燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









だから、泣いたのだ
だから、悔いたのだ
自分も確かに人だから
だから、憎いのだ



Night.48 氷が解ける時









空っぽに、なった気がする。
は福音を握ったまま、立ち尽くしていた。
きっと普段なら、フィルとミザンの為に心を動かすことくらい、するのだけれど。
目の前の情景をただ、眺めた。
二人の呼吸の音だけが聞こえるその場所で、新たな音が生まれる。
壁の軋む音。
何もなかった空中に、刺々しい氷の華が咲く。
その一つが、ミザンの「世界」を映した氷を打ち砕いた。
ゆらりと、白銀が立ち上がる。
まるで、氷の茨に囲まれたような力ない立ち姿。
そんなミザンを見て、少しだけ、鼻の奥がつんとした。

「(……そうか)」

今、やっと理解した。









思考が全く纏まらない。
纏まらせたくない。
荒く息をつき、能力を開放する。
部屋中の氷が、水分が軋み、周囲には氷の華が咲く。
そうだ、この音だ。
ミザンはゆらりと立ち上がった。
ふ、と。
腹の底から、抑え切れない笑いが込み上げた。

「っ、はは、あはははははは!」

傍らの空気から取り出した氷柱を掴み、投げた。
が銃身で凪ぎ払う。

「うふふ、ふは、ははははっ!」

見境なく氷柱を作り出し、手当たり次第に掴んで投げる。
金色、否、黄金は、攻撃もせずただただ氷柱を壊していた。

「どうしたんですか、お人形さん!」

ミザンは叫ぶ。
壊したい、全部壊してしまいたい。

「中身なんか何もない、空っぽの入れ物! ふはは! それがカミサマの正体とは!」

エクソシストとして、または兄として。
掛けられた期待に押し潰されて、自分を無くした人間が。
手前勝手な感傷で心を追い込み、自分を失った人間が。
明確な意志を持つ人間に敵う訳がない。

「しかし、なるほど? 貴方がカミサマと呼ばれる理由も、理解してあげてもいいでしょう。
確かに、ふふふっ、確かに貴方は、偽りの「神様」なのでしょうね! あっはっはっはっ!」

ミザンはひしゃげた右手を高く掲げた。

「誰かの願いを自分の中身にしてしまう……とんだカミサマも居たものですねぇ!」

意志の無い人間如きに、ミザンが負ける訳がない。
必ず奴を殺して、千年伯爵の望みを叶えるのだ。
負ける訳がない。
ミザンは、伯爵様のために。

「辛かったでしょう? 悲しかったでしょう!? 今、私が壊して差し上げますよ!」

右手を降り下ろすのに合わせて、雹が黄金に襲い掛かる。
そう、あれは金色ではない。
あれは断じて、金色などではない。
金色は、金色は。
金色は。
黄金が腕を横に払った。
同時に放たれたのであろうイノセンスの銃弾が、ミザンの氷を撃ち落とす。
あれは、金色ではない。
ミザンは懐からメスを取り出して、放った。
銃弾がメスを弾く。
の背後が光る。
途端にそれは膨れ上がって、瞬きの間に細かな粒へと変わり、宙に浮かんだ。

「磔」

が唱える。
漆黒のその粒は、釘の形を模して、獰猛な動きでミザンへ向かってきた。
視界を埋め尽くすほどの釘の嵐。
すかさず氷の粒を竜巻のように巻き上げる。
晴れた視野の先で、黄金は此方へ銃口を突き付け、静かに佇んでいた。
思わず次の動作を忘れ、深く澄んだ漆黒に見入ってしまった。
まるで、あの深海の青に似た、漆黒に。

「お前だろう? ミザン」

感情を一切含まない声が、それでいて柔らかく温かな声が、空気を渡る。

「辛かったのも、悲しかったのも。だってお前は、」
「黙れ!」

ミザンはかっとなって声を張り上げた。
熱い。
熱い。
耳も、頭も、顔も、心臓も、腹も、手も足も、指先まで。

「黙れ、何を言うかと思えば……はっ、笑わせてくれますね、カミサマ……!」

こんなに熱いのに、それなのに、体が凍りついたように動かない。

「辛い? 悲しい? 私が!? 
黙れ黙れ黙れ! 私ほど幸せに満ち足りた存在が、他にあるものか! 私は、伯爵様のために、」
「それは、本当にお前の意志なのか?ミザン」
「当たり前だ! 私は、私は……っ」
「それが本当に、お前とフィルが目指した未来だったのか!」
「その名を口にするなッ!!」

思わず、怒鳴った。

「その名前を、お前が……あいつのことを知りもしないお前が、口に、するな!!」









自分が誰なのか、もう、分からない。









ミザンは肩で息をして、を睨み付けた。

「知ったような口を利くな……あいつは、私を裏切ったんですよ……ははっ」

腕を振るって、氷柱を投げる。

「貴方が何を勘違いしているか! 貴方が何を思い描いているか、知りませんがね!
世界は、貴方が思うほど美しくなんか無いんですよ!」

銃弾を躱して、メスを投げつける。

「運命にも、夢にも神にも! どうせ裏切られるんだ!」

の釘がミザンに襲い掛かる。
いくつもの雹で、それを打ち砕いた。
黄金色が、ぶつかり合う雹と釘の間を縫って、迫っていた。
襟首を掴まれて、本棚に押し付けられる。

「ぐ……ッ!」

ミザンは使い物にならない右手に再び氷を纏わせた。
背中から貫いてやろうと振り上げた手を、止める。
漆黒が、憤りにも似た光を帯びていた。

「裏切りって、何だか、知ってるか」

先程とはまるきり違う低い声が、体の底を震わせた。

「裏切り、は……」

胸座を掴む手の力が増して、ミザンの言葉を遮る。
その苦しさよりも、漆黒に滲む煌めきに心を奪われた。

「裏切りっていうのは、……っ、相手を信じなきゃ、感じられないことなんだ」

何故、このヒトが。
何故この人の瞳が、今にも涙を溢れだしそうなほど、濡れているのだろう。

「お前は、フィルが愛した世界を、信じてた」

腕の力が抜けるのを感じた。

「……ちがう、」
「運命も、夢も人も何もかも。信じて、愛してたんだろ、心の底から」
「違う」
「フィルは、お前の『世界』だったんだろう?」

違う!
ミザンは叫んだ。
そんな筈がない。
認めたくない。
けれど。
フィルの為にもと、勉強に励んだあの頃。
死にまみれた現実に、裏切られたと感じて。
病院の裏取引に、絶望して。
何故、誰の許しを得て、フィルの描いた夢を穢すのか。
そう怒りに震えて、関係者を皆殺しにした、あの時。

「ちがう……っ」

頬を、熱が伝う。
自分こそ、もう誰にも顔向け出来ないと。
自分こそが、フィルの夢を穢す者だと。
ミザンの信じてきた世界の全て、フィルを、「神」を裏切ってしまったと。

「私は……、俺は……!」

絶望して、もう生きてなどいられないと覚悟して。
そこに突如現れた、新たな神に逃げたのだ。
自分を赦してくれるだけの、神様に。

――ミザン――

いつしか、体を押さえ付ける手は離されていた。
熱い涙が零れる。
何かが競り上がって、喉が詰まる。
狭まった喉の奥から、潰れた声が滲んだ。

「……フィル……っ」









本棚に背を預け、声を絞り出すように、一人の男が涙を流す。
は彼の襟首から離した手を、強く握り締めた。
やっと彼が、「世界」の喪失を嘆けたのならば。
その気持ちは、痛いほどよく分かるから。

「(ミザンは、ノアだ)」

そしてノアは、敵だ。
弁えている。
けれどそれ以前に、彼だって同じ「人間」だ。
人を信じていたから、辛かった。
それが伯爵の言う「神」の思いと、響き合ったのだ。
彼がノアの能力に目覚めてくれて、良かった。
そうでなければきっと、喚ばれたフィルが、ミザンを殺していただろう。

「(よかった)」

彼が、一番大切な人を悲しませる結果にならなくて、本当に良かった。
は右手の銃を強く握った。









ずるずると蹲り、ミザンはしゃくりあげる。

「(何と、愚かしい)」

人間は、この身は。
何と愚かしく、穢らわしいのか。
死して「神」の傍に逝けた存在だけが、裏切りもしない清らかなものなのだと。
自分を欺き続けて、ここまで生きてきた。

「伯爵様……っ」

どうしてくれる。
自覚したミザンはもう、この世界では生きてなどいけない。
こんな罪深い自分は生きてなどいけない。

「……っ、フィル……!」

けれど裏切り者が、どうして「彼」を訪ねることが出来るだろう。
生きる資格が無い。
死ぬ資格もない。
どちらにせよ、千年伯爵とフィル・グレイス、二人の神を裏切ることになる。
泣き崩れるミザンに、そっと降り注ぐ声があった。

「人間は、罪深い。だからこそ同じ人間だけが、その罪を理解できると、俺は思う」

ミザンは顔を上げる。

「人間だけが、人間を赦せるんだ」
「……裏切られても?」

自分で問うたのに、その言葉に涙した。
裏切られ、裏切り、今、またも裏切ろうとする自分も。
自分も、赦されていいのだろうか。

「何度裏切られても? それでも貴方は……赦すと、言うのか? 言えるのか?」
「言うよ」

間髪入れずにが答えた。
漆黒が、まっすぐにミザンを貫く。

「何度間違っても、人間は自分の過ちを正すことが出来るって、信じてるから」

混じりけのない黄金色の笑みに、金色の面影を見た。
が、右腕を上げる。

「赦すよ。お前の望むように、全て」

ぴたりと、鉄の塊がミザンの喉元に添えられた。

「赦すよ、ミザン。もう、苦しまなくていいんだ」

ミザンは大きく息をつく。
余計な力が抜けて、肩が軽くなったように思えた。

「……本当に……お前を見てると、苛々する……っ」

言葉と共に零れた涙が、ひどく温かくて。
銃口を向ける黄金に、祈った。

「神よ」









「福音」

――結合――

「銀の、弾丸」

本来持っていた心を、抱いてきた思いを、大切な思い出を甦らせる。
人間の良心が闇を打ち砕くことを、ただ信じるだけのその力が、身を貫くのを感じた。









「主よ、彼らに赦しを」

言葉と共に立ち去る、足音。
倒れた体。
直にこの部屋も、崩壊に飲み込まれるだろう。
甦る思い出に浸りながら、ミザンは自分の手を見つめた。
肌が、白い。
メモリーは消えたのか。
結局自分は、恩人を裏切った。
けれど代わりに、裁かれた。
赦された。
赦されたのだ。

――ミザン――

投げ出した手を、誰かが掴んだ。
笑って応える。
「フィル」









濡れる紫の宝石をちらと見遣って、は本棚の隙間から元の階段へ飛び下りる。
そのままそこに座り込んだ。
福音を胸元に握る。
痛い。
刻まれた傷よりも、内側が。
心が、心臓が。
痛い。
寒い。
痛い。
切れ切れに息を吸って、吐いた。
情緒も何もない。
もう少し、過去を悼む時間くらい与えてくれてもいいものを。

「……、ノ、セン、ス……っ」

息が、苦しい。
福音を持つ右手を階段に押し付け、左手で団服を握り締めた。
動悸が聞こえる。
焼けるように、痛い。

――お兄ちゃん――

床が揺れた。
崩壊の時が近付いている。
は、顔を上げた。

「……、か、……なきゃ……」

右手で床を押し、体を持ち上げる。
左手を胸元から動かせない。
足に力が入らない。
立ち上がり、震える膝に手をついて、階段を見上げる。

――行かなきゃ

まだ何も終わっていない。
自分は、何のために生かしてくれと、請うたのだ。

「……はっ、――ッ、はぁ……」

そのための痛みだ。
罪の証だ。
だから決して、苦しくなんかないのだと。

――行かなきゃ

は奥歯を噛み締めて、段差に足を掛けた。









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