に血が溢れ、宙へ浮かび上がった。
見える景色の、否、聳える盾と漂う血の色が、変わった。

「(……どうして……!!)」



――それは、随分昔に失くした筈の、緋色の雫



力を無くすのか。
今、このタイミングで。
内側から迫る恐怖は、刹那、消え去った。
一瞬、圧迫されたように息が詰まる。

「っ……ぐ、……あ、」
「兄さん?」

総毛立つ。
心臓の一部を鉤爪で刺される感覚。
次いで、再開する呼吸と共に駆け抜けたのは、そこをくり抜かれたような。
否、焼けた鉄で抉り出されたような、容赦の無い痛み。



パキン、
そう小さく鳴って、



「――ッぁああ!!」

理性が、痛みの鞭に嬲られる。

「兄さん!?」

ティキの攻撃を正面から受けていることも、アレンを背に庇っていることも。
全てが頭から吹き飛んだ。
赤に染まった壁が、四散する。



逃げろ



その言葉を紡ぐことが、叶わなかった。









彼はいつも体ごと、敵と自分の間に入って助けてくれた。

――飛び道具を持っているのだから、遠くからでも、きっと間に合うのに

小さな自分がそう言うと、彼は笑って頭を撫でてくれた。
太陽の光にも劣らない、輝かしい笑顔だった。

「もしも力負けしたら、どうするんだよ。盾が無いと困るだろ?」









「しっかりするさ! アレン!」

ラビに受け止められたアレンは、一拍遅れて、彼が受け止めたのが自分だけだと悟った。
頭の痛みを、視界のぐらつきを堪えて、首を巡らす。
扉の破片が、落ちているのが見えた。
まさかもう、出られないのか。

「……兄、さんを……」
「分かってる!」

助けて。
こんな状況もきっと打破出来ると、笑って。
あの笑顔が見たいのに、空気の密度がこんなにも薄い。
ラビが厳しい表情のまま、辺りを見回した。
瓦礫の傍にその体を見つけ、彼はアレンを降ろして走っていく。

!!」

ボロボロの団服。
ラビに抱え上げられる体。
腕が、力無く垂れ下がる。
黒い手袋から地面に落ちる、真っ赤な雫。
口の端から流れる、血。

! ッ!!」

強い力で揺すられても、震える声で怒鳴られても、彼は瞼を動かさない。
何故、あんな身体で飛び込んでこられたのだろう。
何故自分は、ここで動けないでいるのだろう。

――まさか、本当に自分の盾になるなんて

「に、い……さ……」

もし彼の言うことを聞いてすぐに上階に逃げていれば。
自分が此処に居なければ、何かが変わっていたかもしれないのに。

「アレン、掴まれ!」

を片手で抱えたラビが、槌を示した。
アレンは力を振り絞り、立ち上がる。
足を縺れさせながら、何とか手を伸ばしてラビにしがみつく。
彼を連れていくということは。

「伸!」

最後の塔、その上階を目指して、槌の柄が伸びる。

「逃げるぞ、ここから」
「兄さんはっ」
が、死ぬはずねェ」

上だけを見つめて、ラビが絞り出すように言い切った。
上階に降り立つ。
足元がふらついて、アレンはそこに膝をついた。
つい先刻、意識のないティキを助けるか否かで揉めたチャオジーが、息を呑んだ。
ラビが怒鳴る。

「早くオレに掴まれ!」

茫然と呟いたのは、リナリー。

「お兄ちゃ、ん……? ……うそ、」
は死んだりしない!! いいから早くっ」
「ラビ!!」

顔を上げたアレンは、ラビの後ろを見て叫んだ。
ティキが、いる。
まさかこの高さを跳んでくるとは、思ってもみなかった。

「っ!」

ラビが振り返り、ティキに応戦する。
押されている。
直火判も効いてはいない。
一瞬で肩を切り裂かれる。
リナリーがを抱えて後退る。
アレンは左腕を再び剣に変えた。
挑む。
打ちのめされる。
ラビが挑む。
傷つけられる。

「(兄さん、兄さん、兄さ……っ神様!)」

早く、此処から。
黄金の助けは無い。
助けがない。
導く声がない。
目指すべき微笑みがない。
彼が、いない。
力の差がありすぎる。
先が見えない。
心が萎縮する。
こんな敵に勝てる訳が。
勝たなくては、だけど。

「いゃあぁぁあああぁぁ」

鞭に巻き込まれ、塔もろとも引きずり倒される。
突き落とされる最中、リナリーの悲鳴が、聞こえた。









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